BALAM ACAB 『Wander / Wonder』(Tri Angle / Octave Lab)

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BALAM ACAB.jpg  チルウェイヴというネット的に連鎖状に繋がり、隆盛したエスケーピズムとしての白昼夢のような音世界には批判も同時にあったが、毅然と前に進むのが難しい時代において、せめて音楽の中では微睡んでいたい、というそれぞれの切迫した集団心理があったともいえる。何故ならば、現実から「逃避」することは、それだけ峻厳な「現実」を意識するということでもある訳で、そこから僅かな「隙間」を縫って、或る意味でファンタジックに、とも言える大文字の「暗み」と「耽美」を入れたのがウィッチ・ハウスだとしたら、ホーリー・アザー、サン・グリッターズ、ハウ・トゥ・ドレス・ウェル辺りのサウンドに宿る不穏さは世界中のベッドルームで累積された各々の呻きや懊悩を掬い上げ、そこに硬質なビート・メイクをすることで、逃避ではなく、「潜航」を促す。

 この場合、「潜航」しているときに見上げるのは現実ではなく、どちらかというと自分の内面であり、その内面を浸食している不安かもしれない。心理学者のダニエル・L・シャクターが言うTransience(もの忘れ・一時性)とは、記憶の「合成」過程内で怠り、再び把握する中で、「それ」とは違う「それ」が格納されることになるとき、実は親近性という概念が大きく持ち上がる。親近性という意味は、近く自分の中で「手に届くようなもの」である限り、それは不特定な対象性を帯びてしまうということであり、チルウェイヴの"親近性"に多くの人たちが近したのと同時に、何故かTransienceしてしまっているような状況性とはいうのは、例えば、普段掛けている眼鏡を「当たり前」として「いつもの場所」に置いてみても、それが「いつもの場所ではない可能性」を含意しないと、近付くほどに、茫洋とした現実に接触「してしまう」混乱が起きる。その混乱の切断面の一部分で起きるデジャ・ビュとは別に、ジャメ・ビュへの退転というものも引っ張られる。未視感。見慣れているはずのものなのに、知らないような感覚へ「着地」したときに、内側から混み出てくるノイズやカオス。それは決して明るい何かを帯びず、記憶認識の誤差からのバグがはぐれた現実を「再規定」する。

 バラム・アカブのファースト・アルバム『Wander / Wonder』は、初期のボーズ・オブ・カナダが持っていたドリーミーな音世界に近似しながらも、禍禍しさと亡霊の声のようなものが漂い、ダークなトーンが貫かれているところが興味深い。ビート・メイキングの素晴らしさと奥行きのあるサウンドスケープの中で明滅するのは、昨今のエレクトロニカ、IDMの良いエッセンスを凝縮したようなところもあり、同時にまだまだ若さゆえなのか、緻密な設計図に則ったというよりは勢いで作ったようなラフさもある8曲が揃う。

 想えば、2010年のEP「See Birds」でデビューしたときの彼は19歳で、ウィッチ・ハウスの貴公子のようなネーミング付けも為され、立ち上げたレーベルの《Tri Angle》もそのシーンのイコンになった。そして、チルウェイヴの代名詞のウォッシュド・アウトとコインの裏表のように比較されながらメディアで語られるイメージの誤謬やウィッチ・ハウスという定義が明確化しないまま、バラム・アカブの「音」は待たれていた。

 現今、音楽と呼ばれるものに、大きな物語や背景ではなく、そこから離れた「細部」を求めている層が確実に台頭してきており、その「細部」とは80年代的なカウンターカルチャー、ポストモダンとしての「細部に神は宿る」といったような何かではなく、現在進行形の胎動に自分たちで名称化していこう、書き替えや再定義をしていこう、という編集意識の表出としたならば、このアルバムで感じることができるデジャ・ヴュは、旧くはブリストル・サウンド、現在のダブステップが反射しながら結んだ「模像」とも解釈できる。「模像」としても、先行シングルの「Oh, Why」にあった子守唄のような優美さや硬く刻まれるビート、「Await」の静謐な孤独に凛と宿るエレガンスは今、必要な音なのは間違いない。

 ウィッチ・ハウスなどのカテゴリーは越えて、これからが期待を担うアーティストとして、彼はより暗闇とエレガンスに手を伸ばしてゆくだろう。まだ、これは「名刺(始まり)」ですらない。

(松浦達)

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