中村一義「ウソを暴け!」(Avex)

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中村一義2.jpg 大江健三郎の比較的、初期の作品に『敬老週間』という短編がある。そこでは、90歳代の老人がもう寝たきりで最期のときを迎えるにあたって、大学生3人がバイトとして雇われ「明るい未来や希望について話す」という簡単に思われるものなのだが、老人の現状分析の視点、冷静なシニシズム、相対化の中で彼等はどんどん閉塞的で希望的な余白のない未来を各々が察知しだし、脳内にせよ、ユートピアの作成は出来ないということで、バイトの最終日前に逃げ出す。オチはブラック・ユーモア溢れるものなので、ここではあえて割愛するが、今、この2012年における「本当」とは「嘘」であり、「嘘めいたこと」は「本当」に裂かれる。裂かれるのは「本当の嘘」ではなく、「嘘の本当」としたら、その状況論とは、大文字の"それ"ではないと思う。"希望"と唱えれば、決して希望が近付かないように、掛け声としての「どう?」こそ、が響く気がする。97年の「状況」に裂かれた部屋から、もたるドラムとハイトーン・ヴォイス、ビートルズ直系の柔和なメロディーと、宅録感溢れるサウンドを背景に、今、10年振りのソロ始動として中村一義は「戻ってきた」。何故に戻ってきた、と表象するのかは、追々筆致するが、100s時における彼のユニティ内での互換承認と直系の言葉、サウンドには明らかな橋本治氏言うところの「結界」があったのを感じたからなのもある。"同情で群れなして、否で通す"はずの彼の「否」が見えなくなる錯誤性。

 静かに、タイトル名ほど過激ではない形で「ウソを暴け!」は紡ぎ上げる。ジョン・レノンの「イマジン」、彼自身の佳曲「笑顔」のときのような柔らかい始まりからじわじわと音が重ねられていきながらも、サイケデリック且つユーフォリックに昂揚してゆくドラマティックで壮大な展開。そこに、《昨日まで 日の光さえ当たらずにいた人が 今を変える》、《君を消さないで》という優しいフレーズ群が挟まってゆく。懇願めいた、「君」へ向けた唄。

 振り返るに、97年の『金字塔』では、自意識内で完全に拗れた部屋の中で少しずつ不特定多数の誰かに向けて声を出しながらも、ソトに出ることに躊躇いを持ち、様子を伺う宇宙人(と、一部メディアでは形容されてもいた)としての視点を内包していた。そこから、皮膚感覚として陽の粒を集めるべく、シングルにもなった「そこへゆけ」であるように、《僕は見ている。夜を塗り替えた花火が蒔いた星を見ている。ツラさのエサになんのはゴメンだから...。》と状況に裂かれてしまった部屋での、また、聴取者や評論家たちの注視の混在された中でのエサになることを拒否すべく、僅かに土手まで出て、「生きている」ことの祝福をただ愛でる98年の『太陽』へと繋げた。

 「太陽」が照る世界には社会が待つ。社会には、ベルクソン言うところの「生の躍動elan vital」が絡んでいる。そこで、万能的なパースペクティヴでアンガジュマンを試みた00年の『Era』における重厚さへシンクし、その対象とは観念で設定された仮想敵だったのか、のちの「キャノンボール」における「死ぬように生きている」人たちに向けての願いと刃だったのか、個人的には当時は見えなかった。その反動からなのか、仲間たち―つまり、100sとのセッションの中で、ライヴ活動もより活発に、世界観も大きさを保ってゆくことになり、清算として自分のパーソナルな過去へと降りる『世界のフラワーロード』で巡り、昨年の『最高宝』で、一つのナラティヴは閉じる。『最高宝』に収められた新曲でこう唄ったように。

《会えない夢を背に、君を天使と呼ぼう。過去も未来も込めて、捧げよう。》
(「愛すべき天使たちへ」)

 過去も未来も込めて。90年代後半から00年代を駆け抜けた彼が繋いだミッシング・リンクとしての「会えない夢」―。それは、俯瞰して鑑みるには相当程度の痛点が感じ取れた。つまり、捧げようとした外部とは、内部だったというイロニカルな閉塞を明象し、また、凪と時化、攻撃と内省、緊張と弛緩の間を行き来している間に、彼の持っていたファニーなセンスや表現のエッジの輪郭がぼやけてしまったのも否めない。どうしても、<出来事>の潜勢力を返還するための活動履歴だったのか、という疑念が擡げるが、個人的には違うと思う。それは、この「ウソを暴け!」を聴けば、分かる。

 現在、世界("セカイ"ではなく)からフレーム・アウトした名もない辺境からの多くの名もなきユースはできる限り、「人間に似る」ような、表現を目指すような胎動があり、その通底するムードから何故か、神経症的な不安、ヒポコンデリア・ベースのものか極端にエスケーピズム的な表現に収斂してもきているサウンドが目立つ。シンセ・ポップ、ベッドルーム・クワイワ、チルウェイヴの亡骸、トロピカリズモへの考慮もいいだろう。しかし、冒頭に触れた、『敬老週間』での大学生たちのように、当初は明るいヴィジョンを語っていても、どうにもリアリティに追い詰められてゆくというディレンマを踏まえた上での失語への近似(虚無)が仄かに浮かぶ。その失語への近似のナイーヴネスという傲岸さに含まれる他者は、そこにいる他者なのか、先取りする「他者の欲望を、欲望すること」ではないのか、も気にもなる。

 中村一義は、「ウソを暴け!」で《今日のウソを暴け/もし 君がちょっとくらい嫌われても 君のウソを暴け/そしたらさ 必ず僕はそこにいるよ》と「君」の「ウソ」さえも暴け、と世界への嘘には向かわない。もしも、『Era』のときであれば、間違いなく、「世界のウソを暴け」、と言っていただろう導線が「今日」に、「君」に変わったのは示唆的であると思う。そして、賛美歌風のコーラスが重なり、《今日の本当を探せ 君の本当を探せ》と反転する箇所で、重力が変わる。重力が変わるということは、嘘を暴くこと≒本当を探すこと、ではなく、嘘に気付くこと≒本当が逸れるという図式内でのメタファーとして「王様」は裸で居るという事実への接近をほどく。

 その王様に名前はない。名前を付けるのは、この曲を聴いた、これからを担う世代の役割かもしれない。「ウソを暴け!」とともにリリースされる「運命」、そして、リミックス・アルバム、ライヴと彼は彼の書替・再定義作業ともいえる活撥な活動に入ってゆく。メトニミー(換喩)として「ウソ」は「暴かれない」。ゆえに、「本当」が「隠匿される」。隠匿された本当に、彼の声の心からの望みは包み込まれる。

《ごらん 一瞬で崩れかけてた世界に また花を咲かせたのは/王様ではなく 君たちだと知ってる》
(「ウソを暴け!」)

 

(松浦達)

 

編集部注:中村一義「ウソを暴け!」は、iTunes Store で先行配信中。

2012年2月15日にCDS「運命/ウソを暴け!」(Avex Trax)としてリリース予定。

コンセプトHP KIKA:GAKU

 

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