アラビック・ポップスの可塑性

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今回コントリビューターの松浦さんが寄せてくれた原稿は、「アラビック・ポップス」というある種ニッチなジャンルの音楽について。

普段から注目している方も、そうでない方も、読みやすく例を挙げながら紹介してくださっています。

こんな可塑性について、皆さんはどんな風に感じますか?


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 他の民族や他の時代についての知識といっても、それ自体を目的とした理解や思いやりや慎重な研究と分析によって得られた知識と、自己肯定や敵対姿勢、あるいは全面戦争のための作戦の一環としての知識(それが知識であるなら)との間には、相違があるということだ。つまるところ、共生をめざし、人文学(humanism)研究の地平を拡大するために理解しようという意思と、管理や外部支配を目的とした支配しようとする意思の間には、根本的な相違があるということだ。(エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』新版、序文より)

「グローカル」という言葉に違和を感じてしまうのが、「間(ま)」をその言葉に感じないからかもしれない。グローバル化という多様性と液状性の中で文化は攪拌された中に潜航するようにローカル・ルールが適用されるユニット(単位)として、価値観の模索への道筋の、如何せん粗雑さへの孫引きが見えるものもあるが、例えば、K-POP勢の世界中での愛され方は非常に健康的なものも感じるし、芸能(藝術ではなく)と音楽の閾値が「韓国」発信というネーション(帰属性)を記号化して、各国に万遍なく受容されたスムースな回路が商業的にも視えやすいというのがある。その点、レディ・ガガの進み方とは、オルタナティヴで果敢な対・世界との鬩ぎ合いみたいな様相があり、一挙手一投足のアクション、パフォーマンスに凄まじいマイノリティとしての矜持を感じる。

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 ただ、例えば、そういった音楽は、今はフラットに何処でも手に入るようになった分だけ、まだ見ぬ、想像範囲内の国であったり、90年代前半に一気に隆盛した"ワールド・ミュージック"という大文字の言葉を含めて、辺境や民族性の強い音楽は一部の好事家の中に査収されているのが現状で、砂漠のブルーズの流れが世界的に盛り上がった時も、そこにはロバート・プラントの姿が居たし、第三世界の音楽を咀嚼・嚥下するためには一旦、「西洋」を通過しないといけない例は過去、色んな形で観た人も多いと思う。今、中近東の音楽が面白いと言っても、どれだけの方がシェアされるか分からないのだが、00年代半ば辺りからエレクトロやマッシヴなビート、また、クラブ・ジャズといった要素を援用して一気に音楽がモダナイズされた動きがあるのは逃してならないと思う。

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 今回は、アラビック・ポップスに絞るが、そのメインストリームを担うエッセンスとしてはアルジェリアの「ライ」、エジプト、レバノンの「アルジール」の二つが大きい。ちなみに、よく名前は聞くだろう「ライ」に関しての原型は、亡きシェイハ・リミティのベンディールという片面太鼓と葦笛ガスバをバックにこぶしをきかせた声と軽快な手拍子が特徴的なもので、それは年代を重ねてゆくにつれ、80年代後半ではシンセ・サウンドとドラム・マシーンにより希釈、ポップ化、04年に入ってからの、マグレブ系のDJ KORE&SKALPの『Rai'n'b Fever』のブレイクもあった。その作品では、ライの力強さとトランシーな要素をフレンチ・スタイルにソフィスティケイティッドさせ、R&B、ヒップホップとのエクレクティズムを昇華させることに成功したが、元来の「ライ」の持つグルーヴ感の上澄みをスティールした部分があり、いささか表層的な部分は否めない。しかし、昨今、アムル・ディアヴ辺りの世界に通じるポップスターが出てきたこともあり、汎的な強度もあった。

 更に、今、世界的に注目されているのは「アラビック・ラウンジ」というタームである。『Rough Guide To Arabic Lounge』というコンピレーションがリリースされたのもあり、アラブ音楽をベースにしながら西洋音楽とのエクレクティックなまろやかさは世界的に認識されてきてはいたが、今のところ、代表格といえるのはSYRIANAだろう。

  SYRIANAとは、トランス・グローバル・アンダーグラウンドのメンバーとして活躍していたイギリス人のギタリストであり、作曲家のニック・ペイジがシリアの音楽・文化に魅せられたところから始まった。ニックといえば、エチオピア音楽とダブを混ぜたプロジェクト、ダブ・コロッサスで名前を目にしたという方も多いかもしれない。そして、ダマスカス出身のカーヌーン奏者アヴドゥラ・チャハデハ、アイルランド人のベーシストであるバーナード・オニールによってこのSYRIANAは結成される。昨年、リリースされた『The Road To Damascus』での豊潤な曲世界には個人的に唸らされた。ニックのサイケデリックで エレキ・ギターの響きにアブドゥラのカーヌーンなどが混ざり、そこに弦楽器、シリアのストリングスが混ざり、「異国情緒」や「エキゾチック・アンビエント」といった軽薄な記号を越えてくるものがあり、シリア人のフィメール・アーティストのルバナ・アル・クンタルの声もディーセントな力強さ、生命力を持って混ざってくる。曲によっては、昨今のUSにおけるインディーアンビエントの馨りやブルックリンのギャング・ギャング・ダンス辺りが持つポップネスも備えている。勿論、イギリス人のニック・ペイジが関わっているという時点で、砂漠のブルーズと同じく、ある種の西洋的な作為性も感じる。それでも、アラビック・ポップスの持つたおやかな深みは薄まるどころか、寧ろ、積極的に西洋音楽とぶつかり合うことで、健全なケミストリーを産んでいる点に注目すべきだろう。

 そして、アラビック・ラウンジ越しには、脱ヘゲモニー、脱西欧中心主義のオルタナティヴ性とともに、まだまだ色眼鏡越しに「ワールド(・ミュージック)」が語られてしまう何かを脱構築する確かな手応えがある。アラブ圏の音楽の貪欲な逞しさにはこれからも目配せしていくのも面白いのではないか、と思う。決して、「遠い音楽」ではない。

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