『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』映画(パルコ / アップリンク)

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exit through.jpeg「動くバンクシー」って言うか、「映像作家」としてのバンクシーも最高だった。"バンクシー先生、ストリート・アートから飛び出して表現の幅を広げるの巻"かと思ったら、トンデモない映画が出来上がった。しかもドキュメンタリー。まず最初に断言できるのは、これは僕が今年見た映画の中で、いちばん面白かった!ってこと(8月8日現在)。ユーモアと皮肉にあふれていて、知的な好奇心もくすぐってくれる。

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 僕がバンクシーを知ったのは、ブラーの『THINK TANK』のジャケット。潜水服を着たカップルのアレ。ポップ/ロック・ミュージックのアルバム・デザインを新進気鋭のデザイナーやアーティストが手掛けるのは、60年代からの伝統だ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやストーンズにはウォーホール、ピンク・フロイドにはヒプノシス、ピストルズにはジェイミー・リード、ニュー・オーダーなどのファクトリー系にはピーター・サヴィル etc...。音楽とアートの幸せな関係。レコードやCDを買ったら、ブックレットを隅々まで精読して「誰がデザインしてんのかな?」って、チェックするのも楽しい。アルバムのテーマやコンセプトが視覚的に表現されているのはもちろん、ミュージシャンのセンスや(現実的/精神的な)繋がりが垣間見えたりもする。意外だったのは、ジョー・ストラマー&ザ・メスカレロスの1st『Rock Art And The X-Ray Style」にダミアン・ハーストのイラストが使われていたこと。「"輪切り"で有名な人だから、絵はヘタなんだ」と思った。ブラーはベスト盤にジュリアン・オピーを起用したり、そこら辺の目配せもしっかりしていた。

 でも、『THINK TANK』のジャケットを初めて見た時はピンと来なかった。"バンクシー"という名前(タグ)だけが、僕の頭に書き残された感じ。ブラーの活動も尻すぼみになったから、アルバムにも特に愛着はない。その後、ネットか雑誌かで再びその名前を知って、興味を持つようになった。花束を投げ込む暴動者、キスをしている警官、パレスチナの壁に描かれた青空と子供。ご多分にもれず、僕もパッと見でグッときてしまった。『THINK TANK』のデザインは、むしろ失敗作じゃん。...だけどね。「バンクシー大好き!って言う前に、ちょっと用心しなくちゃ」って、もう一人の自分が心の中で囁く。『わかりやすさ=ポップ』はキケンだよ、と。「来年の夏には、ユニクロのTシャツになってるぜ!」とかね。

 ユニクロのTシャツが悪い、とは全然思わない。むしろセンスが良いのも(ECMとか!)あるし。でも、"ユニクロのTシャツという額縁"に収まった時点で、とっくにアートとしての役割が終了しているのは事実。「大量に再生産」されるのは"ポップ=大衆的"だけど、それが不特定多数の(洗濯機の)中で文字通り色褪せてゆくのはどうだろう? ウォーホールが夢見たことではないと思う。ピーター・サヴィルがデザインしたパックマン(も、どうかと思うけど)のユニクロTシャツを着た人を、何度か見かけたことがある。それがピーター・サヴィルで"ある必要がない"という点で、やっぱり複雑な心境になってしまう(ついでに、僕はデザイナーズ・ブランドがジョイ・ディヴィジョンをモチーフにしたことにもガッカリした。引用/サンプリング/パスティーシュという視点で、話はちょっと違うと思うけれども)。何でも消費し尽くされるスペクタクルな世界だね!

 真面目にアートの意図を理解して愛でろ、とは思わない。だけど、作家が描いた時のモチベーションに感化されなくちゃ意味がない。それが僕の"ポップ・アート"に対するスタンス。知るきっかけはレコードやCDのジャケットで良い。「ずっと前から好きでした」「追っかけてます」的な知ったかぶりはしんどいだけ。1枚のポップ・アート作品をじっと見つめてみよう。色は? モチーフは? ステンシルかな? CGかな? 手書きかな? そして、コイツは一体何が言いたいんだ?

 そんなことを考えながら、僕は09年の夏にBunkamura Gallaryで開催された"urban / graffiti art exhibition"を見に行った。バンクシー、ジェイミー・リード、そして『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』では、渦中の人とも言えるスペース・インベーダーの作品も展示されていた。結局、そこは限りなくユニクロのTシャツ売場と同じように思えた。僕の収穫はバンクシーの作品集『Wall and Piece』を手に入れたことだけ。感動したなんて、口が裂けても言えない。

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『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の前半では、ティエリー・グエッタという一人の男の目を通して"グラフィティ/ストリート・アート"の成り立ちが描かれている。単なるビデオカメラオタクが、ひょんなことからアンダーグラウンドのアート・シーンに深入りして行く様はスリリングですらある。この時点で、バンクシー本人は謎のままだ。やがて、ティエリーはシーンの頂点に君臨するバンクシーとの邂逅を果たす。しかし、そこから事態は思いがけない方向に急展開。ドキュメンタリーという手法を用いながらも、後半はティエリー自身を追いかける視点へと変化する。ティエリーはビデオカメラを置き、名前を変え、ある行動に出る。その一部始終が、パワフルで滑稽だ。まるでシュールなコメディのように。

 バンクシーは映画の中で、3つの役割をこなしている。1つは作中に登場する語り部。2つ目はティエリーが接触を願う"シーンの最高峰アーティスト"として。そして、3つ目はこの作品の監督。バンクシーが体現するトライアングルの中で、ティエリーという男が右往左往する。そこに真実と虚像があり、皮肉と爆笑がある。冷笑ではないのが、この映画の素晴らしいところだと思う。

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 言うまでもなく、グラフィティ/ストリート・アートは刹那的であることが宿命だ。公共の場に「落書き」するという手法ゆえに違法でもある。多くのアーティストが名前を偽り、素顔を隠す。バンクシーもしかり。そんな彼らのアートの行き先はどこなのだろう? 翌朝にはブラシでゴシゴシ消されてしまうのか。美術館の額縁やTシャツに移植されてしまうのか。オークションで高値で取り引きされるのか。それでも、なぜ描き続けるのだろう? ストリート・アートのみならず、現代アート全般においても共同作業/外部発注は当たり前のこと。そこでの真の作家性とは? アートの居場所とは? バンクシーはそれを問いかける。この映画では、たった独りバンクシーだけが爆笑していない。彼が浮かべるのは苦笑いばかりだ。

「孤独な苦笑い」

 それは、アートがプリントされたユニクロのTシャツを発見した時の気持ちにも似ている。手に入れるのも自由、無視するのも自由。もちろん、作品の意図を考え直すのも自由だ。「さて、どうする?」。バンクシーはそう問いかける。マドンナのベスト盤とブラーの『THINK TANK』のジャケットを見比べてみても、たぶん同じ気持ちになるだろう。そんなことを考えているうちに、映画は冒頭でも流れていた主題歌と共に幕を閉じる。

 元ロングピッグスのギタリスト、リチャード・ハーレイの「Tonight The Streets Are Ours」がぴったりで、可笑しくて、切ない。《今夜、ストリートは僕たちのもの》と歌われる、ちょっと前の思い出。バンクシーはいつもと同じく皮肉屋さんだけれども、結局、誰のことも批判していない。彼が描くストリート・アートのように映画の中にメッセージを投げ込んで、僕たちの前から姿を消す。あの夜、ストリートで警官から逃げ去ったキッズのように。だけど、今は「してやったぜ!」という無邪気な笑顔はない。もう誰も"あの頃"には戻れないことをわかっているから。

(犬飼一郎)

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』公式サイト

http://www.uplink.co.jp/exitthrough/

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