HANGGAI 『He Who Travels Far』(Beans)

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HANGGAI.jpg「音楽ほど情報量の多いメディアはない。」と、音楽評論家の故・中村とうよう氏は語っていた。そして、「その土地の音楽を聴けば、その地域が分かる。」とも。彼が評論のフィールドとして、ロックから離れ、辺境や世界に溢れている音楽へ対峙し出したころ、確かに埋もれていた音楽があちこちから日本に入ってくるようにもなり、エルヴィス・プレスリー、ビートルズ的な正史に対向するような、それぞれの地域が視える音楽の豊潤さに気付いた方々も多かったと察する。それによって、世界は元来、バラバラでありながらも、届く言葉は確実に含むということをサジェストした。では、それから、トフラー的な第三の波、情報量に埋め尽くされて、今とは、どうなったのだろうか。

 個人的な話だが、03年に北京に居たとき、北京電影学院という芸術系の大学に通う学生と知り合い、様々な、俗に言うパンク・バンドを教えてもらった。僕自身は「中国という場所で、ロックをやるシビアさ」は分かっていたのだが、実際に連れて行かれた地下の狭いライヴハウスでは、中国語で熱狂的にマイクに被りつく若い子たち、そして、それに喝采をあげる人たちで溢れていた。どうも、五月天(MAYDAY)辺りの大きいロック・バンドの「認定」される感じが苦手だったのもあり、厳しい規制の網を掻き分けて、それでもフィードバック・ノイズ、今ある現実へ向けての咆哮を届けることが出来るのか、そういうことを継続的に考えながらも、それからの北京は、訪れるたびに綺麗に整備され、西洋の音楽も或る程度、「垂直」に並ぶようにもなってきた。同時に、今年に入ってからは、国内での放送禁止曲の縛りが産まれたのは皆が知っているとおりで、「不穏当な音楽」は排除される方向にもある。ボブ・ディランの初の北京公演は果たして成功だったのか、僕には分からない。なにせ、その03年の北京の路地のブック・スタンドで買った音楽雑誌では、まだ「Brit Pop」特集をしており、スウェードやブラ―などの名前がそこにあったのだった。

 ハンガイ(HANGGAI)のメンバーを見て、フロントマンがどこかで知っている、と思ったら、組んだのは、Yiliqi(伊立奇)なのだ。彼といえば、北京を中心に活動していたパンク・バンド(T-9楽隊)のリーダーであり、その作品を僕も持っていた。彼のインタビューを読んでいると、出てきた、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンといったバンドへの興味、反骨精神も含めて、注目はしていたのだが、「パンク、という様式美におさまってしまう」危惧も同時に出てきたのか、元々の出身地の内モンゴル自治区の音楽に帰郷することになり、北京から内モンゴル自治区に入り、モンゴル音楽に急速に意識を傾けていってからは、どうなったのか、あまり情報が入らなくなった。

 しかし、彼が「パンク」というアティチュードから逃げたのではなく、モンゴル音楽の魅力をモダナイズして、響かせることが出来ないか、という真摯な意志に沿っていたのだ、とこの作品を聴いて、痛感した。何故ならば、このセカンド・アルバムとなる『He Who Travels Far(走的人 ※筆者注:中国語で"走"は歩く、"的"は接続詞であり、「歩く人」と訳すことが出来る。)』には、モンゴル音楽のトラディショナルな要素と、現代的な求心性を兼ね揃え、融合しているからだ。例えば、独自唱法で倍音を出しながら、主旋律とは違う音を紡ぐホーミー(喉歌)、または、馬頭琴も混じりながら、ロック的なダイナミクスを帯び、ドラムが重くリズムを刻み、ギターがしっかりと空間を引き裂き、ベースがうねり、ときにバンジョーも入ってくる。

 振り返るに、08年のファースト・アルバムであるタイトル通りの『Introduction』はモンゴル音楽をシンプルに現代に再像化するために、淡白なアレンジメント、シンプルな楽器編成で行なっていたが、そこから、やはり、元・パンク・バンドをやっていた伊立奇の「意図」もあったのだろうか、ホーミー、馬頭琴、たおやかなモンゴル音楽のエッセンスに加えて、ロックの猛々しさとスケール感、性急性を持ち込み、幅を広げている。2曲目の「Uruumdush」における絶妙なダウン・トゥ・アースなブルージーな質感にホーミー、及び、重なるコーラスの雄大さ、4曲目のベーシックな弾き語りに音が増えていく「Hairan Hairan」は、例えば、ジョー・ヘンリーやエミルー・ハリスのような深い哀感とリリシズムが漂い、10曲目「Ayrhindu」ではモンゴルの移動式テント(ゲル)内で酒盛りをしているときに似合うだろう、パーティー・ソングになっている、など、様々な「意匠」に溢れた曲が詰まっている。なお、日本盤にボーナス・トラックに収められている3曲も非常に良い。ギターとパーカッションを軸に進む、リズムが主体になった軽やかな「Brothers」、モンゴルの大草原を馬が駆け抜けてゆくように高揚していく、ジプシー・ミュージックのノマド性にも繋がるような「Beautiful Mongolian Horse」、弦が美しく音景色に奥行きを与える「Daya」。

 補足しておくと、元来、この作品はオランダのレーベルから2010年にリリースされており、世界的にも高い評価を得ていた。しかしながら、「モンゴル音楽ラロック」のイメージへのバイアスもあったのか、決してその時点で日本では多くの人たちに受け容れられたとは言えなかった。プロデューサーが先ごろに残念ながら解散表明をしたR.E.M.、そして、ニール・ヤングのプロデュースもしていた、ケン・ストリングフェロウというのもあり、その名前沿いに彼らに辿り着いた人もいると思うが、こうして、日本盤がリリースされたのをまず喜びたい。

 『He Who Travels Far』では、モンゴル音楽の「イメージ」に対して、しっかりと西洋的な音楽要素を含ませ、「深化」の過程を歩んだ試みは成功していると個人的に思うだけに、表層をなぞるエキゾチズムではなく、ここには背筋の通った凛としたグローバル化で稀釈した商業音楽へのアンチ・テーゼ(カウンターではなく。)の意味を噛み締めるのも良いかもしれない。また、伊立奇がレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン以外にも、ピンク・フロイドをフェイバリットにしていたのが如実な分かるプログレッシヴな展開が伺える曲も興味深い。

 グローバリズムが進むほどに、逆説的に「帰巣」本能に鋭敏になる世界中の人たちはルーツ探しに躍起になっているという側面もある。また、こういったカオティックな時代にはチルウェイヴ然り、現実逃避の導線付けとして音楽を求めている層も多い。それと最近は、反動なのか、シンセ・ポップでユーフォリックな音を鳴らそうとするバンドがアメリカのインディーシーンでは出てきている。プロダクションも要は、80年代のそれでしかないのだが、「現状認知」の行き詰まりをその瞬間でも解放させるための"Hi-5"を目指す。

 中国の北京のアンダーグラウンドで、パンクをやっていた伊立奇は文化とルーツの歴史の階段を昇り、モンゴルの草原に立った。草原に立っても、流れてくる風で今日の天気は分かるだろうし、無邪気に、「自然は美しい」と言えない現状もあるだろう。そこで、こういった大胆な舵取りをしたこの作品に溢れる音楽愛は国境を越えるような、逞しさと毅然さに溢れている。

 もう、ワールド・ミュージックの「ワールド」は外してもいい時期なのだろう。

 音楽は「音楽」として響く。

(松浦達)

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