RADICAL FACE『The Family Tree: The Roots』(Bear Machine / Lirico)

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RADICAL FACE.jpg  揶揄ではなくて、ベン・クーパーはこのファミリー・ツリー三部作を引っ提げ、もう映画監督にでも挑戦すればいいのではないかと思う。『Ghost』以来、エレクトリック・プレジデントのソングライターによる4年振りのソロ・プロジェクトは、ノースコート家という架空の家系を1800年代から1950年代まで追ったというモチーフで制作された、セピア色の長編映画をそのままアルバムに梱包したような三部作の第一作である。

 本盤は構想に4年、楽曲制作に1年余りが費やされているスケールの大きな作品となっているのだが、なんと楽曲制作の倍近くもソングライティングに時間を割いている。「ソングライティングに2年もかけるだなんて、小説家じゃあるまいし」と突っ込むのは実は自然なことで、ベン・クーパーには小説家志望だった時期もある。保存していた小説のデータが全て消滅したショックから、音楽活動を再開したという一説からも、彼の表現におけるスタイルがまず物語を描くことを前提とした気質であることが窺える。その熟考に熟考を重ねた物語のリリックはというと、見事としか言い様がないほどに聴き手の想像を膨らませる克明さを秘めている。徹底的にモチーフに忠実であり、ブックレットを読みながら楽曲を追っていくと、絵本に引きずり込まれていくような、不気味さを孕んでいる。セピア色にくすんだポートレートがブックレットの大半を占め、いずれも不穏な加工が施されている。最後の写真では、湖のほとりに建てられた小屋の前で親子が立ち並び、その頭上には家よりも巨大な蛾が止まっている。そして『君が死んだことが、ぼくには嬉しい』と殴り書きされていて、そのちぐはぐで不気味な違和感が、聴き手を物語の中へ落とし込む。

 前作の『Ghost』が短編小説なら、こちらは長編小説であり、それも一族の家系を辿り続けるのだから、スケールや風呂敷を如何様にでも広げられる大作にもなり得る。そのノースコート家がどのようにストーリー・テリングをされるのかというと、これが少しホラー的である。ノースコート家の幽霊、仰々しく換言すれば「死と再生と家族」がテーマとして取り上げられ、"ぼく"の視点から家族の凋落が不穏に記されている。何にしろ、母は"ぼく"を産んだ直後に亡くなり、やむなく姉が母の代わりに世話をするもののストレスで疲弊し始め、父は酒に溺れて自殺し、最後には死んだ兄が幽霊になって家を守る、という凄惨な物語である。これが悲劇として扱われているのではなく、「家族の間で巻き起こる不思議な出来事」として扱われている点が、シネマティックでありホラーチックである由来なのだと思う。血生臭い描写のすぐ傍らで、愛が語られるし、九曲目の幻想的なリリックなどはぞっとするほど美しく、"気味悪い一族の話"で完結していない。しかしながら、この背後からひたひたと這い寄って来るような不穏さ、一族の何世代もの話を取り上げる点、幽霊が家族を守るという、いわゆる"中学生が一度は妄想しそうなこと"――語弊を恐れずに言うならば、きちんとリリックを追って反芻した後、私はどことなく『ジョジョの奇妙な冒険』を連想した(心からの褒め言葉)。このアルバムを耳にしてブックレットを手にとれば、ほんの少しは共感が得られると思う。冗談じゃなくて。

 では、シンプルに制作された楽曲はソングライティングの副産物なのかというと、完璧主義者のベン・クーパーに限って当然そんなことはない。第一作は1800年代が舞台であるため、使用される楽器も当時から既に存在していたものに限定されており、その徹底の仕方には感服である。骨子となるのはアコースティック・ギターとピアノで、リズムにはドラム・キットではなく、主にフロア・タム、時折ハンド・クラップやシェーカーが用いられている。フロア・タムの録れ音などはかなりモダンに処理されていて、洗練されつつも古臭さはない。ドラマチックなメロディに幽玄なコーラスを重ねるスタイルはエレクトリック・プレジデント直系で、シンプルな構成の楽曲を彩る役割を担っている。第二部、第三部と時代が現代に近付くにつれて、使用される楽器も増え、楽曲の構成も複雑になっていくらしい。

 本盤は、誰の手も借りずに一人で制作した、という意味ではリビングルーム・ミュージックである。楽曲、リリック、アート・ワーク、PVまで、これらを統一された世界観に緻密に収斂させることは、バンドやユニットでは困難であろう。ミキシングやマスタリング、レコードの設立まで一人で精励したことは素晴らしいことであるが、かといって誰かの手助けがあれば世界観は薄まっていただろうし、そもそもベン・クーパー本人も、この長編小説のようなアルバムに他者の手を介入させることは望んでいなかったと思う。そう考えると、ラディカル・フェイスがソロ・プロジェクトというスタイルの理にとても適った存在であることが分かる。これでもう『エレクトリック・プレジデントの天才ソングライター』という看板は不要になった。

(楓屋)

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