RYAN ADAMS『Ashes & Fire』(Sony Music)

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RYAN ADAMS.jpg  ウィトゲンシュタインに拠ると、「価値に関わる問題」は論理の形式内に当て嵌めることが出来ないという。それは論理的言語によって記述出来ないものがあるということでもありながらも、「語り得る可能性のあるもの」/「語り得ない限界のあるもの」の間の沈静に触れる。その沈静を縫うのはやはり、人間というバグの多い生物たる感性の閃きだと思う。その閃きをモノにした、今回のライアン・アダムスのアルバムは麗しい。

《And nobody has to cry / To make it seem real / And nobody has to hide / That way that they feel》
(誰も泣くことはないんだよ 本物みたいにしよう、と / 誰も隠さなくていいんだよ 心の中で思っていることは 「Come Home」)

 90年代、アンクル・テュペロを筆頭に、分派しつつも現在進行形で邁進するウィルコという流れの中で浮上してきたタームに「オルタナティヴ・カントリー」という言葉があった。カントリー・ミュージックにパンク精神を背景にしたオルタナティヴという言葉が"付く"という歴史水脈と現代的代案の違和。その「違和」を堂々と繋げてきた存在として、10代で作ったウィスキータウンというバンドをすぐに解体したライアン・アダムスという一人のアーティストの動きは、常に大きかった。兎に角、気まぐれ、気分屋、ビッグマウスであり、多産される曲群、オアシスの「Wonderwall」などをカバーしたり、記憶に残った今のところの唯一の来日公演、05年のフジロック・フェスティバルでのステージ・パフォーマンス内での途中退場、やさぐれた部分であったり、掴みどころがないながらも、その詩情溢れる胸を打つ歌詞、彼の渋みを少し帯びた声質に魅了された人は多かった。ミュージシャンズ・ミュージシャン(エルトン・ジョン、U2のボノなどファンは沢山、居る)、日本でも局地では絶大に愛されながらも、その散文的な活動形態により、評価軸が決まらなかったともいえるアーティストの一人だと言えるだろうし、それは、いまだに「オルタナ・カントリーの鬼才」という枠内で括られてしまうように、なかなか難しい場所に彼は今も居る。

 09年にマンディ・ムーア(ポップ・シンガー、アクトレス)と結婚し、完全に「活動休止」に入った彼はもう戻ってこない、とも、ふと、顔を出すのではないか、憶測や期待が行き交いながら、メニエール病を患っていて、耳鳴り、眩暈症状があるから厳しいのでは、また、音楽の業界への幻滅を感じて、独自の活動(ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー的な何か)を行なうのでは、というような声がRumorに混じっていた中、ふと今年になって、以前に組んでいたバンドのカーディナルズ名義でもなく、純然たるソロ名義として『Ashes & Fire』が届けられた。昨今のインターネット上でのヘヴィ・メタル系統のリリースを含みながらも、満を持して、正面を切ってリリースされたこのアルバムは、01年の『Gold』のようなストレートなロックの派手さはほぼ翳を潜め、無論、04年の『Love Is Hell』などとも違う「骨組み」が晒されたものになっており、斑が目立っていたこれまでの作品群より静かな火照りが一貫している。レコーディング、プロデュースはローリング・ストーンズやエリック・クラプトンなどと関わってきたベテラン中のベテランのグリン・ジョーンズ。そして、盟友といえるノラ・ジョーンズが数曲でピアノとして参加し、弦楽が入った曲もあるが、基本はライアン本人のギターを軸にアコースティックな質感を保ち、彼の内的感情の襞を覗き込む繊細さ、感傷とディーセントなヴァルネラビリティが青白い血管のように明確に浮き出ている。更に、インスパイアーの起源は、ローラ・マーリング(Laura Marling)の『I Speak Because I Can』というのも面白い。

 ジョー・ヘンリーの新譜もそうだったが、着実にキャリアを重ねてきたアーティストが10年代に入り、こういったシンプルな空気の揺れに感情を重ね合わせる方向に焦点を合わせてきているというのは個人的に考えるところがなくはない。今年のチルウェイブ、シンセ・ポップのうねりの中を掻き分け、いや、スルーして、70年代初めのジェームス・テイラー、キャロル・キング辺りのSSWムーヴメントの台頭を想わせる動きに近似した別路として、静かな波紋とリンクを広げていくだろうとも思うからだ。

 アメリカン・インディーの良心たるR.E.M.の解散など何らかのパラダイムの、終わりも感じることが多かった今年のシーンだったが、もはや全面的に視えない戦時混沌下での「唄い手(SSW)」としてのアティチュードが明らかにUSでも変わっていっていることを示す意味でも、このアルバムは「重厚な聴き応え」よりも聴き手を落ち込ませない、優しさと滑らかさがあるのは、佳い傾向だと思うとともに、ライアン本人も暫しの休息を経て、ゆっくりと自分の「内面」を見詰める時間が取れたのではないだろうか、と感じる。敷衍すると、これは、「大きい作品」でも、「シーンを攪乱させるような作品」でもなく、また、音楽メディアの趨勢からすると「地味」とも評されかねない、逆説的に或る種のオルタナティヴ性を孕んでいるという意味ではライアン・アダムスというアーティストの「誠実な、天邪鬼」が敢えて、真ん中を射抜いたともいえる内容に帰一している。そこに今こそ、気付く新しいリスナーたちが増え、更に彼の過去のカタログ群を追う契機になるような気もする。

 1曲目の「Dirty Rain」の爪弾かれるギターからして、清涼な70年代のSSWの残影がふと透き通った風のように吹き抜ける。4曲目の「Rocks」も曲名と比して、描かれる叙情は「明るくなり、一日を迎える」というささやかな慕情が織り込まれ、6曲目の「Chains Of Love」では2分半ほどながら、弦が絡み、ハンク・ウィリアムズ、ジョニ・ミッチェル、アコースティック・セット/レコード・クラブでのベックの持つような感情面への叮嚀な、肌理細やかさが発現する。サイケ・フォークでも、アシッド・フォークでも、オルタナ・カントリーでもない、フォーク時代のボブ・ディランのような、『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、『ハーヴェスト』時期のニール・ヤングのような、シンプルながら深みのある小曲を重ねてゆく様にはじわじわと染み込む「小声」がある。ふと、入り込むストリングス、ピアノなどもライアンのボーカルとギターの主張を囲い込むまではいかず、柔和な彩りを添える。

 これをレイド・バックという見方で捉えることも出来るかもしれないが、00年代を"Like A Rolling Stone"のように転げた彼がこういった明鏡止水の作品を上梓したのは意義深くもあり、自分のこれまでの混乱を冷静に振り返り、今こそ描き出す優しさ、センチメンタリズムにリーチしたというのは感慨深い。

《Somebody save me / I just can't go on / If someone don't save me / By the morning I will be gone / Somebody save me〉
(誰か、僕を救ってくれ 僕はこれ以上、進めないよ / 誰かが僕を救ってくれなかったら 朝に僕はここから去るだろう 誰か救ってよ 「Save Me」)

 この「小さな声」が今、出来る限り多くの人たちに響いて欲しい、と思う。

(松浦達)

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