生駒祐子『Suite For Fragile Chamber Orchestra ~フラジャイル室内楽団のための組曲~』(Windbell)

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YukoIkoma.jpg  なぜ芸術や科学がこんなに頼りになるのか。この世界においては、学者と技術者、それに芸術家さえ、科学と芸術家そのものさえ、きわめて強力に既成の主権に奉仕しているのだ。(中略)それは、芸術がそれ自身の偉大さ、それ自身の天才に到達すると、たちまち芸術は脱コード化や脱領土化の連鎖を想像する。
(『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』下巻 P. 284より。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳 河出文庫)

 冒頭文を深く読み込めば、芸術が「既成の主権」に奉仕しているとはいえないのは分かるが、脱コード化を辿る中で、現在は、過去にセルジュ・ゲンスブールが言ったような、「何が"イン"で"アウト"か? (Qui Est In, Qui Est Out?)」という時代では無くなってきているのは確かだ。

 「イン」に組み込まれる音楽の体系は、例えば、マイケル・ギボンズのモード論下では、カリカチュアライズと類型化の模型ともいえ、「アウト」は無責任な創り手側の簡略化、短絡とすると、聴取者側は「イン」と「アウト」ではなく、「ダウン・アンド・イン」―つまりは、アヴァン・ポップの地平に自然と降り立つことになるといえるかもしれない。ダウン・アンド・イン―アヴァンギャルドではあるけれども、周縁を歩く訳でもない、Larry Mccafferyの著書を紐解くまでもなく、アヴァン・ポップの為すべき価値が求められることになる訳だ。何故に、レディオヘッドのギターリストのジョニー・グリーンウッドがクシシュトフ・ペンデレツキに興味を向けて行ったのか、コリーン、ハウシュカ、マックス・リヒター辺りの音楽が世界の現代音楽の好事家のみならず、幅広いリスナー層に受容されたのか、それは、例えば、ブライアン・イーノやマシュー・ハーバート、或るいは、トクマルシューゴの実験工房を覗き込みたいというミュージシャンのみならず、聴き手サイドの願望の投射ではなかったのか、そういうことさえも夢想することができる。もはや、「主流」が無くなったのなら、傍流には、「カラクリの自然」が求められる。「カラクリの自然」を模写するには、「オートマタ」という場所に行き着く。オートマタとは、カラクリ人形のことである。

 今回、Mama!milkの生駒祐子女史は、オートマタ作家の原田和明氏と組み、繊細にして柔らかなチェンバーポップに挑んでいる。原田和明氏の音に纏わるDesk Bell、Des Monte、Fragile Organ、Hand Xylophoneなどの連作が軽やかなノスタルジーとトイ・ポップと交接する。その箱庭内にて、生駒女史の足踏みオルガンの持つ耽美性が絡み合う。同時に、「ゲスト・ミュージシャン」には、Decoy、Matryoshka、Spoon In Space、Teddy Bear、The Shoes Of Fred Astaireといったレトロで可愛い小物、楽器が彩りを添える。玩具箱を引っ繰り返した後の、新しいカオスの地図を室内楽的に纏め、様々にして繊細な音色が響く、そのインプロの流れを追いかけるだけでも、眼福ならぬ「聴福」がある。

 具体的に、本作はPartⅠ~Ⅴまでの五部構成になっている。3曲目の「Waltz For Lily Of The Valley」には、清みきったベルの音と足踏みオルガンの優美な融和が純喫茶での一杯のコーヒーが醒めるまでの、対話、時間を護る柔らかさがあり、7曲目の「Serenade For Wind Bell」には煌めく音空間があくまで上品に紡がれる。12曲目の「Rendez‐Vouz」も美麗ながら、ファストなスリップストリーム(傍流文学)への敬虔さがあり、全体を通して、23曲で45分にも満たないが、麗しいサウンドが運んでゆく場所には、パスカル・コムラードの『Traffic D'Abstraction』のようなサウンドが密かに微笑んでいるような、つまり、ベル・カント・オルケストラの近似を揺蕩う。

 そもそも、タイトル名からして『Suite For Fragile Chamber Orchestra』(フラジャイル室内楽団のための組曲)であるからして、推察しても然もありなんだろう。これはポストコンテンポラリー・フィクションとしてのオートマタ楽団員たちと、生駒女史の白昼夢なのだろうか。僕は決してそうではない、と思う。昼下がりのナルコレプシー的な音空間の縁を巡りながら、静かに「アートの力」を再定義しながらも、「中心」のギミックを避け、トマス・ピンチョンが仕掛けたような過大な「重力」がかかった「虹」を渡るような街路を往く。

 その「街路」には、全面的な節電下の日本で、ほんの僅かだけ光を喪った、光をもう一度、捉え直すだろう。重度の情報エントロピーに疲れた人たちに向けて、この作品は何らかの福音になると思っている。「壊れものとしての人間」は、「壊れものとしての音楽」を扱う際の配慮はこれだけ肌理細やかになるということを示した力作だと思う。

(松浦達)

 

【筆者注】2011年11月11日発売

生駒祐子オフィシャルHP

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