THE MIRRAZ 「観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは」 (Kinoi Records)

|

TheMirraz.jpg  ノルウェーの小説家クヌート・ハムスンの『餓ゑ』の筋は、おおまかに要は「一人の若者」が都市にやってきて、彼には名も家も仕事もない。でも、「書く」ために都市に出てきており、彼は、書きながら、時にいや、精確には「書かない」のだが、結果的に彼は飢餓寸前までに陥る。1890年のクリスチャニア(今のオスロ)、その若者は街を彷徨いながらも都市が引く導線である「空腹を惹起せしめる」為の装置の迷路に入り込むことになる。頼まれもしない、地元新聞の記事を書き、家賃に追われ、次の仕事を探す為の辛苦に埋もれ、懊悩の中でのた打ち回りながら、精神破綻寸前まで行き、破却が目の前まで迫っているような日々をおくる。

 それでも、「彼」は「ものを書く」。

 時折は、記事が二束三文で売れることがあって、僅かなお金が入って、「生活が潤沢になる瞬間」もあるものの、コンスタントに書いていくためには彼は体が弱すぎ、着想からエンドロールまで書き終えられる文章の方が少なく、未完の論考と哲学論と寓話、戯曲に揉まれて、彼は食べられない。結局は、書かないと食べられないのだが、「食べるためには書かないといけない」。それでも、彼は書けない。切実な迷路の中で、彼は筆を持ち、書こうするが、「書けない」。

 巷間での独り言。都市の彷徨。周囲の人たちは「彼」に対して徐々に心を離してゆく。そして、たまたま何かの契機でお金が舞い込んでも彼はそれを他人にあげてしまう。彼は宿からも追い出され、そして何かを食べても何かを吐き出し、一人の女の子と恋愛的な戯れに暮れたりするものの、屈辱しか感じず、やはり彼は「餓える」。

 でも、彼は死なず、理由も関係なく船乗りの仕事に就き、「街を去る」。

>>>>>>>>>>

 ザ・ミイラズが今、面白いモードに入ってきている。

 アークティック・モンキーズ × ビースティーボーイズのパクリ、いや、オマージュでいいだろうか、そのままに鋭いビートにまくしたてるような言葉数の多い畠山氏のボーカルには様々な登場人物が現れるが、基本、総てはアウトバーンで車を飛ばすように景色みたく流れてゆき、「僕」から発された自意識内でのカオスが君としての「対象a」に向けてマシンガン的に放たれるという在り方が押し出される。そして、髭(HiGE)辺りに近いシニシズムをうまく包含し、作品を重ねてゆくごとにどんどん彼らの人気は「もたざるユースたち」の心をしっかりと掴むようになっていった。

 数多ある彼らの曲群の中でも、「シスター」の《殺人鬼も犯罪者も政治家も総理大臣 コンビニの店員も配達のおじさんも タクシーの運転手もナースもネラーもニートも不良も 泣いてないで》、「ハッピーアイスクリーム」の《僕らはもう少しうまくやれたのかな》といったふと挟まれるフレーズの破片は、セカイ系の終焉を迎えたこの時世においてもオンになるというのは不思議というよりも、君と僕の先に世界が滅ばない代わりに、僕は「自分が思うことをブレスさえ入れないくらい詰め込んで(そこか、向こうの)君に向けて歌う」―そのスタンスがとても批評的な行為を帯びていたと言える。

 そして、2011年、初のシングルとなった「観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは」ではシンプルなロックンロールに回帰したようで、過剰な言葉が巻き込む熱よりもサビの《観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは 僕だけのものになっていたはずさ》という歌詞の切なさの余韻が残る。何故ならば、「観覧車」という密閉空間の中で夜景に照らされているというロマンティックな情景描写があった上で、それでも、僕だけのものになっていた「はず」という夢想・回顧でもあり、「今」はその観覧車に乗っていったのは果たして僕だけだったのか、それも判らないからであり、だから、これは想い出を再映するべく2分半で一気に完結する。終わるために音楽が鳴り始まるならば、この曲での簡素さは最初から終わりを始めている。2曲目の「ウザイあいつ」は爽やかなギターロック調に、「愛されたいから愛欲しい」と歌う曲で、言葉遊び的なものが活きた疾走感があり、彼らがネクスト・フェイズに入ってきた過渡期としての空気感がしっかりおさめられている。

 思い返せば、『Top Of The Fuckn' World』、『We Are The Fuckn' World』の近二作でサウンド・ヴァリエーションの幅が拡がり、シニシズムと偽悪が前面化する雰囲気よりも、その要所でどうしても滲む、優しさがベースになっていたといっても、過言ではなかった。そして、インタビューにおけるボーカル・ギターの畠山氏は相変わらずのビッグマウスで、アークティック・モンキーズ、M.I.A、キングス・オブ・レオン、更にはビートルズからの直截的なオマージュ(パクリ)に触れ、「ミスチルくらい売れたい。」というようなことを言っていたが、あくまでもたざる者・生活者たちに向けた視点を貫いた上でのものも鑑みることができるゆえに、ほのかな慈しみが垣間見えるのも確かだった。

>>>>>>>>>>

 現今、日本では神聖かまってちゃん、SEKAI NO OWARI、PLENTYなど若い世代で「生き難さ」、「未来への不安」、「君を想う僕」、「もたざる者たちとしての咆哮」をパンク的アティチュードで綴るバンドが増えてきたが、THE MIRRAZはそういったバンドの"餓え"と確実に違う何かを持っているバンドではないか、と思う。

 おそらく、彼らはクヌート・ハムスンの『餓え』に倣う訳ではないが、どうやっても「書くだろう」し、いずれは「街」を去る可能性もある。そして、最後に触れておくと、9月にリリースされる第二弾シングルの「ラストナンバー」もリズムが心地よいバウンシーなロックンロールであり、歌詞も失恋を巡ったモノローグであり、ときに"儚い恋のように"2分半ほどでこれも終わる。

《「1、2、3、4」で忘れないでよ 36.5℃の思い出を 単純な言葉で残しとこう》(「観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは」)

 単純な言葉で、36.5℃の想い出を残そうとしているザ・ミイラズのこれからは非常に楽しみな表現への"餓え"があり、頼もしい。

(松浦達)

retweet