"ポスト・クラシカル"を迂回する武満徹について

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今回コントリビューターの松浦さんが送ってくださった原稿は故・武満徹氏について。

武満氏が亡くなったときは本当にショックでした。

尺八を使った日本の現代音楽の第一人者として世界に通用する唯一無二の音楽家であった氏について、更に深く追求した素晴らしい原稿になっています。


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 昨今、隆盛している「ポスト・クラシカル」というジャンルで或る意味で神棚に祀られているようなアーティストの一人に武満徹が居る。

 彼は、現代音楽の枠でも捉えることが出来るし、前衛音楽の側面も強い。そして、海外のジャーナリストからは「和と洋の折衷、昇華を試みた偉大なる功労者」としていささか粗雑な評が為されることも多い。いまだに、簡単に言うとだが、調性(トナリティ)から無調(アトナリティ)、そして、セリエリズムがあり、偶然性へと至るという"単一的な歴史観"が西洋の作曲家や音楽ジャーナリズムの認識下でシェアされているとしたならば、既に彼の音楽を把握するときに、ポストモダン的旋回をしているという色眼鏡が掛かってくることになるが、その「色眼鏡としてのポストモダン」サイドからの音楽認識はスティーヴ・ライヒやジョン・ケージを捉える文脈と非なるものながら、極めて近似する。とすると、10年代に入った今、サブカルチャー/ハイカルチャーの敷居がほぼ無くなり、ハイカルチャーの持つ悪しき選好性こそが寧ろ、ベタで恰好悪くさえあるという意味を踏まえると、昨今のポスト・クラシカル勢のアーティストの分かり易さとマーケット・サイドの潜在需要は極めて、愚直なほどの芸術音楽のロマンティシズムの飛距離に準拠してくるような気がする。

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 音楽にエスケーピズムを求めるのか、純然たる美しさを見出すのか、それ以上の意味文脈を炙り出したいのか、各々次第だとは思うものの、「ポスト・クラシカル」という音楽の大半は体感するものではなく、クラシックでもジャズでもなく、シンプルに「聴く」(効く)音楽であると言えるかもしれない。一時期、それはクラブ・ジャズやラウンジ・ミュージック、IDM界隈が担っていたものだが、混合折衷された形で一つの束として纏め上げられたネーミングに「ポスト」と「クラシカル」という引き裂かれた言葉が並んだところにイロニカルな部分がある。例えば、それは、菊地成孔が今、"ホット・ハウス"というコンセプトを過去の豊潤な音楽の中から掘り下げないといけなかったのか、クラシック・ピアニストのフランチェスコ・トリスターノ・シュリメがテクノと対峙しないといけなかったのか、という病根(敢えて、こういう言葉を使うが)に繋がってくる。フラット化した世界で、辺境の音楽やクラシック音楽のプレスティージュを保つことは逆説的に、モダニズム側への収斂を余儀なくされる訳で、例えば、生前に武満徹が「複数のことを同時に語りたい」とよく言っていたが、それを咀嚼すると、「音楽の中では幾つもの言葉を共時に込めることが出来る」ということで、彼の作品の「テクスチュアズ」などを聴けば、よく分かると思う。但し、高度にグローバル化した中での昭和(プレ・モダン)の頑なさを保った彼の作品群を今、聴くとなると、ブーレーズよりもメシアンやラヴェルのような濃厚な馨りが立ち昇ってくるとともに、現代の、環境音楽、アンビエントに近いものを感じる要素もある。

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 ミュージック・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールは「音響物体(Objet Sonore)」という概念を提唱し、抽象的な楽音によって、具体的なイメージを照射し、美学面での音楽を再構成しようと試みたが、その古典性は反復の退屈さ・無味乾燥の中に「素材」として格納されてしまう憂慮があり、その反復に差異ベースの模索と自由を持ち込もうとしたのがモダン以降(ポストモダンではなく)の宿命でもあった。

 では、彼の音楽は、手掛けた映画音楽群に顕著だが、音を視るように聴ける部分があり、彼自身も「人間は、眼と耳がほぼ同じ位置にあり、音を聴く時、視覚が伴ってくる。そして、また、眼で見た場合もそれが聴感に作用する。それは、別々のことではなく、常に互いに相乗し、イマジネーションを活力あるものにしている。」と述べている通り、ポスト・クラシカル界隈の音楽がアドルノの聴衆の7類型に沿うと、「教養消費者」としての部分があるとしたならば、彼の音楽はもっと「娯楽型聴取者」へアタッチメントするところがあり、それを降下と置いたところで、実は降下「ではない」のが現代の難しさでもある。その難しさにポスト性を置いて神棚に祀るのではなく、音楽がただ「音楽」としての名前を確保するというロマンティシズムを堅守した彼の音楽は"11月のステップ(ノヴェンヴァー・ステップス)"を越えて、軽やかに聖/俗の垣根を越えて、渡り歩く。エリック・サティがとても分かり易い形で気鋭の音楽家たちにリミックスされる現代において、武満徹の音楽の輪郭をクラシックやジャズからのアプローチではなく、もっと明瞭な形式で解釈し、パロールを持つことは出来ると思う。

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 最後に、何より彼は望んでいたのは、「センシュアルなものが一つのハーモニーを作っていく、そして、そのハーモニーが僕の耳には聴こえる」と云っていた通り、音楽の蠱惑性への気付きの導線だった。「ただの音楽」はとてもセンシュアルなものであるとしたら、ポスト・クラシカルの音楽に時折、帯びる過度な禁欲主義、教養主義を対象化した上で今こそ、「遮られない休息」を付与するのではないだろうか。彼の描いた音楽は、艶かしいほどに人間的な何かがあり、そこに適切なリアリティがぼんやりと浮かび上がる。今の時代にこそ、"見るように聴ける"彼の音の波に触れてみるのも良いと思う。

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