VARIOUS ARTISTS『Noise & Chill Out Ethiopian Groove Worldwide』(Alter Pop / Buda Musique)

|

VA ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE.jpg 90年代前後、日本では多くの世界の音楽、民族音楽がこぞって国内盤化、輸入盤として活性を呈して、それは「ワールド・ミュージック」という粗雑なカテゴリーで陳列されることとなった。しかし、同じくして、旧来の西欧音楽に倦んだ人たちやリスナーの耳を捉えたのと同時にエキゾチズム趣味として消費されることも否めない部分があった。何かの新しさをそこに視るのは、西欧優位価値観/非西洋圏へのバイアス・イメージ下での認知閾での未知を既知に置き換える児戯としての側面もあったからだろうか。「私」と「他者」を分かつエスパルマン(間隔化)、アルテル・エゴ(他我)に浮かぶ固形分化。再自己固有化の運動連続体で仄かに潜む偽装的な異国情緒。その「情緒」はワールドの中にいる私を脱化もせしめた。

 その中でも、94年に出たコンピレーション・アルバム『エチオピアン・グル―ヴ』の拡がりとその多様性且つ雑種でバイタルな音楽には唸らされた人たちが少なからず居たのは知っている人もいるかもしれないし、体感した人もいるかもしれない。ソウル、ファンク、ポリリズミックなグルーヴ、更には、ジャジー且つメトロポリタンな風情のアーバン・ポップ、アンビエンスまでを跨ぎながらも、アプレ・ゲール(WW2)以降で芳醇に培われたエチオピアというカルチャーの深度は国境を越える何かがあった。

 今回、紹介するエチオピーク・シリーズのコンセプターのフランシス・ファルセト選曲の2枚組のアルバム『Noise & Chill Out Ethiopian Groove Worldwide』は、2012年の座標軸としての一つの参照点を刻印する良質なものになっている。エルヴィス・コステロ、トム・ウェイツ、パティ・スミス、アルチュール・Hなどのアーティストたちも、エチオピアの音楽に魅せられたという事例に枚挙にいとまがないが、何故、魅せられるかという理由の一要素がこの作品には詰められている。今や、フェレンジ(外国人、エチオピア人ではない人たち)に門戸が拓かれた扉の向こうには90年代前後の未知から既知を置き換える文法の増設に留まらない。


 ディスク一枚目の〈ノイズ・サイド〉では、ダヴ・コロッサス(DUB COLOSSUS)の「Guragigna」のジャジーでオリエンタルなグルーヴにフィメール・ボーカルが可憐に躍る曲で幕を開ける通り、エチオピア人だけの音楽に限らず、フェレンジ、エチオピア人とフェレンジとの演奏の火花が弾ける。エチオピア音楽には、他のアフリカ音楽にあるようなこぶしの効きもあるが、もっと自由な領域で音楽を調理する頼もしさがある。5曲目のアレクソ(Alexo)はフランス人とエチオピア人の混ざったユニットで、「Tetchawetu!」のミニマルなビート、パーカッシヴな反復からクラールなど混ぜ、静かなトランシーさを齎す。3分半ほどの中の精緻な設計図には、音響的な面白さもある。7曲目のデレブ・ジ・アンバサダー(Dereb The Ambassador)の「Etu Gela」における歌唱もフィジカルで良い。13曲目のアラット・キロ(Arat Kilo)の「Addis Polis」内のスイングするスパイ映画のサントラのようなスリリングなうねりも軽快で、〈NOISE〉と名付けられている割には、切り立った部分よりもリズムの多彩さとその背景の各々のアーティストのエチオピアを巡る想いに心の琴線が揺さぶられる内容になっている。

 そして、何よりも二枚目の〈チルアウト・サイド〉が白眉だろう。エチオピア音楽には、獰猛性と多文化的次元の吸収力、咀嚼力が注視されがちだったが、実はメロディー・ラインや歌唱には日本で言う童歌のような、ブラジルで言う"サウダージ"のような郷愁を誘うものも少なくない。例えば、エチオピアのフィメール・アーティストのゼリトウ(Zeritu)の「Athidebegn」には刹那さと汎的に世界のポップ・ナンバーと比べても、遜色のないエレガンスとフィールドが見える。また、日本人としても、07年の『ペンタトニカ』も記憶に新しいサックス奏者の清水靖晃氏の参加(11曲目、Yasuaki Shimizu & Saxophonettes名義「Tew Semagn Hagere」)とその静かな解釈(日本語で歌っている)も絶妙だ。クラブ・ジャズ、イージー・リスニング、ヒーリング・ミュージックという意味が現代では変容しながらも、このコンピレーションに宿る"なだらかに還る近代感"は懐かしさも憶えるのは事実だ。その懐かしさはしかし、退歩ではなく、最近のフィル・スペクター再評価のように、商業音楽としての機能性の多寡よりも、音楽が包含する元来の語彙の多さを示すものになっている好ましさを感じる。

 この作品と結びつき、現代の渾沌の中で線引きとカテゴライズの中で窒息気味になりかけている様々な音楽や音楽そのものを愛好する人たちがクラスタリングの共犯関係を抜けて、このアルバム・ジャケットのようにハンド・イン・ハンドする絵を夢想したい。

 ここから、細分化された世界を繋ぐ微かに新しいグルーヴを感じる。

 

(松浦達)

retweet