MATTHEW HERBERT 『One Pig』 (Accidental / Hostess)

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MatthewHerbert.jpg  今や、コラムニスト的な存在になってしまったきらいもあるが、経済学者のポール・クルーグマンは以前より「経済格差はつくられたものである」と力説していた。つまり、現今、アメリカで極端なレヴェルまで貧富差が拡がったのは、経済的な意味でのグローバル化ではなく、政策に依拠するものだということで、これには、経済のグローバル化が一気に市場を飲み込んだという大きな論を相対化する歴史的背景もある。"縛り"としてのソーシャリズムが緩やかに解けてからの中国やロシアなどの大国の世界市場への進出と日本に流れ込んだ「安くて、良いもの」は産業のパラダイムを完全に変えた。

 しかし、総てを経済的与件に収斂するには粗雑すぎるのは、日本が築立してきた戦後からの経済的な持ち直しにはあくまで政策論としての側面と総中流階級意識としてのモラリティが発現していた要素も含意しないといけないからなのもある。それが「失われた20年」の中で、そして、現在の恐慌前夜のようなムードの中で、再び「格差」や「グローバリゼーション」に対しての警鐘が鳴らされている気がするが、90年代後半からに一気に隆盛したNO LOGOや反・グローバリズムの温度や空気感とは少し違うのは、"そこ"に「巻き込まれながらも、どうしてゆくか」というフェイズに入っているからだと思わざるを得ない。ASEANや新興国が目覚ましく発展し、未来を描いてゆく中で、日本やユーロ圏、アメリカは少しずつ老い、斜陽の時期を迎えている。そこで、例えば、ウォルマートやマクドナルドを敢えて、「仮想敵」に置いてしまうには時間的・文化的なラグが産まれてもしまう。

 要は、グローバル化の「象徴」として置かれるそういった多国籍企業が掬い上げる人たちの生活水準値を鑑みたときに、それを搾取の構造「論」の一端と置くには無理があるという意味でもあるし、日本でも郊外の景色の画一化、ショッピング・モールの乱立、風土のファスト化が嘆かれているが、そこで遊ぶ、「未来を生きる若者やキッズたち」は無邪気ではない形で、何かをしっかりと視ている。また、アジア諸国などに行けば、マクドナルドなどの企業はまだまだ発展の象徴であり、それができたことで自分たちの高度経済成長を確信するというイロニーも根付いている。

 例えば、ピエトラ・リボリの『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社)を読んでも、自由貿易と競争市場原理と世界を巡るTシャツの在り方を抉りながらも、グローバル化に反対する活動家は好んでアメリカの大多国籍企業を標的とするが、自分が巡ったTシャツを巡っての考察においては、そうした大企業は登場せず、殆どが比較的小さな家族経営の企業ばかりだった、と示しているように「イメージ」のバイアスが膨らみながら、現在、グローバリゼーションという言葉はどんどん記号化、気化をしていきながら、市場メカニズムの「内実」からは遠のきつつあると言える可能性はある。

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 さて、マシュー・ハーバートの『One』シリーズが事前から予定(09年に『One Pig』の構想には彼は言及していた)されていたように、『One Pig』でもって愈よ完結するが、あの<反>グローバリゼーションの精神を押し進め、ステージで某・多国籍企業のハンバーガーを潰すなど過激なパフォーマンスをしていた彼が"One"(一人)に向き合ったという意味でも、『One One』のリリシズムも『One Club』のクラブ・シーンへの批評性も確実にこれまでの彼のアクションからすると、独特の翳りと彼らしい知性が別ベクトルで開花した手応えを感じさせるものになっており、音響工作の巧みさ以外にも、その発言から作品自体に包含された意味に注視されるアーティストだっただけに、『One』シリーズを10年代に入り、メインに置きだしたというのは個人的に非常に興味深かった。

 今作は、コンセプトとしては一匹の豚の誕生から死まで巡ってというもので、そのために農家まで出向き、豚の声などの音を取り、そこに彼が後から音響アレンジメントや加工などをしたといういささか奇妙な内容になっている。実際、国際動物保護団体からクレームが来るなど、リリースに漕ぎつけるまで厄介なことはあったようだが、コンセプト先行なしに聴くと、ディーセントなインストゥルメンタルに貫かれた作品になっており、明らかにこれまでの彼の打ち出してきた作品群とは少し毛色が違う。曲名にしても、「August 2009」や「September」、「May 2011」など、その時期にRECされたのか、シンプルな年・月名に統一されている。最新のビョークのリミックスも流石のできだったが、何かしらのビートや音位相のズレの巧みさ、粒立った電子音の気品などが彼の特徴だったとしたならば、今回はダンスへの機能性も排されており、音響工作の美麗さも決して際立っている訳ではない。

 緩やかなオフビートがあくまでなだらかなさざなみのように寄せては返しながら、そこに彼の手掛けたエフェクト処理や僅かな音響的な実験が浮揚する。その意味では、彼のこれまでの様々な作品に触れてきた人たちからすると、異質性に驚くことだろうし、『One Pig』という示唆深いコンセプトに何らかの意味を見出していた人たちからすると、何かしらの違和も感じるかもしれない。

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 ただし、冒頭から触れたように、グローバリゼーションという記号性が再浄化された中で、マシュー・ハーバートが<反定義>ではなく、<異化>を目指す形で、分かり易いポピュラリティに背を向け、一人でこういった作品に対峙するというのは個人的に非常に意義深い何かを孕んでいる気がする。90年代、00年代のダンス、IDMシーンをいささか過激にかつ華麗に彩った彼が10年代に入り、こういった概念性に向かったという事実には、少し感動もする。じわじわと染み込んでゆくような静謐な音の柔らかな波の中で巡る豚の声、そして、"一匹の豚の誕生から「死」までのナラティヴ"に、果たして、何が見えてくるのだろうか、おそらく、今度の9月の来日公演で明らかになると思う。

 最後に、彼が今回の作品に寄せた言葉を記しておきたい。

 「このアルバムは、ある豚が一生で発する音を使って作られる。その豚の誕生の瞬間、生きている間、死を迎える瞬間、そしてシェフに渡りご馳走が用意される間、その全てが録音される。そして、音楽となる。」

―そして、こうして、音楽に「なった」。

(松浦達)

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