January 2012アーカイブ

2012年1月30日

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2012年1月30日更新分レヴューです。

VARIOUS ARTISTS『AHK-toong BAY-bi Covered』
2012年1月30日 更新
SEIHO『Mercury』
2012年1月30日 更新
SACHAL STUDIOS ORCHESTRA『Sachal Jazz』
2012年1月30日 更新
埋火『ジオラマ』
2012年1月30日 更新
DARKSIDE「Darkside EP」
2012年1月30日 更新
きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」
2012年1月30日 更新

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JOHN TALABOT.jpgのサムネール画像

 本来"バレアリック"は、なんでもありの精神と雑食性を指すアティチュード的意味合いが強い言葉だったが、時が経つにつれ、夕日が似合うチル・アウト・ミュージックの総称となってしまい、多様性を失った。"ガラージ・サウンド" "ハウス" "ニュー・レイヴ"なども"バレアリック"と同じ運命を辿ったが、こうした事例は、いつの時代も尽きないものだ。

 なぜこうしたことが起きてしまうのかというと、ひとつは、ほとんどの聴き手やメディアが"歴史的文脈"に当てはめて音楽を捉えてしまうからだろう。新しい音楽が出てきたとき、人々にわかりやすく伝えるうえで"歴史的文脈"を参照とした分析は有効だが、時として分析は、物事の本質を見失わせることもある。このことを皮肉った曲として、筆者がまず頭に浮かべてしまうのは、LCDサウンドシステム「Losing My Edge」だ。それから、ザ・ヴァクシーンズ「We're Happening」。この2曲は、"今というその場"にいることの大切さを訴えると同時に、最先端とされる音楽を聴き、批評家気取りでクールに語る人たちをバカにしているが、特に「Losing My Edge」は、昨今の"歴史なき音楽"の隆盛を予言する内容となっていて、いま聴くと、いかにジェームズ・マーフィーが遠い未来を見つめていたかがわかる。

 チルウェイヴやクラウド・ラップ、そして近年のニュー・ディスコ/バレアリックは、「Losing My Edge」以降のポップ・ミュージックに顕著な"歴史の喪失"を見事に体現しているが、これらのなんでもありな音楽が"歴史からの解放"としてポジティブに捉えられた結果、冒頭で述べた本来のバレアリック精神が戻ってきたのだ。

 このたび、ドイツの《Permanent Vacation》から初のフル・アルバム『Fin』をリリースした、スペインはバルセロナのジョン・タラボット。彼のことは、同レーベルからリリースの「My Old School」で知った。このタイトルと、良い意味で歴史という権威を無視した軽やかなハウス・ミュージックに、筆者は強い興味を惹かれた。「My Old School」リリース後は、ニュー・ディスコ/バレアリック方面にベクトルを向けたミッド・テンポなグルーヴを武器に評価を得ているが、タヒチ80やザ・エックス・エックスのリミックスを手がけるなど、インディー・ロック界からも注目されている。

 そんな彼が満を持してリリースしたアルバム『Fin』だが、《Young Turks》から出した「Families」の路線を進化させた意欲的作品となっている。熱帯雨林のジャングルをイメージさせる「Depak Ine」から始まり、トロピカルなドリーミー・ディスコ、さらにはシカゴ・ハウスをモダンにアップデイトしたトラックなどが、心地良い緩やかな物語を描いている。パンダ・ベアがレイヴをやったようなポップ・ソング「Journeys」以降はサイケデリックな雰囲気に襲われるが、初期のティガみたいなイントロが印象的な「When The Past Was Present」からはアグレッシブな出音になり、聴き手を高揚へ導いてくれる。

 そして、ラストの「So Will Be Now」である。アート・デパートメント「Without You」を想起させるこの曲のために、他の10曲は存在していると言っていい。アンダーグラウンド臭漂うアシッディー・ベースが鳴る「So Will Be Now」は、ユーフォリックな開放感を携えた楽曲が揃う本作のなかでは浮いている。しかし、ドラッギーな快楽主義を鳴らすこの曲こそが、『Fin』という作品の本質であり、本作の正体を示唆している。

 『Fin』は、様々な音楽的要素で構成されたキマイラのような作品だ。それらの要素は、"歴史的文脈"から解放されている。そこに伝統や歴史の重みはないかもしれないが、本来音楽とは、そうした重みを更新しながら発展を遂げてきたはず。そういう意味で現在の音楽を取りまく状況は、日に日に良くなっていると筆者は思う。そして本作は、そんな"今"が生みだした決定打である。

(近藤真弥)

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SPITZ.jpgのサムネール画像《僕にも出来る/僕だから出来る/君を困らせてよろこばす》
(「まもるさん」)

 亡きミシェル・フーコーの晩年の問題設定とは、「自己との関係」だった、68年の政治性を抜き取った穴に新しい空気を吹き込むという行為と近似してもくる。個人的な内奥に持つモラリティ(道徳性)を「生」の内部に介入してきてしまうというシステムを望まないという姿勢を取る、それは本流といったものがあったときの基礎留保案件としての傍流ともいえた。では、傍流を「オルタナティヴ」と訳すとき、実際のところ、それは<反>中央なのか、というと、この現在では疑念も残る。

 今回、スピッツのアルバムのタイトル名は『おるたな』と名付けられている。平仮名で、尚且つ略された形での字面としても不思議な四文字、傍流としての呈示。そこには、ベテラン・バンドになっても日和らない彼らのパンク・スピリットや世の中に迎合しない、アイドル、ダンス・グループ、企画ものに牛耳られたリジッドな現今の日本のいわゆる、汎的な音楽チャート・シーンに対する明確な直訴状のようにも思える。

 『おるたな』は、1999年『花鳥風月』、2004年『色色衣』に並ぶ、新曲やカバー、また、レア曲、そして、シングルでのA面ではない曲(両A面のときもあるが。)を集めたコンセプトの下に成り立つスペシャル・アルバムであり、具体的に内容に触れると、2002年の『Happy End Parade~Tribute To はっぴぃえんど』における「12月の雨の日」のカバーを起点に、シングルでも、アルバムに入っていない曲、新録としてのカバー曲の14曲で構成されているが、『花鳥風月』や『色色衣』とは何処となく温度が違うのは、新録としてのドラマ主題歌としても話題になった原田真二氏の「タイム・トラベル」、惜しくもボーカル・ギターの西山氏が急逝しながらも、今も愛されている叙情性に溢れたバンド初恋の嵐の「初恋に捧ぐ」、そして、花*花のヒット曲「さよなら、大好きな人」のカバーが含まれつつ、それらのアレンジメントが絶妙に『とげまる』以降の空気を踏まえたのか、柔和な真っ直ぐなポップネスで貫かれているというのも大きい。

 最新スタジオ・アルバム『とげまる』、そして、そのツアーでより具現化した捻くれ者、外れ者のバンドが自ら平仮名で"おるたな"とネーミングすることで、浮かび上がる「何か」とはおそらく、まだまだロック・ミュージックがクラスタリングされず、フラットに様々な人たちに届き、感性を歪ませるものであって欲しいという制度内改革にも近いものだと思う。最近、ファン向けの会報誌でお気に入りに、0.8秒と衝撃の名前が挙がっていたように、スピッツというバンドは「今」をいつも大事に見詰め、同時に「ポップ/オルタナティヴ」の境界線を常にロールオーバーする嗅覚に長けてきたところがある。だからこそ、大きなイヴェントを主催しても、アリーナ公演を決行しても、コンシスタンス(共立性)が共約されなかったりもする独自の「プロセス」を描く。そういう意味では、今回の作品ほど「プロセス」の共時リズムに沿ったものは無い気もしてくる。

 冒頭の「リコリス」は、04年のストリングスが入り、高揚感に溢れたシングル「正夢」に収められていた一音形成でサビが成り立つ拡がりのある曲で、そこに彼ららしい《となりの町まで/裏道を歩け/夕暮れにはまだあるから》という歌詞を草野氏の伸びやかな声で歌い上げる。裏道を歩くことで着く、となり町を目指していたバンドのブレイクは思えば、「誰も触れない二人だけの国」の造成だったとしたならば、相変わらず、その国名を今、リライトする可能余地を持ったままで、駆け抜けてもいるということだろうか。3曲目の07年のシングル「ルキンフォー」収録のザラザラした質感のギターロック「ラクガキ王国」辺りは、このアルバム・タイトルを象徴しているともいえるが、肝は04年のヒット曲の「スターゲイザー」とともに既発済ながら、尖った歌詞とサウンドで、"惑星のかけら"を掻き集めて、"鳥になって"何処かへ行ってしまいそうな儚さがある「三日月ロック その3」かもしれない。『三日月ロック』というアルバムがあったが、その題目に、更に「その3」がつくという1曲。切なさに裏打ちされたメロディーと最近の彼らに目立つ「大文字」が錯乱した、どことなくスキゾなムード。

《すぐに暖めて/冷やされて/三日月 夜は続く/泣き止んだ邪悪な心で/ただ君を想う》
(「三日月ロック その3」)

 泣き止んだ邪悪な心―この言葉に孕む意味の二重性はどうなのだろう、泣き止む邪悪な心で君を想うときに、その君は本当に想われているのか、捨てられてしまっているのか、明瞭にはならない。主体性の生産装置としてここでの「君を想う」は破綻している。ゆえに、君の名指しにも繋がる。名指しされた君は、いずれ、形を変える。歳を取るのではなく。そこから、鍵盤が撥ね、軽快なアレンジメントな心地好い原田真二氏の「タイム・トラベル」のカバーの小気味良さ、優美で『空の飛び方』前後の雰囲気をも彷彿とさせる07年のシングル「群青」に入っていた「夕焼け」でのたおやかさと、『おるたな』というよりは、フレキシブルな形でバリエーションに溢れた曲が続く。その中でもやはり、興味深いのは、初恋の嵐の「初恋に捧ぐ」のカバーだろうか、性急かつ非常にポップな展開、コーラス・ワークに再構築することで原曲が持っていた淡さを今に通じる健やかさに変換した、そこは彼らの長年のキャリアとポテンシャルとアンテナの鋭さを感じる。

 「整合性」という意味では、『花鳥風月』、『色色衣』よりは纏まりがある。はみ出しはしないが、それでも、歪な構造は保ったままで、スピッツという反骨精神が明瞭に示された、09年の「君は太陽」収録の「オケラ」で終わるというのは彼ららしいところではあるのは流石だと感じる。

《もっと自由になって蛾になってオケラになって/君が出そうなカード/めくり続けてる/しょっぱいスープ飲んで/ぐっと飲んで涙を飲んで/開拓前の原野/ひとりで身構えている》
(「オケラ」)

 輝くほどに不細工なモグラのままでいたかった彼らのベースは変わらない。

 「変わった」のは止むを得なくも、世の中サイドなのかもしれない。参照点として、『おるたな』は各個体の孤独である可能性を想像する不可能性までの裏道を用意する。そこで、人が孤独になるということは個体として規定された上で、権利と所有における自律源泉と見なされるときのことを指すとしたら、そのときを形而上学的に「真ん中」から許す、「プロセス」が見える。真ん中から是認するプロセスこそが、オルタナティヴとしたら、『おるたな』とはあらゆる即時的な決定や性急な判断を遅らせる力を持った作品になっている気がする。

 スピッツは、まだ開拓前の原野で身構えて、泣き止んだ邪悪な心で「君」を想う。悲しい程に綺麗なまっさらな夕焼けを待つべく。終わりなんて決める必要はない。

《君のそばにいたい/このままずっと/願うのはそれだけ/むずかしいかな/終わりは決めてない/汚れてもいい/包みこまれていく/悲しい程にキレイな夕焼け》
「夕焼け」

 

(松浦達)

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X-PRESS 2.jpg 「アシッド・ハウスのスピリット、ここで一言でいうのは難しいが、あえて言うならウェイ・オブ・ライフ、生き方なのだ」

 上記の一文は、エクスプレス2にとって最初のアルバム『Muzikizum』のライナー・ノーツから引用させてもらった(執筆は久保憲司さんです)。

 ここでクボケンさんは「生き方」と表現しているが、僕はちょっとニュアンスを変えて"精神"と表したい。そして、エクスプレス2の"精神"とは、言うまでもなくセカンド・サマー・オブ・ラブだ。とはいえ、当時を懐かしみ説教するわけじゃないし、むしろ筆者は懐古主義、例えば、80年代末~90年代前半のダンス・クラシックを次々と繰りだし、当時の雰囲気を再現しただけのパーティーには怒りすら覚える。これらの多くは、"バレアリック(なんでもあり)で最先端の音楽を鳴らしつづける"というセカンド・サマー・オブ・ラブの精神を理解できていない(特に音楽的な部分に関して)。

 その点、オリジナルとしては『Makeshift Feelgood』以来約6年振りとなるアルバム『The House Of X-Press 2』をリリースしたエクスプレス2は、ちゃんと精神を理解し引き継いでいる。アート・ワークやアルバム・タイトルからもわかるように、バック・トゥー・ルーツを意識したハウス・ミュージックが本作を占めているが、スエノ・ラティーノ「Sueno Latino」を引用した「This Is War」や、トライバルな「Opulence」「Get On You」、セクシーなヴォーカルが印象的な「Let Love Decide」など、節々でハウス愛が迸る濃厚なダンス・ミュージック・アルバムとなっている。

 元ザ・ミュージックのロブ・ハーヴェイをフィーチャーした「The Blast」、ジェームズ・ユールが参加したアンセム「Time」といったトラックも秀逸なポップ・ソングとして楽しめるが、エクスプレス2の凄さが一番わかりやすく出ているのは、"ハマる"タイプのトラックが揃う「Frayed Of The Light」以降の流れ。特に「Frayed Of The Light」「Lost The Feelin'」「Million Miles Away」は、シカゴ・ハウスと90年代前半のUSハウス、そして最新ダンス・プロダクションを巧みに融合したトラックに仕上がっている。

 2009年にアシュレイ・ビードルが脱退し、ロッキー/ディーゼルのデュオとなったエクスプレス2だが、だからこそ、自分達のルーツに立ちかえり、バイタリティーあふれるトラックを生みだせる。こういったタフな一面も、セカンド・サマー・オブ・ラブの精神を正当に継承しているからこそだ。

 

(近藤真弥)

 

 

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MUSETTE.jpg この作品を聴いて、ふと思ったのは〈生の朦朧性〉、またはそこに埋没した耽落のことだった。「生の事実」の回路を通して、もう一度、曖昧なものを取り戻すための媒介としての音楽であり、あるタームではこれはエスケーピズムの音楽として捉えられるだろうが、個人的には自身の在り方の輪郭を確かめさせてくれる、逸脱という本質に感応した。

 逸脱という本質として、本当に音の触感(質感ではなく)が良い。懐かしくも、敢えてそういった懐古主義を狙いながらも作為性の見えない、作家主義経由のマジカルな機微。浮遊感を伴うアナログで夢幻のような音空間。音響自体には、竹村延和氏の諸作、初期のムーム(Mum)や一時期の〈Rune Grammofon〉界隈のアーティストたちに通じるレトロで牧歌的な誘眠作用もある。そういう意味では、ヒプナゴジック・ポップたるチルウェイブ、インディー・アンビエントの水脈を辿り、スウェーデンから紡がれた「小さい音で、ベッド・ルームで聴くための音楽」にも思えてしまうが、それらとはどうも違うと思う。

 少し説明を入れよう。ミュゼットとは、スウェーデンのヨエル・ダエル(Joel Danell)のプロジェクト。もはや、本国ではIKEAのCM音楽「Air On The G String」を手掛けるなど知名度も高いアーティストであり、09年のファースト・アルバム『Datum』の美しく叮嚀に編み込まれた音響の巧みさも日本でも局地的に愛されてもいたが、3年振りとなるこの『Drape Me In Velvet』では着実に深化したというよりも、リュック・フェラーリの言うところの「ミュジーク・アネクドティーク」、つまり、"逸話的音楽"としての物理学的アプローチが要所で伺えるところが興味深い。本作の制作にあたって、彼は、親戚から多くの数を譲り受けた50年代から60年代のカセット・テープやオープンリール・テープに音を詰め込んでいったという。配信、デジタル文化やCDというパッケージング・カルチャーと比して、今はテープ音楽として音源を敢えてリリースするアーティストも増えているのは周知かもしれない。それは、「テープ音楽」というのは摩耗と自然の割れが発生するものであり、フラジャイルな一回性、偶然性もときに帯びるからなのもあるだろうし、そういった形式を取ることにより、作家精神を表象させる意味も含むからだろうか。

 ちなみに、「テープ音楽」に関しては、音楽評論家のエリック・ソーズマンが「電気的なフィルターの使用、音響付加価値の使用、テープの環状連結、音の強さのコントロール、テープ・スピードの変化などがあり、テープはまた、短く切り刻んで、継ぎ接ぎすることができる。(中略)音の性格を変えるさいにも、たとえば、もとの音とまったく別の音に変えてしまうこともできれば、非常に微細な変化もつけることも可能である。さらに、こうして変化したものを極端なものと極端なもの同士、激しいコントラストをつけて並置することもできるし、逆に、全体が徐々に変化するよう、あらゆるタイプのグラデーションをかけることもできる。」(『20世紀の音楽』エリック・ソーズマン/松前紀男・秋岡陽訳、東海大学出版会より)、と記しているが、今作での大事な部分は「グラデーション」という部分かもしれない。この作品は、本当にぼんやりと聴いていると派手な意匠、起伏がないので、あっという間に12曲、36分ほどを聴き終えてしまう(注:ちなみに、日本盤には「Over And Out」というボーナス・トラックが収録されている)。

 ピアノが遠く霞むみたく鳴り、ザラッと質感に角のないビートが刻まれる1曲目の「CouCou Anne」から一気に彼の世界観に引っ張り込まれ、まるでいつの時代の音楽かと想わせるような艶めかしいメロディー・ラインが浮かぶ2曲目の「Wuzak」と、繋がりを切ることはなく、テープ同士が結びつき、そのざらつきさえも音楽にしてゆく。どこかで聴いたことがあるような音、いつかの佳き時代のモノクローム映画の後ろで流れていたような柔らかくもロマンティックな音が次々と「留保」されてゆく。しかし、あくまで現代のアーティストであるというのが分かる6曲目の「Little Elvis」辺りのフランスのエールにも通じる実験性と優美なサウンド・シークエンスの融和が見えるところだろうか。決して、彼は懐かしさを狙い、想うためにこの作品を編み上げたのではないのは、緻密に配置されているサウンドの響きやメロディーの柔らかさと絶妙な音の揺れからも伺い取れる。タイトルが如何にもな、8曲目の「Night Night Night」などはどんな国の人たちが聴いても、何らかの慕情をおぼえてしまうのではないか、という可愛らしくも綺麗なテープの歪みがある。アナログ・シンセも効果的に活かされ、ピアノの旋律が仄かに馨る。そこに、テープ音楽独自の音割れとグラデーションがじわじわと見え隠れし、決して壮大な展開もドラマティックな盛り上がりもなく、引き延ばされたままの時間が宙空に浮かぶ。

 引き延ばされたままの時間で「不在による現前」沿いに、生の朦朧性の認知を想い出すことが出来るかのような、そんな感覚を得ることが出来る作品になっていると思う。

 

(松浦達)

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YPPAH.jpg 振りかえると、ネットを発祥としたチルウェイヴは、ほんとに重要な現象だったと思う。トリルウェイヴ/クラウド・ラップといった発展型だけでなく、その影響はポップ・フィールドにまで及び、最近盛りあがりをみせている関西ビート・ミュージック周辺にも、チルウェイヴの影を感じる。

 そして現在、チルウェイヴの持つメランコリックなアトモスフィアは拡散し、その種子が発展を遂げていてる最中だ。こうした動きにジャストなタイミングでイパは、《Ninja Tune》からサード・アルバム『Eighty One』(このタイトルは、ジョーが生まれた年だそうです)をリリースした。

 幼い頃の記憶もインスピレーションのひとつとなっている本作に対し、イパことジョー・コラレスはこんなコメントを残している。

 「様々な時代の思い出だね。当時の気持ちをメロディに書き出そうとしたんだ。子供の頃って、明確に表現できないテーマのようなメロディがあったりするだろう? もう少しではっきりと聴き取れそうメロディというか。しかも過去に聴いたことのある実際のメロディとまったく異なるものというか」

 確かに本作は、ここではない"どこか"を描きだしたドリーミーな音楽であり、"非言語的空間"を作りあげている。キラキラとした透きとおるような音像はひたすら温もりにあふれ、シューゲイザーを彷彿とさせる音に昨今のビート・ミュージックを掛けあわせたサウンドは、聴き手の想像力を掻きたてる。

 また、先述のチルウェイヴ以降のメランコリックな世界観に基づいた、サイケデリックかつ流麗なグルーヴも素晴らしい。メロディアスなシンセや生楽器によるオーガニック・サウンド、そして、本作でヴォーカルを披露しているアノミー・ベルの歌声も、サイケデリックな雰囲気を醸しだすのに一役買っている。これらのサウンドが生みだすユーフォリックな恍惚感は、一聴の価値あり。

 

(近藤真弥)

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root13.jpg "Quiet Rock=静かに沸騰する音楽"が、この作品には詰まっています。なんて大袈裟なことも言いたくなるぐらい気に入ってしまった、関西在住の3人組の1st ミニ・アルバム。一言で言うなら、最近流行のギター・ロックなバックに線の細いヴォーカルが乗った音楽、なんですけど(本当にそういう、同じようなバンドが最近多くて少し残念)、その線の細いヴォーカルが一歩間違えると不快に感じるぐらい癖があって、そこが逆に良いんです。ユニークかつ絶妙な技を駆使して楽曲それぞれで違った顔を作りあげてたりもしますしね。

 そして、心のひだに寄り添うような優しいロックに耳を惹き付けられるのは、彼らの秀でたメロディーセンスがあってこそ。ちょっと生意気な、でも丹念に選ばれた素敵な言葉が並ぶ歌詞もグッときます。華麗なバタフライ泳法で音楽の海を掻き分けていく彼らの勇ましい姿が、このアルバム聴いてると浮かんでくるんですよ。興奮度がじわじわ高まっていく佳曲揃い。聴けばきっと、トリコでしょう。

 

(粂田直子)

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西島大介.jpg 「しょーこー、しょーこー、あさはらしょーこー!」そんな歌がテレビから聞こえていた1995年。その年、日本では阪神淡路大地震があり、オウムによる地下鉄サリン事件が起きた。「おめでとう、おめでとう、おめでとう!」と『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメの最終回で、主人公の碇シンジがみんなにそう言われたあの最終回。漫画原作者であり、編集者である大塚英志はこれを「人格改造セミナーだ」と言った。

 西島大介氏の最新刊である『I Care Because You Do』という漫画は、その時代を描いている。この物語は、作者自身にとっての三人の神様を巡る物語だ。庵野秀明を崇拝する少年、リチャード・D・ジェームスに酔いしれる少年、そして、YOSHIKIを知った少年―西島氏の分身でもあるだろう三人の高校生たちが、「終わると思っていた世界」が終わらずに、でもある意味で終わった90年代を通りすぎていく漫画である。

 西島大介は早川書房より漫画家として『凹村戦争』でデビューする。同じく早川書房より出した『アトモスフィア』では増殖していくドッペルゲンガー化する世界を描き、スター・ウォーズ・サーガ的な科学と魔法が対立している世界である『世界の終わりの魔法使い』シリーズ、同作の四巻目『世界の終わりの魔法使いⅣ 小さな王子さま』は今作と同時発売である。ベトナム戦争を舞台に描くボーイ・ミーツ・ガールな『ディエンビエンフー』などがある。

 今作の中で庵野秀明と『エヴァ』にハマっている少年は、付き合っている彼女とオザケンの事を話したりする。そういう時代だったのだ。渋谷系の王子が旅に出る前の95年。そして、庵野秀明にハマった事を思い出しながら『トップをねらえ!』について考えたことのナレーション的な台詞がこれである。

「とにかく引用の果ての真剣さに僕はしびれた。明らさまなパクリの中にも魂は宿る。...って アレ? それってオザケンと同じか。元ネタありきのサンプリング感覚」

 タランティーノ以降、ヒップホップ以降の世界での表現としてのサンプリング感覚。オリジナルとコピーとは何かを巡る問題や捉え方についての考え。

 西島大介は大塚英志の弟子筋にあたる。大塚英志を長年読んできた僕が西島大介を知ったのも、『新現実』という大塚英志の作った雑誌に載った漫画だった。それが後の『凹村戦争』に繋がる。大塚英志が語るオリジナルとコピー問題は昔からあった。近年では代表作でもある『多重人格探偵サイコ』においてもスペアという問題で現れているし、『多重人格探偵サイコ』は目玉にバー・コードを持つ殺人者たちの物語だが、バー・コードとは所詮大量生産という証でしかないというオリジナルを巡るテーマが根本に流れる。

 西島大介は『アトモスフィア』において主人公の前に現れるドッペルゲンガーがどんどん増殖し、その世界すらも並行世界のように世界すらもドッペルゲンガー化し増殖していく世界を描く。増え続けると、もはやオリジナルとコピーの区別はほぼなくなってしまう。「オリジナルとコピー」。僕とは一体何者なのか? 何かを創る時に影響を受けたものから逃れられない複製としての表現。もはや"n次創作"が溢れる世界において。

 『I Care Because You Do』は90年代に思春期を過ごした者にとっては懐かしい空気感を持つ漫画だ。そしてノストラダムスの予言はあたらずに、大地震が来ても宗教団体のテロが起きても世界は終わりはしなかった。だけど主人公である三人の世界はある意味で終焉し、彼らはその先を生きて現在までが描かれている。かつての少年たちは、もう三十代に入っている。もはや95年は近過去だ。カッコわるくみっともなくてダサイ、でも何かを信じてたあの頃。だからこの物語は彼らにとっての神様たちと彼らが別れていく物語だ。これは90年代に青春を過ごした彼らの通過儀礼の物語。とても哀しく、愛おしい物語。

「パターン青、使徒です。使徒ってテクノっぽくね?」
「心の傷、エンドレス・レイン」

 西島大介の漫画は、コマに台詞しかないものが続いたりする。文学的な部分がありながらも、絵がなくてもそれはやはり漫画だ。西島氏とさやわか氏が主催している『ひらめき☆マンガ学校』という参加者全員を漫画家にするという企画があるのだが、その一学期をまとめたものが講談社BOXより出ているので読んでみてほしい。表現をどう考えているかがよくわかるし、マンガ以外の表現にも有効的なものがたくさんある。

 昨年2クール放映されたアニメ『輪るピングドラム』も物語のバック・グラウンドにあったのは地下鉄サリン事件だった。そこで描かれた95年から現在に至る間に、かつての少年少女たちは、それまでの倍の時間を生きて三十代になっている。当時よりも酷いかもしれない日本の現状の中、あの頃の僕らと同じ思春期の子供に、そして現在の僕らにむけた作品が現れてくるのは当然の流れなのだろう。僕らが居た時間の肌触り。僕と趣向は違うけど、知っている温度の時代がそこにはある。今の若い世代は、どう感じるんだろうか。

 『I Care Because You Do』を読むと90年代に思春期を過ごした者のノスタルジアが見事に昇華されていて、最後は泣きそうになる。西島作品の中でこの先一番好きになっていくかもしれない、あの頃と95年から、どんどん時間が過ぎれば過ぎるほどに。

 僕のゼロ年代の神様も三人いるけどここでは教えない。

《神様はいない。けど、いた。'90年代の終わり頃に。
もちろん麻原彰晃じゃなくて。
リチャード・D・ジェームス、庵野秀明、そしてYOSHIKI。
これが僕の神さま。なんてことだ、三人もいる。
'90年代の話を書こうと思う。本当のお話、本当の物語を。
神さまに、置いてきぼりにされた瞬間を。
'90年代のどんな事件より、どんな災害より、
もっと決定的に世界を終わらせてしまった出来事を。
彼がステージに姿を現してくれなかったあの日のことを。
あのテレ東のアニメの最終話を。解散と突然の悲劇を。
ほんのちょっと遅れてやってきた、本当の結末。
三人の神さまに、この物語を捧げる。
アイ・ケア・ビコーズ・ユー・ドゥー。》

  そろそろ夕方のテレビが始まる。急いで帰らなくちゃ。

 

チャンネルをテレ東に
リモコン持ったら速やかに
フルカラーのまたたきが
ブラウン管からあふれだす
伝えたい言葉は I LOVE YOU
口をついて出る I WANT YOU
愛の言葉は I LOVE YOU
君に届けたい I NEED YOU》
(相対性理論「テレ東」)

※西島大介「ゼロ年代最後の年に。まえがきにかえて」より。

 

(碇本学)

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中村一義2.jpg 大江健三郎の比較的、初期の作品に『敬老週間』という短編がある。そこでは、90歳代の老人がもう寝たきりで最期のときを迎えるにあたって、大学生3人がバイトとして雇われ「明るい未来や希望について話す」という簡単に思われるものなのだが、老人の現状分析の視点、冷静なシニシズム、相対化の中で彼等はどんどん閉塞的で希望的な余白のない未来を各々が察知しだし、脳内にせよ、ユートピアの作成は出来ないということで、バイトの最終日前に逃げ出す。オチはブラック・ユーモア溢れるものなので、ここではあえて割愛するが、今、この2012年における「本当」とは「嘘」であり、「嘘めいたこと」は「本当」に裂かれる。裂かれるのは「本当の嘘」ではなく、「嘘の本当」としたら、その状況論とは、大文字の"それ"ではないと思う。"希望"と唱えれば、決して希望が近付かないように、掛け声としての「どう?」こそ、が響く気がする。97年の「状況」に裂かれた部屋から、もたるドラムとハイトーン・ヴォイス、ビートルズ直系の柔和なメロディーと、宅録感溢れるサウンドを背景に、今、10年振りのソロ始動として中村一義は「戻ってきた」。何故に戻ってきた、と表象するのかは、追々筆致するが、100s時における彼のユニティ内での互換承認と直系の言葉、サウンドには明らかな橋本治氏言うところの「結界」があったのを感じたからなのもある。"同情で群れなして、否で通す"はずの彼の「否」が見えなくなる錯誤性。

 静かに、タイトル名ほど過激ではない形で「ウソを暴け!」は紡ぎ上げる。ジョン・レノンの「イマジン」、彼自身の佳曲「笑顔」のときのような柔らかい始まりからじわじわと音が重ねられていきながらも、サイケデリック且つユーフォリックに昂揚してゆくドラマティックで壮大な展開。そこに、《昨日まで 日の光さえ当たらずにいた人が 今を変える》、《君を消さないで》という優しいフレーズ群が挟まってゆく。懇願めいた、「君」へ向けた唄。

 振り返るに、97年の『金字塔』では、自意識内で完全に拗れた部屋の中で少しずつ不特定多数の誰かに向けて声を出しながらも、ソトに出ることに躊躇いを持ち、様子を伺う宇宙人(と、一部メディアでは形容されてもいた)としての視点を内包していた。そこから、皮膚感覚として陽の粒を集めるべく、シングルにもなった「そこへゆけ」であるように、《僕は見ている。夜を塗り替えた花火が蒔いた星を見ている。ツラさのエサになんのはゴメンだから...。》と状況に裂かれてしまった部屋での、また、聴取者や評論家たちの注視の混在された中でのエサになることを拒否すべく、僅かに土手まで出て、「生きている」ことの祝福をただ愛でる98年の『太陽』へと繋げた。

 「太陽」が照る世界には社会が待つ。社会には、ベルクソン言うところの「生の躍動elan vital」が絡んでいる。そこで、万能的なパースペクティヴでアンガジュマンを試みた00年の『Era』における重厚さへシンクし、その対象とは観念で設定された仮想敵だったのか、のちの「キャノンボール」における「死ぬように生きている」人たちに向けての願いと刃だったのか、個人的には当時は見えなかった。その反動からなのか、仲間たち―つまり、100sとのセッションの中で、ライヴ活動もより活発に、世界観も大きさを保ってゆくことになり、清算として自分のパーソナルな過去へと降りる『世界のフラワーロード』で巡り、昨年の『最高宝』で、一つのナラティヴは閉じる。『最高宝』に収められた新曲でこう唄ったように。

《会えない夢を背に、君を天使と呼ぼう。過去も未来も込めて、捧げよう。》
(「愛すべき天使たちへ」)

 過去も未来も込めて。90年代後半から00年代を駆け抜けた彼が繋いだミッシング・リンクとしての「会えない夢」―。それは、俯瞰して鑑みるには相当程度の痛点が感じ取れた。つまり、捧げようとした外部とは、内部だったというイロニカルな閉塞を明象し、また、凪と時化、攻撃と内省、緊張と弛緩の間を行き来している間に、彼の持っていたファニーなセンスや表現のエッジの輪郭がぼやけてしまったのも否めない。どうしても、<出来事>の潜勢力を返還するための活動履歴だったのか、という疑念が擡げるが、個人的には違うと思う。それは、この「ウソを暴け!」を聴けば、分かる。

 現在、世界("セカイ"ではなく)からフレーム・アウトした名もない辺境からの多くの名もなきユースはできる限り、「人間に似る」ような、表現を目指すような胎動があり、その通底するムードから何故か、神経症的な不安、ヒポコンデリア・ベースのものか極端にエスケーピズム的な表現に収斂してもきているサウンドが目立つ。シンセ・ポップ、ベッドルーム・クワイワ、チルウェイヴの亡骸、トロピカリズモへの考慮もいいだろう。しかし、冒頭に触れた、『敬老週間』での大学生たちのように、当初は明るいヴィジョンを語っていても、どうにもリアリティに追い詰められてゆくというディレンマを踏まえた上での失語への近似(虚無)が仄かに浮かぶ。その失語への近似のナイーヴネスという傲岸さに含まれる他者は、そこにいる他者なのか、先取りする「他者の欲望を、欲望すること」ではないのか、も気にもなる。

 中村一義は、「ウソを暴け!」で《今日のウソを暴け/もし 君がちょっとくらい嫌われても 君のウソを暴け/そしたらさ 必ず僕はそこにいるよ》と「君」の「ウソ」さえも暴け、と世界への嘘には向かわない。もしも、『Era』のときであれば、間違いなく、「世界のウソを暴け」、と言っていただろう導線が「今日」に、「君」に変わったのは示唆的であると思う。そして、賛美歌風のコーラスが重なり、《今日の本当を探せ 君の本当を探せ》と反転する箇所で、重力が変わる。重力が変わるということは、嘘を暴くこと≒本当を探すこと、ではなく、嘘に気付くこと≒本当が逸れるという図式内でのメタファーとして「王様」は裸で居るという事実への接近をほどく。

 その王様に名前はない。名前を付けるのは、この曲を聴いた、これからを担う世代の役割かもしれない。「ウソを暴け!」とともにリリースされる「運命」、そして、リミックス・アルバム、ライヴと彼は彼の書替・再定義作業ともいえる活撥な活動に入ってゆく。メトニミー(換喩)として「ウソ」は「暴かれない」。ゆえに、「本当」が「隠匿される」。隠匿された本当に、彼の声の心からの望みは包み込まれる。

《ごらん 一瞬で崩れかけてた世界に また花を咲かせたのは/王様ではなく 君たちだと知ってる》
(「ウソを暴け!」)

 

(松浦達)

 

編集部注:中村一義「ウソを暴け!」は、iTunes Store で先行配信中。

2012年2月15日にCDS「運命/ウソを暴け!」(Avex Trax)としてリリース予定。

コンセプトHP KIKA:GAKU

 

2012年1月23日

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