2011年12月アーカイブ

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昨年12月に発売され大好評のムック第1弾につづき、『Cookie Scene Essential Guide: POP & ALTERNATIVE 2011』が発売されました。

発行元は第1弾と同じく(株)音楽出版社。判型および定価もムック第1弾と同じでB5変形、税込1500円となります。

発行元が運営するCDジャーナルのニュース・ページに掲載された掲載された紹介文が、とても詳しくて、ふざけてて、おもしろいです。まずは、それをご覧いただくのも一興かと...。

当編集部がざっとまとめた内容は以下のとおりになります。こちらもご覧いただければ幸いです。

長い時間をかけて、一生懸命作りました。

大きめのレコード店や音楽関係に強い書店、タワーやHMVのサイトおよびアマゾンとかでも、もちろん売ってます。

よろしくお願いします!

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Side A(文章横書き)

表紙:デンジャー・マウス&ダニエル・ルッピ&ジャック・ホワイト&ノラ・ジョーンズ

特集1:デンジャー・マウス&ダニエル・ルッピ・プレゼンツ『ローマ』スターリング・ジャック・ホワイト&ノラ・ジョーンズ


その名のとおり「デンジャー」なヤツ! 00年代後半以降、ナールズ・バークレイや『ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル』などによって世界を騒がせてきたデンジャー・マウスが、イタリア出身の映画音楽家ダニエル・ルッピと組んで架空のサウンドトラック・アルバム『ローマ』を制作した。リード・ヴォーカルを務めるのは元ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイト、そしてノラ・ジョーンズ! この特集では、昨夏に来日を果たした際に取材をおこなったデンジャー・マウスの未発表インタヴューもフィーチャーしつつ、このアルバムの、そしてデンジャー・マウスの魅力にさまざまな角度から迫ります。

特集2:セレクション2011

2011年1月〜6月にリリースされたディスクからクッキーシーンお薦めの「ポップ/オルタナティヴ/21世紀ロック」な105枚を厳選して、一気に紹介します。もちろん全部は無理でも、まずは興味をひかれたものから聴いてみよう!

特集3:セレクション2010

2010年1月〜12月にリリースされたディスクからクッキーシーンお薦めの「ポップ/オルタナティヴ/21世紀ロック」な200枚を厳選して、一気に紹介します。(以下同上)

Side AA(文章縦書き)

表紙:プライマル・スクリーム


特集1:Second Summer Of Love Again

80年代後半のUKを席巻して、90年代初頭にプライマル・スクリームの傑作『Screamadelica』(今年20周年記念盤がリリース)や「インディー・ダンス」〜「マンチェスター・サウンド」を生んだムーヴメント「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」とはいったいなんだったのか

パート1:プライマル・スクリーム:『Screamadelica』解説、プライマル・スクリームのボビー&イネス&マーティン(元フェルト)&マニ(元ストーン・ローゼズ)そして『Screamadelica』の立役者アンドリュー・ウェザーオール・アーカイヴ・インタヴュー集

*お詫びと訂正:この部分の、P151-150、『Screamadelica』に関する解説記事中、その20周年記念版日本盤の限定盤に関して「CD4枚+DVDヴァージョン」という表記がございます。これは誤りです。正しくは「CD3枚+DVDヴァージョン」となります。詳細は、サイドAA表紙裏(表 3)の広告ページなどをご覧ください。申し訳ありませんでした!

パート2:ニュー・オーダー:セカンド・サマー・オブ・ラヴの拠点のひとつとなったマンチェスターのクラブ、ハシエンダの共同運営者でもあったバンド、ニュー・オーダーの(サマー・オブ・ラヴに結びついた)本質を浮き彫りにします。

パート3:80年代にはUK在住だったフォトグラファー&ライター久保憲司 vs クッキーシーン編集長伊藤英嗣による、ちょっと危険な(?)対談です。

特集2:Dig Post Punk

サマーソニック2011に、ザ・ポップ・グループとPILが出演! 00年代に始まったポスト・パンク再評価の波は、まだまだ終わりそうにない。でも、ポスト・パンクっていったいどんなもの? アーカイヴ・インタヴューを駆使したザ・ポップ・グループ&スロビング・グリッスル&ギャング・オブ・フォー詳説記事、そして縦横無尽に切りまくる吉村秀樹(ブラッドサースティ・ブッチャーズ)vs ロマンポルシェ。対談などをとおして、その"自由さ"を明らかにしていきます。

特集3:'80s Rock Now

ここ最近、80年代から活躍するバンドたちの見事な新作がたてつづけにリリースされています。それなら、'80sロックをあくまで"現在"の視点から見てみよう、という企画。冒頭に、ヒダカトオル(モノブライト) vs カジヒデキ対談を大フィーチャー! R.E.M.とディーヴォ、そしてOMDの、彼ら自身の発言を盛りこんだ記事のあとは、ザ・カーズ、ザ・フィーリーズ、デュラン・デュラン、トーマス・ドルビーなどの新作から、80年代(もしくは70年代末)までを逆照射する!

2011年6月3日10時22分 (HI)

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いろいろあった2011年も本日で終了。今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします!

というわけで、今年のうちに、読者のみなさま(およびコントリビューターさんおよび編集部員)からいただいた「投稿記事」がたまっていた分を「ザ・キンク・コントラヴァーシー」コーナーにアップロードさせていただきます。

遅くなって、すみませんでした。内容は下記をご参照ください。

なお、読者のみなさまからの「Private Top 10」募集は、今回もおこないます。それに関するお知らせは、2012年1月1日のなるべく早い時間にアップロードする予定です。

では、よいお年を!

【THE KINK CONTROVERSY】

アラビック・ポップスの可塑性

"ポスト・クラシカル"を迂回する武満徹について

R. I. P. Rei Harakami

「放課後ティータイム」はクッキーシーン・ムックに載せるべきだったのか?

オワリカラ『イギーポップと讃美歌』ツアー・ファイナル

2011年12月31日8時33分 (HI)

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2011年12月26日更新分レヴューです。

【合評】THE HORRORS『Skying』
2011年12月26日 更新
BROTHERTIGER『Golden Years』
2011年12月26日 更新
YANOKAMI『遠くは近い』
2011年12月26日 更新
CHAD VALLEY『Equatorial Ultravox』
2011年12月26日 更新
YEYE『朝を開けだして、夜をとじるまで』
2011年12月26日 更新
PINCH & SHACKLETON『Pinch & Shackleton』
2011年12月26日 更新

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今回の「表紙」にフィーチャーされたのは、ソロ・アルバムをリリースしたミュー(Mew)のヨーナス・ブジェーリ。インタヴュー記事は、こちら

「DLすると横幅が1500pixel」となる画像をアップしました。あなたのPCの壁紙に使えるかも...というか、今回は縦長の写真なのでPC向きじゃないかな? スマフォやiPadなどの壁紙に、どうぞ!

2011年12月20日11時52分 (HI)

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Drexciya.jpg デビュー当初は詳細なプロフィールもなく、ジェイムズ・スティンソンが心臓発作でこの世を去るまで保ちつづけたミステリアスな雰囲気もあり、デトロイト・アンダーグラウンドの象徴として伝説的存在となっているドレクシヤ。そしてこのたび、ドレクシヤの音源がオランダのレーベル《Clone》の一部門である《Clone Classic Cuts》から復刻する。

 『Journey Of The Deep Sea Dweller I』は、デビュー作「Deep Sea Dweller」から、97年リリース『The Quest』までのトラックから厳選し収録した、ベストアルバム的内容となっている。ドレクシヤの名を聞いて思い浮かべる音は、ディープなダーク・エレクトロだと思うが、本作は、そんなドレクシヤのイメージに忠実な曲がセレクトされている。《Submerge》なども含む《UR》時代の音源は、マッド・マイクが「二度と再プレスはしない」と宣言しているそうだし、興味のある人は、このタイミングでぜひ手に入れてほしい。

 ちなみに"ドレクシヤ"とは、奴隷船から海に投げすてられた妊婦達の胎児が生き残り、文明を築いたというドレクシヤ人の神話が由来となっている。このコンセプトを一貫して守り抜いたドレクシヤは、"深海"をモチーフとした作品群を数多くリリースしている。その多くは、殺伐とした暴力的グルーヴを生みだしており、ローランドTR-808 / 909が刻むビートは冷徹なまでに無機質で、アナログ・シンセによるチープな電子音は、殺気すら漂わせている。

 なぜドレクシヤの音は、暴力的かつ攻撃的なのか? それはやはり、ドレクシヤ人の神話が大きく関係しているのは言うまでもない。ここで種明かし、というわけではないが、海に投げ捨てられた妊婦達は、アフリカ人だそうだ。勘の良いあなたならお気づきだろう。ドレクシヤは、有史以来様々な形で存在する奴隷制度を引用し、誰しもが心の奥底に持つ無慈悲なまでの暴力性と攻撃性、そして、我々が"非現実"として目を背けているもうひとつの現実を告発しているのだ。

 "ドレクシヤを聴く"という行為は、人類史の暗部を見つめるに等しい。その暗部には、現代社会を作りあげるうえで"不必要"とされ捨てられたものが、積みあげられている。そして、"不必要"とされ捨てられたものの上に、現在の日常が形成されていることを、ドレクシヤは音楽という形で暗号化し、聴き手に語りかけてくる。謂わばドレクシヤとは人類の業であり、あなた自身なのだ。そんなドレクシアが、今になって再浮上した。この事実を、もっとシリアスに捉えるべきではないか?

 

(近藤真弥)

 


 

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VA ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE.jpg 90年代前後、日本では多くの世界の音楽、民族音楽がこぞって国内盤化、輸入盤として活性を呈して、それは「ワールド・ミュージック」という粗雑なカテゴリーで陳列されることとなった。しかし、同じくして、旧来の西欧音楽に倦んだ人たちやリスナーの耳を捉えたのと同時にエキゾチズム趣味として消費されることも否めない部分があった。何かの新しさをそこに視るのは、西欧優位価値観/非西洋圏へのバイアス・イメージ下での認知閾での未知を既知に置き換える児戯としての側面もあったからだろうか。「私」と「他者」を分かつエスパルマン(間隔化)、アルテル・エゴ(他我)に浮かぶ固形分化。再自己固有化の運動連続体で仄かに潜む偽装的な異国情緒。その「情緒」はワールドの中にいる私を脱化もせしめた。

 その中でも、94年に出たコンピレーション・アルバム『エチオピアン・グル―ヴ』の拡がりとその多様性且つ雑種でバイタルな音楽には唸らされた人たちが少なからず居たのは知っている人もいるかもしれないし、体感した人もいるかもしれない。ソウル、ファンク、ポリリズミックなグルーヴ、更には、ジャジー且つメトロポリタンな風情のアーバン・ポップ、アンビエンスまでを跨ぎながらも、アプレ・ゲール(WW2)以降で芳醇に培われたエチオピアというカルチャーの深度は国境を越える何かがあった。

 今回、紹介するエチオピーク・シリーズのコンセプターのフランシス・ファルセト選曲の2枚組のアルバム『Noise & Chill Out Ethiopian Groove Worldwide』は、2012年の座標軸としての一つの参照点を刻印する良質なものになっている。エルヴィス・コステロ、トム・ウェイツ、パティ・スミス、アルチュール・Hなどのアーティストたちも、エチオピアの音楽に魅せられたという事例に枚挙にいとまがないが、何故、魅せられるかという理由の一要素がこの作品には詰められている。今や、フェレンジ(外国人、エチオピア人ではない人たち)に門戸が拓かれた扉の向こうには90年代前後の未知から既知を置き換える文法の増設に留まらない。


 ディスク一枚目の〈ノイズ・サイド〉では、ダヴ・コロッサス(DUB COLOSSUS)の「Guragigna」のジャジーでオリエンタルなグルーヴにフィメール・ボーカルが可憐に躍る曲で幕を開ける通り、エチオピア人だけの音楽に限らず、フェレンジ、エチオピア人とフェレンジとの演奏の火花が弾ける。エチオピア音楽には、他のアフリカ音楽にあるようなこぶしの効きもあるが、もっと自由な領域で音楽を調理する頼もしさがある。5曲目のアレクソ(Alexo)はフランス人とエチオピア人の混ざったユニットで、「Tetchawetu!」のミニマルなビート、パーカッシヴな反復からクラールなど混ぜ、静かなトランシーさを齎す。3分半ほどの中の精緻な設計図には、音響的な面白さもある。7曲目のデレブ・ジ・アンバサダー(Dereb The Ambassador)の「Etu Gela」における歌唱もフィジカルで良い。13曲目のアラット・キロ(Arat Kilo)の「Addis Polis」内のスイングするスパイ映画のサントラのようなスリリングなうねりも軽快で、〈NOISE〉と名付けられている割には、切り立った部分よりもリズムの多彩さとその背景の各々のアーティストのエチオピアを巡る想いに心の琴線が揺さぶられる内容になっている。

 そして、何よりも二枚目の〈チルアウト・サイド〉が白眉だろう。エチオピア音楽には、獰猛性と多文化的次元の吸収力、咀嚼力が注視されがちだったが、実はメロディー・ラインや歌唱には日本で言う童歌のような、ブラジルで言う"サウダージ"のような郷愁を誘うものも少なくない。例えば、エチオピアのフィメール・アーティストのゼリトウ(Zeritu)の「Athidebegn」には刹那さと汎的に世界のポップ・ナンバーと比べても、遜色のないエレガンスとフィールドが見える。また、日本人としても、07年の『ペンタトニカ』も記憶に新しいサックス奏者の清水靖晃氏の参加(11曲目、Yasuaki Shimizu & Saxophonettes名義「Tew Semagn Hagere」)とその静かな解釈(日本語で歌っている)も絶妙だ。クラブ・ジャズ、イージー・リスニング、ヒーリング・ミュージックという意味が現代では変容しながらも、このコンピレーションに宿る"なだらかに還る近代感"は懐かしさも憶えるのは事実だ。その懐かしさはしかし、退歩ではなく、最近のフィル・スペクター再評価のように、商業音楽としての機能性の多寡よりも、音楽が包含する元来の語彙の多さを示すものになっている好ましさを感じる。

 この作品と結びつき、現代の渾沌の中で線引きとカテゴライズの中で窒息気味になりかけている様々な音楽や音楽そのものを愛好する人たちがクラスタリングの共犯関係を抜けて、このアルバム・ジャケットのようにハンド・イン・ハンドする絵を夢想したい。

 ここから、細分化された世界を繋ぐ微かに新しいグルーヴを感じる。

 

(松浦達)

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VA Diskotopia Vol1.jpg ここ1、2年のインディー・ミュージックを聴いている者ならとっくに気づいているかもしれないが、"インディー=ロック"という図式は、もはや存在しない。こうした溶解はジャンルだけに留まらず、従来の音楽的文脈にも及んでいる。もちろん"発祥地"と呼ばれる場所はいまでも存在するが、その場所で生まれた熱狂は、ネットを介してすぐさま人々の間で共有される。こうした"現場のクラウド化"は、今後さらに加速するだろうし、"クラウドこそが現場である"とするボーダレスな音楽シーンが、どんどん増えていくはずだ。

 こうした流れに敏感なレーベルやアーティストは既にいくつか存在するが、晴れてレーベル・コンピ『Diskotopia Various Artists Volume One』をリリースした《Diskotopia》も、そのひとつと言っていい。もともと《Diskotopia》は、2005年から大阪でパーティーをオーガナイズしていたそうだが、2009年には東京へ拠点を移し、2011年にレーベルを立ち上げるにいたったそうだ。まさに出来たてほやほやの新興レーベルと言えるが、XLR8RやFACTにいち早くピックアップされるなど、すでに世界的な評価を高めつつある。その大きな要因として挙げられるのは、先述のボーダレスな音楽シーンと共振する、多彩なリリース群だろう。本作を聴いてもわかるように、ベース・ミュージック、テクノ、ハウス、そしてチルウェイヴにも通じるハイブリットな音楽性が、《Diskotopia》を個性的な存在へと押しあげている。

 冒頭の話に戻るが、本作に宿っているとてつもない速さの溶解は、特定の狭いシーンだけの現象ではない。この溶解は、インディーやエレクトロニック・ミュージックはもちろんのこと、いまや世界中で起こっていることだ。そういった意味で本作は、"今"という興奮を記録したドキュメンタリーとして、輝きを放っている。音楽はいま、こんなにも面白いのだ。

 

(近藤真弥)

 

※本作は1月19日リリース予定。

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LameBora.jpg 映画で『おいしいコーヒーの真実』というものがあった。この映画では、エチオピアのコーヒー農家における困窮の問題に触れている。そこからフェア・トレードへ、更には実は"フラット化されていない"世界の病根へと眼が向けられる。但し、コーヒー農家とフェア・トレードの線を単純に結びつけるのは難しいものがある。そこには幾つもの「見えない壁」があるからであり、グローバリゼーションの仕掛ける構造自体の桎梏にも絡んでくる。

 会議、歓談、休憩、もてなし、兎に角、ほぼどんな国でも今やコーヒーは欠かせないものになった。「嗜好品」として、カフェインと目を覚ます作用、独特の香ばしい馨りがありながらも、そのコーヒー産業を巡る構造論と商流チャネルには数多の警鐘も鳴らされてきた魔物のような飲み物の象徴。今は、挨拶代わりにコーヒーを或る程度はどの国でも飲むことは容易く、また、豆が何処のものだとか色んな深み、コクに関してもそれぞれ一家言を持つようにもなってもきた。なお、コーヒーの国別消費高で高いのは断然、アメリカ、ブラジル、ドイツ、日本である。個人的に、日本人とコーヒーと言えば、つい「コーヒー・ルンバ」のような"紛い者としての異邦人感"を憶い出してしまうのと同時に昨今のカフェ・ブームが設定したコーヒーを介した洒脱性を考えてしまうが、今や自動販売機から、街を歩けば目に入るコーヒーショップまで日常生活に欠かせないものになっているのは確かだ。

 さて、コーヒーに纏わる歌たちをラメ・ボーラ(Lame Bora)というグループがプロジェクトとして、録音したのがこのアルバムであり、『Songs Of Coffee From All Over The World』(邦題は『世界のコーヒー・ソングたち』)とそのままのタイトルが付されている。コーヒー生産者のための歌から晴れやかなコーヒー賛歌、「コーヒー・ルンバ」のカバーと多種多様な国の有名な曲と彼らのオリジナル曲が入っている。エチオピアからイスラーム世界に広まっていったコーヒーに敬意を表してか、ラメ・ボーラにはアフリカのみならず、スペイン、トルコ、US、南米、そして、録音がされたドイツの音楽家まで総勢で18名が混じっており、多国籍的に賑やかなサウンドになっていて、グッド・ヴァイヴに溢れている。メンバーと担当パートに関してはちなみに、Fethi Ak(darbouka,bass-darbouka,bendir,def,java drums,talking drums,)、Erdem Balkan(violin)、Ahmet Bektas(ud,tambur,davul,cura,voc)、Omer Bektas(bendir,bongos,udu,zil,mouth perc.,voc)、Pit Budde(6&12 string guitar,dobro,sitar-guitar,voc)、Kazim Calisgan(balama,cura)、Roland Daza(quena,flute,zampona,sax,bombo,voc)、Carolina Gomes-Riono(voc)、Benno Gromzig(bass,double bass)、Klaus Jochmann(accordion,congas,djembe,udu,voc)、Josephine Kronfli(voc)、Carlos Mampuya(voc)、Hilmi Saleh(voc)、Jorge de Santos Sousa(voc)、Ulla Struck(voc)、Myke Tilasi(voc)、Gifford Urquizo(spanish guitar)、Tom Wegner(piano,guitar)がクレジットされている。

 見ての通り、ギター、ベースやバイオリン、サックスに加え、ジェンベという太鼓、ウード、ダルブッカ、アンデスの笛で有名なケーナなど様々な楽器群がふくよかな音の豊かさを確約しており、曲によって非常に多彩な色を見せるのに一役買っている。

 収められている17曲の中で主要曲に触れていくと、1曲目の「コーヒーとグラッパ」はポルトガルのルイ・ヴェローゾの80年代のヒット曲であり、元来のロック・テイストが強い曲を、ここでは軽快なラテン風にリアレンジメントしている。ふと考えさせられるのが4曲目の「労働歌を歌う女たち」。これは、エチオピアの首都アディス・アベバのコーヒー豆選定工場で勤務する女性従業員300人が手拍子と掛け声だけでソウルフルに唄う労働歌。彼女たちの生々しい声がどの国のある人たちの手の元のコーヒーに届くのか、思ってしまう。6曲目の「コーヒー・ルンバ」は日本でもかの西田佐和子女史を筆頭に、最近でも井上陽水氏のカバーもあり、人気曲だが、ここではアクの強くないフィメール・ヴォイスとボンゴ、フルートを軸にフォルクローレ的な流麗さで聴かせてくれる。

 10曲目の「ブラック・コーヒー」も1948年のサラ・ヴォーン、1953年のペギー・リーのもので憶えている方々も多いクラシックだが、ブルージーな重さを保ったフィメール・ボーカルと控え目な音響工作下で、ソロ・パートのギター部分で敢えてウードを使うなど変化に富んだ側面も見せる。12曲目「労働歌を歌う女たち」は、4曲目の男性ヴァージョンで、ほんの30秒ほどのコール・アンド・レスポンス的な遣り取り。ラメ・ボーラのMyke Tilasiが作ったオリジナル曲の14曲目「カハワ~コーヒーをたくさん栽培しよう」の撥ねるリズムと肩の力の抜けたムードも良い。やはり、ロック・ファンとして気になるのは、16曲目の「コーヒーもう一杯」だろうか。1976年の『欲望』に入っていたボブ・ディランの佳曲。もう少し砕けたものにできたろうに、アコースティック・ギターを軸にしたオリジナルに限りなく近い誠実なカバーが為されているのは、彼らの畏敬の念の表れか、それとも、ディランの原曲を解体に近い形でカバーするという行為が出来なかったのか、邪推も出来る。

 このように「コーヒー」を巡って、目の前のコーヒーの背景に拡がる世界を巡って、幾つもの楽器、幾つもの声がビタースイートに被せられてゆきながら、多次元・多文化主義的な視角から再構築されてゆく。このアルバムを聴きながら、捲るブックレット内の工場の中の袋詰めにされたコーヒー豆やコーヒー豆を選定する労働者の写真を観て、横に何気なしに置いて、飲むコーヒーをどんな味が改めてするのだろうか、そんなことを考えてしまうような奥深い"気付き"をもたらせてくれる内容になっている。

 そこに当たり前にコーヒーが飲める環境とは、とても幸せなことなのか、それとも―。

 

(松浦達)

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JONAS BJERRE

僕が歌うことでストーリーテラーのように
聞こえればいいなと思ったよ


all photos by Casper Sejersen
Jonas_201112_A1.jpg言わずと知れたこの人物、ヨーナス・ブジェーリ。彼はミュー(Mew)のヴォーカリストとして活躍する一方、近年はアパラチック(Apparatjik)という覆面アート・バンドのメンバーとしても精力的な活動も行なっている。その両者を通して、音楽的可能性の広さと本国デンマークにおける評価の高さを、まざまざと思い知らされる。

そんな彼は過去にサントラ制作の一環で曲を提供するなどしていたが、遂に満を持して一つの映画のサントラを全て手がけることになったのである。ミューだけでもライヴのスクリーンに映される映像作り、或いはミュージック・ヴィデオに関係する映像作りをしてきている、マルチ・アーティストと呼ぶに相応しい類い稀なるミュージシャンの一人として確実にその地位を築き上げてきた彼。デンマーク国内ではインディー・リリースだった今回のサントラ盤がこうして日本ではソニー・ミュージックからリリースされる。その大抜擢には、彼の作り出した音楽の興味深さも所以となっているはずだ。

日本ではダウンロードぐらいでしか手に入らなかったこの秀作について、映画の話も交えつつ聞いてみた。

なお、補足しておくと、以前彼本人に聞いたところによると、彼の名前はデンマーク語ではヨーナス・ビエールという読み方をするそうだ。日本では英語圏での発音にのっとってヨーナス・ブジェーリを正式表記としていることから、このインタヴューでもブジェーリと書かせていただく(と同時に、別の発音があることも心に留めておいてもらえれば幸いだ)。


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DEATH IN VEGAS.jpg ケミカル・ブラザーズとも交流のある、現在はソロ・ユニットのデス・イン・ヴェガスは97年にファースト・アルバム『Dead Elvis』を発表。99年に発表したセカンド・アルバム『The Contino Sessions』では、ボビー・ギレスピーやジム・リード、ドット・アリソン、イギー・ポップらをゲスト・ヴォーカルとして招いた。3作目『Scorpio Rising』ではリアム・ギャラガーやポール・ウェラー、ホープ・サンドヴァルを招いた。しかし、ただ招いたわけではない。デス・イン・ヴェガスはゲスト・ヴォーカリストのオルタナティヴな側面を発見し、提示することができた。特にリアム・ギャラガーをフィーチャーした「Scorpio Rising」はほんとうに素晴らしかった。リアム本人からも"fuckin' mega"という賛辞を受け、一時期、オアシスのプロデューサーを務める話もあったくらいだ。そして4作目『Satan's Circus』を挟み、オリジナル・アルバムとしては7年振りに発表した5作目『Trans-Love Energies』も面白いことになっている。

 アンディ・ウェザオールを敬愛しているのだからワン・ダヴのような楽曲が含まれていることは予想できたし、トゥー・ローン・スウォーズメンの『From The Double Gone Chapel』を思わせるダークな音楽世界が構築されているだろうことも予想はできた。が、本作では綱渡りしているようなリチャード・フィアレスのつぶやきに近い歌声が、アルバムのジャケットにあるように、楽曲にほんのり光を与えている。つぶやきが光を与えているというのも変な話だが、ツイッターがここまで普及した今、妙に共鳴してしまう。そのつぶやきは鮮明なエレクトロニック音との対比によって濃いものとして頭に降りてくる。

 リチャード・フィアレスがデス・イン・ヴェガス名義で初めて自身の歌声を披露していることには意味がある。「自分でやらないと本当の意味も感情も伝わらない」のだと。本作でもゲスト・ヴォーカルを招いているものの、ほとんどの曲をリチャード・フィアレスが歌っている。それは「自分の声」を自分で届けようとしている意識の表れだ。彼はこれまでゲスト・ヴォーカルのオルタナティヴな側面を次々と発見できた。しかし、今は自分のオルタナティヴを見付けようともがいている。その音は清々しい。

 そばに横たわっているものの中から何かを発見することをオルタナティヴと僕は呼ぶ。アウトサイドに逸れることがオルタナティヴだとして、もしそれが目的化されたらつまらない。音楽に魅了された全てのリスナーは他者との差別化を図るために音楽を聴いているわけではないんだから。「今、持っているものの中から何かを発見し、飛び出そう」「そうすることで新たな価値が生まれてくる」そんな言葉が本作から聞こえてきそうだし、僕はそう言いたい。誰かに新たな側面を発見されるのを待っている場合じゃない。本作で鳴っているのはそういう音だ。

 

(田中喬史)

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