「我々の文明は、少なくとも一見したところでは、性の術を所有してはいない。そのかわりに、性の科学を実践している恐らく唯一の文明であろう。」
(ミシェル・フーコー)
まず、トレードオフという言葉について考えてみよう。どんな変化にも表裏があり、それを比較して考える「べき」という当然の論理がある。隣人を愛しましょう、信号は青信号で渡りましょう、標語だらけの視界に湧きあがってくる欲望、それをネーミングするときに「トレードオフ」という言葉の意味を咀嚼しない限り、費用便益性/衝動性に則った情動を越えてくる「好き」、「愛されたい」とフィメール・アーティストの一部が金切り声であげるときにかかる重力とはミシェル・フーコーの『性の歴史』に沿うならば、「性とは寧ろ禁忌ではなく、本質的なことは、権力の行使の場における、性についての言説の増大であり、性について語ることを、そして愈よ多く語ることを、制度が煽り立てる」となる。制度論としての性の中で、例えば、Coccoが"飛魚のマーチをくぐって 宝島に着いた頃 あなたのお姫様は誰かと腰を振っている"、そんなどうしようもない真実の世界観と比して、初期に"隣人に光が差すとき"のような残酷ながらも、女性内ハイアラーキーの中で下位に自分を置きながらも、牡の精子(制止)をふりほどくように、柔らかな80年代的なエレクトニクスで覆われたオーガニックなサウンド・メイキングで如何にも「女性の、歌詞」を綴った安藤裕子というアーティストは、シンプルな言葉で言えば、女性価値の無意味性/女性意味の価値性を最初から弁えた上で、ファンタジックな色を描いていたといえる。
女性の直観的な「可愛い」で解決する感性の深奥には、「可愛い」は"総てを越える"のではなく、"総てを包括する"というディレンマがあり、女性の美/醜の精査は男性の出世競争と比しても、よりシビアなものだろう。「美」を巡ってのコンテクストは難しい。誰にも、「美はある」が、「美学や美意識がない」場合もあり、そうなると、透けて見える美の先の人間のルックスが幾ら美しくても、モラルハザード的にどうなのだろう?という問いの前では砂上の楼閣に成り得る。安藤裕子が括られる枠はそういった意味で、ナチュラルで少し不思議な雰囲気を持った女性―つまり、簡単に言えば、少しの一般層からは退かれてしまう要素も少し持ったアーティストだった。ライヴでの衣装はざっくりとしたオーガニック生地のワンピースであったり、ハイライトの曲ではまるでシャーマニックに唄い上げる。それを女性サイドからは「可愛い」ではなく、「分かる」、「引き込まれる」という層と、男性サイドでは女性サイドにときに求める「性の重さ」という、トレードオフの間を掻い潜っていた印象がある。CMソングに抜擢された「のうぜんかつら(リプライズ)」でのたおやかな母性も彼女の特徴の一つだが、シングルで見えるキッチュなラブソングもシングルの2、3曲目に入ってくる80年代の通好みなスクエアなセルフ・カバー(例えば、「セシルはセシル」や「君は1000%」など。)も含めて、キャラクター創りとして身近なお姉さんとホーリーな存在、そこを止揚してアーティスト・イメージが照射されようとしていたがゆえに、どうにも取っ付きにくさがあったのは否めない。それを打破、ブレイクスルーしたのは、荘厳な初期の元ちとせのような雰囲気の「The Still Steel Down」ではなく、08年の8枚目のシングル「パラレル」だろう。それまでの彼女にはない疾走感、PVでは一つの画面の中にバックにドラマーだけ置き、色んな表情や動き、飛び回り、軽やかに「ハミングするように唄う」。
《悲しみが隙を見て 顔をのぞく日もある 喜びも気がつけば いつも隣にいたよ 君が好き》
(「パラレル」)
「君が好き」―かつてのビョークみたく、不思議・荘厳・重めの女性像を越え、ダイレクトなI Love Youへのストレートな50m走。ポップ・ソングにしては時折は、耳に障る過度な彼女のヒステリックでしゃくりあげるような声も含めて、「君が好き」まで駆け抜ける速度によって、ようやく元・女優としての枠やそれまでの「女性としての性(さが)」を噛み締めながら、詩情と私情の真ん中にファンタジーの痛さ(イタさ)を置いていたアーティストの彼女は「抜けた」。それが含まれたアルバム『Chronicle.』、ベスト盤の流れで、遂に『Japanese Pop』という正々堂々としたタイトルの「真ん中」のアルバムを2010年にリリースする。これは総体として捉えるべきアルバムであり、柔らかいソファーに身を預けるような穏やかさとウェルメイドなJ-POP的なサウンド・プロダクションに、軽やかなポップ、神秘的で繊細なバラッド、ピアノが響く小曲、シティーポップ、ハンドクラップを求めるような楽しい曲まで、彼女の癖のあるロリータ的で、ときに金切るようなヴォイスによって混ぜ合わされた良作だった。特に美しいのは、3曲目の「マミーオーケストラ」だろうか、ラウンジ・ミュージックのような柔和なエレクトロニクスとで上品なアレンジメントの浮遊感の中で、「女の子の可愛さ」と「大人の女の子の切なさ」をキュートに纏めながらも、シビアな視点を備えたほんの5分のラブソング。
《わかるでしょ? 変われないのよ どうしても こんな風に強がりなの 優しくないの 笑ってほしい
10年前ならきっと 私でも可愛くなれた 頑ななくちびるを 今解いてほしい》
(「マミーオーケストラ」)
「10年前」という言葉は女性にとっては、とても「重い」。しかし、「頑ななくちびるを 今解いてほしい」というのは「軽い」。その絶妙な重力と軽快な求愛の構図が年齢を越えて、女性を「女の子」へ引き戻す。いつだって女性は可愛く居たいのかもしれないし、可愛く見られたい(見られる)という訓練をされてきたがゆえの刹那さもあるからこそのコンプレックスとダイレクトな衝動の周期を巡る。
その後、カバー集がリリースされ、そこにはくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」のカバーが入っていたりもしたが、どうにも彼女の声質と合っているとは言い難かった。さて、妊娠、第一子出産といった大きい出来事を経て、届けられたシングルがこの「輝かしき日々」だが、ここでの彼女はまるで、「これまでの安藤裕子像」をグランジ的にペイントで塗り潰すような、これまでにないノイジーで粗暴なギターロック。そこに彼女が咆哮するように、《なんと言われてもいいの 夢など覚まさない すさんだ愛情でいいの あなたを愛したい》、そして、《壊れた愛情でいいの あなたを離さない》という「パラレル」の領域よりも蛮性が増して、尚且つ、もう「あなたしかいない」という切実さが前のめりに発される。2曲目は、新曲ながらも原曲ではなく、砂原良徳氏のリミックスの「エルロイ」。ソリッドでビートが効いた雰囲気も新機軸だ。何かが吹っ切れた二曲とも言えるし、これまで安藤裕子が端整に保っていた「Japanese Pop」の枠をはみ出していく契機になるものになっている気がする。彼女はどんどん、「女の子に戻っていく」。それは「可愛い」、または「艶美」といった言葉では足りない。おそらく、このままで行けば、CharaでもYUKIでもない場所に辿りつくことだろう。そこは、「女の子の切なさと、母性」の間の細道を抜けてゆく。だから、「輝かしき日々」なのだ。既存のファンの期待を裏切っても、昨今のロボ声、大勢の女性たちのユニゾンを対象化しても、彼女が孤然とアグレッシヴなロック・チューンに舵を切ったその姿勢を僕は支持したいと思う。壊れた愛情でもいいから、もっと進めば、何か掴み取れる。性の科学が実践されている曲になった。
