ジェフ・ジャービス『パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ』書籍(NHK出版)

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PUBLIC.jpg かつて、ポール・ヴァレリーは、ヨーロッパとは一つのキャップだと述べた。「キャップ」とは、先端的な意味を含み、つまり、アジアの先端を出たこの場所にこそキャピタルとエイドスを探そうとしたということだが、はたして今、周知の通り、ユーロ圏(注:ヨーロッパという大きいカテゴリーは不備があるので)は金融の問題をベースにして見るも無残な状況に陥穽の中にある。個人的には、そこで昔、「ユーロ」という単一通貨が出来たときに想ったのは、オープン・モラリティ(開かれた倫理性)と周囲協携の形の見えにくさだった。現在では、"Publicness"との造語で翻訳してもいいだろうか。

 クリス・アンダーソンの『フリー』が世界的に売れながらも、概念先行し、もう既にフリーミアムという聖域内での共食いが行なわれていたという事実を周囲が気付いた時には「シェア」という言葉とともに、ソーシャル・ネットワークの台頭と時間差でのパブリック/プライベイトを巡り、「個人情報」を何より商用資源として扱う趨勢が起こってもいた。

 フィリップ・コトラー『コトラーのマーケティング3.0』での対象が1.0は製品中心、2.0では消費者ベース、3.0で価値牽引となったように、ソーシャル・ネットワーク内での価値誘因とビジネスの蝶番を模索する人たちが増えてもきている。

 この度、日本語版として翻訳された『パブリック』は、『グーグル的思考』でも馴染みだろうニューヨーク市立大学院ジャーナリズム科准教授で、メディア・ジャーナリストとしての信頼も高いジェフ・ジャービス(Jeff Jarvis)が執筆者というのもあり、冷静に「現代」を見詰めながら、同時に曖昧に成りゆくパブリック/プライヴェイトの線を再定義してゆく。もはや、ツイッター、YouTube、フリッカー、フェイスブック然り、そういったツール群は当たり前になりつつあり、その他にも日本を問わず、世界中で同工異曲のソーシャル・ツールは跋扈している。そこに広告、アフィリエイトを埋め込み、マーケティングとして囲い込もうとする企業サイドの思惑よりも、どちらかというと、個々の「日常の告白」、「露悪癖」にも近い何か、を自分の生きる現実とアナザー・レイヤー(別位相)としてメタ認知した上で、パブリック・スフィアに参加する姿勢もありながら、直に30億人にもなる世界のインターネット・パーソンたちはますます自らの秘匿を晒しながらも、自分をキャラ化させてもゆく。

 本書は、イントロダクション、パブリックの預言者としてフェイスブックのマーク・ザッカ―バーグに触れ、パブリックからパブリックネスへの転換点のメリット、パブリックとプライヴェイトの歴史、プライバシーを巡る問題、シェアリング産業の事例などをメインにしながら、ドライヴしてゆく。例えば、45頁でグーグルのストリート・ビューが物議を醸した時に、ドイツは2010年の終わりまでに、24万4,000人の市民が自宅、オフィスのモザイク処理をグーグルに請求していたということが書かれている。そこで、Verpixelungsrecht―"モザイク化の権利"という新語を作ったように、モザイク状のコミュニティではパブリックも同時にぼやけるが、論軸の矛盾も出てくる。文化的に正装された場所での振舞いと文化的に内装工事中の場所での振舞い、双方に現代はそれまでの飛距離があるのだろうか、ということ。ジャーナリストや芸能人、公人と言われる層も事務所やフィルターを通さずに「生身の(あくまで私の)言葉」を届けることが可能になったが、その向こう側には監視カメラのような多くの人たちの公の牢獄がある。そして、個々の感覚でブログ群が連なり、拡大してゆく。

 次に、彼はそういった側面を逆手にとって、パブリックネスのメリットについて触れる。昨今、日本でもあった食べログのやらせの問題だけでなく、口コミ、繋がりから拡がる商用効果、つまり、「つながること、能力の資産を持つユニットのネットワーク」の向こう側には、テレビ、メディア、個人の嗜好、行動、心理も「オンライン」にしてしまう可能性があるということが露顕もしていく。フェイスブックでも市場サイドが最も評価するのは、ユーザー数、彼らがアクティヴなのか、誠実なのか、どれだけの繋がりを持っているのか、各ユーザーの認識をしっかりしているか、これらの知的基盤だともいう。旧友、知人から拡がり、実際にチャット、対話を持ち、ビジネスに動くことも枚挙にいとまがないだろう。これまで「他人」だった人が、「他人ではなくなること」、その越境のときのパスポートは自分の履歴、顔写真、日々の報告、写真だけだったりもする。となると、良い意味では「集合知」として何らかのスキーム形成をあらゆる識者を問わず、フラットなユーザーたちにアンケートを取るなりして行なうことは容易にもなる。そして、その「集合知」には鍵を掛けておき、ライバルの業者には見られないようにすればいい。(のかもしれない。)

 但し、そのアグリゲート(集積)の山には、雑多なものも混じってくる。クリアーなデータを取り、タクティクスを描き、マーケットを狙うことが出来るのか、著者の説くパブリックネスの幾つかのメリットへの詰めの甘さが気になるのはオープンド(既に開かれている)ところにプレ・オープン(これから開かれる何か)が会い、翻訳不可能な齟齬の翻訳が起きてきたとき、名誉・知名欲、ビジネスとしての埋蔵金探しだけでパブリックネスの加速は、どう意味付けられるのかに疑念も残る。

 話を進めよう。210頁で触れているロンドンのガーディアンの編集長、アラン・ラスブリッジャーは、ツイッターというツールがジャーナリズムにとって重要な理由をこう挙げている。

・「配信」の手段である。
・「早期警報」の手段である。
・「報告」のツールである。
・「マーケティング」のツールである。
・「多様性」のツールである。
・「変化の媒介」である。
・関心の「長期間持続」を促すものである。

 どれも当然なことといえば当然だが、2011年の3月の日本の大震災のとき、電話や伝達方法が全く機能しなかったときに俄然、ツイッターは効力を発揮した。まだ安全圏の人が持つ有用な情報を被災地で困っている人たちへ向けたRTのバトン。そして、リプライや励まし合い。そこにはパブリックであるからこそのセレンディピィティ(偶発的な出会い)を良質な形で表出せしめたと言えるかもしれない。しかしながら、参入・退出、玉石混淆がパブリック・ソーシャル・ツールの定めの中、現在進行形でツイッターの機能性はどちらかというと、落ちていると言おうか、ムーヴメントへの補助線的な部分が確実に弱まりつつある。

 また、例えば、個人的に中国に行くと、グレート・ファイアーフォールの御蔭でと言おうか、何らかの言葉を検索しようとしても、相当な数が検閲されて出てこないが、そこもパブリックといえば、パブリックの何物でもない。ウィキリークスなどハッキングの事例も目立ち、ソーシャル・ネットワーク絡みの犯罪も後を絶たない。308頁にて、ハーバード・ロースクール・バークマンセンターのローレンス・レッシグ教授の言がある。要するに、「コード」は法律であり、フェイスブックのコードが何を原則公開にするか、非公開にするかを決めれば、それがユーザーとコミュニティの行動を支配する法律になる、という訳だ。

 つまりは、この『パブリック』で著者がまわりくどくも執拗に突き詰めようとした世界観とは「コードにおける自由」なのではないだろうか。プライヴェイト対パブリックはもう匿名対実名、無名対有名ではない。コードの上での「自分自身の公共圏」への個々の倫理観に抵触してくるだけのことかもしれない。筆者は、最後の言葉でこう締める。

「グーテンベルグの印刷機が近代初期の時代にもたらしたものを、これらのツールがこのデジタル時代の初期にいる僕らみなにもたらしている。(中略)パブリックであることがより寛容で信頼できる社会につながることを、僕は願う。だがしかし、この未来は確かなものではない。それは僕たち次第だ。僕たちの新しい世界の形は、僕らにかかっている。このパブリックに。」

 パブリック・スフィアでの希望的な何かとは、について問いかける書になっているだけに、考えさせられる箇所も多い内容になっている。

 

(松浦達)

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