工藤鴎芽 「ねぇ ねぇ/目論見(Toxic VS Telephone Ver.)」(Self-Released)

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フル ページ写真.jpg《約束の時間ならとうに過ぎてるぼんやりと窓を眺めて居たらいつの間にか連絡手段を失って
今にも雨が降り出しそうです》(「ねぇねぇ」)

  今までにない浮遊感と透明感のあるサウンドスケープ、素朴なボーカル、後ろでリズムを刻まれるパーカッション。ストレートにサイケデリックな「うたもの」としての強度が1曲目の「ねぇ ねぇ」にはある。例えば、マジック・リアリズムのような「日常にあるものが日常にないものと融合した」作品に対して使われる芸術表現のテクニークに近いような何か、を巡るような温度。マジックという「非-日常性」、「非-現実」とリアリズムの日常性、現実性のアンチノミー性が同時折衷に表わすこのテクニークは時折、シュルレアリスム(超現実主義)と同義とされることがあるが、精確には異なる。

  現在のチルウェイヴ、チャーチ・ソングがときに深い森、濃霧の世界観の中に入り込んでしまう陶酔と微睡みは同時に、峻厳たるリアリティからのエスケーピズムに依拠していたとしたならば、この「ねぇねぇ」ではあくまで、リアリティに向き合いながらも、例えば、フロイト的精神分析や無意識論とは関わらず、フォークロア等といった非-現実的なものとの融合を取っている感触も受ける「約束の時間」を巡っての君と僕の行き違いが切々と紡がれる。しかし、ときに《汚い嘘しか吐けない僕を許して》というフレーズが挟まってくるように、「液体の三日月が揺れていた君と出会ったとき」から「約束」は、遅延されて、別離を刻むための5分の間、ドラマティックな意匠はなく、寧ろメロディーの淡々とした切なさが胸に響く曲になっている。

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  振り返ってみると、彼女はソロ名義として、工藤鴎芽という名前でスタートを切ってからオルタナティヴにザラッとしたローファイな質感と大文字の懊悩、行き難さを綴ってきたキャリアの中で、グランジ経由のギターロックからポエトリー・リーディング、シャンソン、ビート・メイクに凝ったもの、フィールド・レコーディングを取り入れた曲までヴァリエーションを確実に広げ、表現の「精度」も高めてきた。EPを重ね、ファースト・フル・アルバム『Mind Party!』である種、一つの結実点を見出せたような気もしたが、だからこそ、その後、震災でのチャリティー・シングル「胸の内/すいか」、EPの『Meek』で踏み込んだ領域は確実に観念内に籠もりながらも、ソトに立脚している拓け方を帯びていた。特に、『Meek』で見せた「アメル」辺りの新しいヴァイヴは今後の未来を期待する何かがあった。奈良にあるセレクト・レコード・ショップであるジャンゴ・レコードと組んだ1周年記念ミニ・アルバム『Mondo』では音響工作の美しさを極めた彼女の音楽的語彙を広めたポスト・クラシカルな作品としても、興味深かったが、今回、4枚目となるシングル「ねぇねぇ」は、どちらかというと、意匠や実験性が先立っていたきらいがある工藤鴎芽というアーティストが、シンガーソングライターとしても、良質なものを持っているのをリプレゼントする力作になったと思う。バシュティ・バニヤン、ジュディ・シルといったアーティストのような翳りのある折れそうなリリシズムに、柔らかな音の位相で泳ぐ切ない歌詞。以前のシングルの「Call Me」でも、《夢か現実か分からない声が聞こえる》と紡いでいたが、誰かに呼ばれる("Call Me")ことを「記号的」な街で待っていた彼女が、"非"記号的な街の中で具体的な君に問いかける("ねぇねぇ")に対しての変節点には3.11以降の彼女の心境も反映されているのかもしれないし、現実は空想に立脚し、空想は現実を改変し得る余地が見えるその「狭間」を筆致してきた彼女にとっては、この「ねぇねぇ」は逆説的に骨身のソウルを晒す結果となった。一転、2曲目の過去曲である「目論見」の"Toxic VS Telephone Ver."では、攻撃性とオルタナティヴなザラッとした質感がこれまで通りの更新版とも捉えられるが、「ねぇねぇ」と併せて聴くことで、立体的に浮かび上がってくる生々しさがある。その生々しさはこれまでにない心の痛みも孕むとともに、とても切なさを帯びてくる人間のカルマに抵触する。ただ、この諦念でもない痛みをそのまま、アウトプットする方法論としてこういった音楽スタイルを択び、昇華される軌跡も見えてくる「予感」もする。新しいフェイズに入ったシングルと言えるだろう。

《ほら 世界は何一つ変わらない》(「ねぇねぇ」)

(松浦達)

追記:9月9日よりmonstar.fmにて配信開始。 アーティスト・ホームページでも受注可能。

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