神聖かまってちゃん『8月32日へ』(Warner)

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神聖かまってちゃん.jpg『つまんね』『みんな死ね』までは、自分自身を曝け出すような音楽を鳴らしていた。しかし『8月32日へ』では、4人と神聖かまってちゃんという存在の間に微妙な距離感がある。もちろんすべての曲は4人が作り上げたものだし、の子の告白的な歌詞も健在だ。それでもこの"微妙な距離感"が拭えないのは、4人の音楽に対する接し方が変化してきているからだろう。それはまるで、設定したキャラクターを通して自らの表現をアウトプットしてきた、デヴィッド・ボウイのようだ。

 デヴィッド・ボウイは根っからのロックンローラーではなく、"発信媒体としての音楽"の可能性を独自の視点で切り開いてきた、"役者"に近い存在だったと思う。そんな役者人生に『Scary Monsters』で自ら終止符を打ち、その後ボウイは、「自分とは一体何なのか?」という新たな問題に悩まされる。この苦悩は、名声を手に入れた者が抱える典型的なものだが、それは神聖かまってちゃんも同様だった。

 とはいえ、神聖かまってちゃんの悩みは、ボウイのそれとは異なる。前述したように、ボウイは自分自身について悩んだが、神聖かまってちゃんの場合は音楽そのものについて悩んでいる。「夕暮れメモライザ」「コタツから眺める世界地図」「僕は頑張るよっ」「死にたい季節」のようなピッチシフトを極端に上げ、アニメの主題歌風になっている曲はもちろんのこと、アルバム全体を通して漂う雰囲気もどこか上の空というか、曲から遠いところで4人は演奏している。それは、イメージが先行し、ソングライティングなど純粋な音楽的力量が評価されないもどかしさからくるものではないか? 以前に比べて上手くなった演奏や洗練されたプロダクションも、このもどかしさの説得力を強固なものにしている。過渡期な音楽と共に、神聖かまってちゃんという"器"に向き合う4人の姿が、『8月32日へ』には記録されている。

(近藤真弥)

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