SACHAL STUDIOS ORCHESTRA『Sachal Jazz』(El Sur / Sachal)

|

SACHAL STUDIOS ORCHESTRA.jpg 故・武満徹氏が「難波田史男を、「画家」という、もう既に充分手垢にまみれた呼称で言うことに、少なからず(私は)抵抗を覚える」と記し、「彼によって描かれたものたちは、自然の優雅な起居、すなわち生命の運動の微細な要素にまで、還元された、星の瞬きとか、陽炎が揺れ動く不可視のつぶやき、水面の燦きのように、歓びと哀しみに打ち震えている」という言葉まで敷衍したときに、私的に想い出すのは葬送歌としての一役割を担っていたニューオリンズ・ジャズ、反抗としてのボサ・ノーヴァの二つの音楽「体系」と「側道」だったりもする。

 「体系の側道」としてのアルバム。

 1曲目のデーヴ・ブルーバック(Dave Brubeck)とポール・デスモンド(Paul Desmond)の言わずもがなのジャズ・クラシックである4分の5拍子の「Take Five」からタブラーの軽快な響きとシタールの絡みが蠱惑的に囲い込む、怪しげなダンス・ホールに迷い込んだようなアレンジメントに驚かされる。間には、スパニッシュ・ギターが午睡ではなく、「舞踏」へのムードを高め、豪奢なストリングスの5拍子が静かに枠の外へと音符をはみ出させる。インプロヴィゼーションのような"ブレーキの遊び"を含みながらも、間延びしない展開で歪な音空間に"5つのテイク(Take Five)"があっという間に消える。

 さて、気になるのは、このサッチャル・スチューディオズ・オーケストラ(Sachal Studios Orchestra)とは何なのか、ということだろう。また、この作品『Sachal Jazz』とは「オーケストラ」と「ジャズ」というタームが並列するとおり、一筋縄ではいかないものであるのは察することが出来るだろう。サッチャル・ジャズ―それ自体はパキスタン北東部とインドの国境に近いバンジャーヴ州の都ラホールにスタジオを持つ音楽制作会社〈サッチャル・ミュージック〉の(2011年になるが)ブランニュー・リリース作品である。〈サッチャル・ミュージック〉の名前自体は何処かで見た人も多いだろう、イヴェントからライヴ、アーティストのディグから幅広く行ない、その界隈の音楽を盛り上げてきており、その生々しい音に拘ったプロデュース・ワーク、ライヴ映像を見ても、そこに電子音の介在があまり感じないように、今回のサッチャル・スチューディオズ・オーケストラも総勢40数名で成り立っているが、20人を越えるヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そして、シタール、ピアノ、ギター、タブラー、エレキ・ベース、パーカッションなど、イザッド・マジード(Izzat Majeed)、ムシュタク・スーフィー(Muthtaq Soofi)という二人の総合プロデューサーを軸に成り立っているオーケストラである。そのオーケストラが過去の古典を今の温度で奏で直してみようというオルタナティヴな試みがこの作品になり、如何にもなシタール、タブラーの音の連鎖からはチルアウト、アンビエント、もしくはイージー・リスニングとして消費され、尚且つ、そういった民族雑貨店のエキゾチズムBGMに似合うようなスタイリッシュな異国情緒を弁えている品の良さが目立つところもないではない。

 2曲目のジョビンの「Desafinado」の変奏もいいが、個人的には3曲目のデイヴ・クルーシン(Dave Grusin)の「Moutain Dance(Raga)」の即興性とトランシーさの内側に人力でグルーヴを高めてゆくような曲にこそ真髄が見える。エレクトリック・マイルス時期のサウンド、ROVO、DCPRGかというような、絶妙に原曲を脱構築して、5分にも満たないにも関わらず延々と続く連続/非連続の断裂を繋ぐうねりが心地好い。4曲目と8曲目に入っている「Garota De Ipanema(イパネマの娘)」は前者がオーセンティックにギター、アコーディオン、通奏にオーケストラを置き、後者は聴く人が聴けば、ポスト・パンク、〈DFA〉界隈の音が持っていたようなダンサブルな要素に即興的にラーガに準拠したリズムはインド音楽の持つ優雅にバイタルな音の狂気性を感じるだろう。

 8曲ともにクラシック、古典といえる曲が並ぶが、アレンジメントの幅と嗅覚、そして、その原曲を考えての調理の仕方は昨今のアラビック・ラウンジなどのタームを後景化し、更に、英国でのアビー・ロード・スタジオでのミックスとマスタリングを行なうという、まるでグローバリゼーションの是の面が見えるようにこの作品の真価を倍加させる。

 ラヴィ・シャンカールもいいだろう、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンも偉大な音楽家だ。ただ、この『Sachal Jazz』には(インド?)パキスタンの音楽の歴史のみならず「文化の後景」を現代のセンスで再生させる。再生された原曲たちはまるで、こういった引き継がれ方を喜んでいるかのように、自由に曲の持つフレームラインだけを彼らに預けている。ジャズ・リスナー、ワールド・ミュージック・リスナー、エクスペリメンタル・ミュージック・リスナーなどのカテゴリーがあるのかは個人的に分からないが、そういった余計な耳を「無化」する美麗さがある。

 そうして、一旦、「無化」された耳で、化学調味料で出来あがった音楽にまた向き合ってみる契機にもなる作品になっていると思う。

 

(松浦達)

retweet