スガシカオ 『Sugarless II』(アリオラジャパン)

スガシカオ.jpg  社会学者のマックス・ウェーバーは、西洋近代文明に対しての根本原理は合理化だと置き、そこで「個人」は剥き出しになったまま、知や価値観の持ち方が分化していく過程を説明した。文明や文化が進捗し、形を為す毎に、砂のように崩れる人間の存在性―。また、精神病理学者のヤスパースは彼に私淑していたのだが、彼は「自分の城を持とうとする者は、破滅する」と言っていた。つまり、自分は「自分として」「在る」わけではなく、他者相互・関係の下に「成立」する訳であり、もっともそうな「我、想うゆえに、我あり」ってフレーズ自体は、マスタベイティングに自我の破損・欠落をもたらすのではないか、という懸念を生み出す。「自分の城を築きあげる」ために、努力をして、煉瓦を買って、塀を高くして、扉に鍵をして、誰も入れなくなったとき、そして、呼吸だけ出来るような穴を開けて、生きようとしたときに、人間は寧ろ、生きられなくなる。「自分」なんか、寧ろ要らないのだと思う。

>>>>>>>>>>

 常に社会的人間として、生きるがゆえの劣等感や被害者意識を纏い、生物的な人間性に向けてサディスティックともいえる妄執をファンク調のサウンドにのせて、「きみやぼくを巡ってのあれこれ」を歌ってきたスガシカオがラブソングを主体にしたというアルバムがこの『SugarlessⅡ』である。タイトルのとおり、新たなアルバムというより、新曲、セルフカバー、B面をベースにした『Sugarless』の第二弾の意味も勿論、孕む。

 01年の『Sugarless』の第一弾のときは、シングルのB面集の形を取りながら、彼のロウでラフで人間の業が内にこもりながら、妙な攻撃性を持っていた。そこに入った「マーメイド」といった新曲にしても、いやらしい大人の匂いを巡って少年性のロマンや青さの余地をシニカルに捉えるダークなものだった。ただ、今回、同じく1曲目に新曲としておさめられた「コーヒー」では、全く手触りが変わっている。近年に強く出てきた「雨あがりの朝に」のような優しく、"含み"があまりない曲で、ストリングスを交えた流麗な旋律を奏でながら、《こんな遠回り ぼくの手はきみに届くの? 》という、届きたくても、届かない心の距離をこぼしたコーヒーのしみのようにどうしようもないということを歌う。そして、他にもミスターチルドレンの「ファスナー」を桜井氏とカバーしている温度も、嵐に提供した「アオゾラペダル」のカバーも、シングルのB面サイドに入っていた曲群にしても、穏やかで優しげなものが敢えて選ばれている節がある。

 しかし、この10年で彼の闇は、こうして浄化されていったのか、というと、そうではないと思う。♂/♀としての次元まで降りていき、本能中枢を刺激する域内で迷いながら、模擬的なカタルシスとして、彼は人間という生物の因業を知的に暴く視角が少し変わったということなのだろう。10年代に入って、再び綺麗言やスローガンが思考停止的な"それ"を指すようになった今、彼の優しさは、「君」の服を脱がすこと―芸術やアートや、表現や生活が着込みすぎていることに接触する。そして、その服を脱がして「消毒」して、消毒後、まだ「きみとぼく(ぼくら、ではなく)」がそこに立っていたとしたら、所詮そんなものなのだろう、という刹那さがこのアルバムでは目立つ。

>>>>>>>>>>

 少しだけ整理をすると、彼自身を巡る磁場には幾つもの誤解やバイアスが纏わりついていて、熱狂的に彼を愛する人も毛嫌いする人も、要は、ある一定の「文法(スティル)」に縛られていると言える部分があり、それは村上春樹がスガシカオが好きで、スガシカオも村上春樹や大江健三郎が好きで、といった側面もそうであろうし、彼の言う「ファンク」が決して字義通りの「ファンク」ではないところにJ-POPものにおける立ち位置の微妙さを際立たせているのだと思う。加え、明らかに優しくなっていき、ノリやテンションが重視されてきた近年の作風には穏やかな勝ち組サイドからの大人としての戯れを感応した人も居るかもしれない。

 個人的には、初期の文学性が良い、とか、彼の描く世界観がどうとか、そういう表層で判断するアーティストではなく、彼の人間としての「正気」を信じている部分がある。彼の歌そのものには正直、声量がないかもしれないし、ファンク的な要素が程好く混じった隙間の多く、流麗なサウンドワークと歌謡曲的な部分も備えたメロディーのベタなキャッチーさ、そして、「夜空ノムコウ」を筆頭とした歌詞面での独自性と曖昧さをして、聴く人が聴いたら、巷間のシティー・ミュージックやJ-POPものと差別化するのさえ、難しいかもしれない。ただ、彼の積極的に、希望の余白を歌わないアティチュード、目の前の生生しい現実を譜割としては難しいし、歌詞用言語としては"使わないだろう"言葉をさらっと使いながらも、よくよく細部を聴くと、スティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールド、アル・グリーンなどのニューソウル系譜の音の出し入れをしているのを伺えるところやスライ、プリンス含め相当なレベルで「黒い音楽」を摂取しているセンスに唸らされてきた。しかしながら、シングルとしては06年の「午後のパレード」、アルバムとしては08年の『Funkaholic』、10年の『Funkastic』の近年二作のストロークの大きさ、躁的な振り切り方は気にもなりつつ、興味が離れてゆくところはあった。そういったことに、もしも、本人もとても「自覚的」にフラットに舵を取り直す意味で、この『SugarlessⅡ』を今、リリースすることを考えたとしたならば、過去・現在・未来におけるスガシカオ像を補整し直せる見渡しのよさがあると思うし、ここから彼の音楽に触れる人たちにとっても、いい作品になった気がする。

>>>>>>>>>>

 サウンド・メイクとしては、以前よりもデジタルな感触とハイファイで80年代風の大きなアレンジが増え、弾き語りのようなラフの曲でも、張り詰めた感じよりも穏和さが前景化している。そこに彼の例のザラッとした声と時折、いびつな歌詞が置かれる。

《ぼくらが生きていく理由なんて きっとちっぽけな理由しかないような気がするんだ》「夏陰」

《彼女に電話した 何か別の用で 「あ...そうなの?」ってゆう返事 まぁ そんなもんでしょう》「コンビニ」

《君をダメにしたのって 誰のせい? そう全部 ぼくのせい》「ネコさん」

 ここでの主人公たちは皆、倦怠や懶惰を明らかに抱えている。諦観といってもいいくらい、くたびれた中で、「個的(孤的)」なものであり、同時にどこかに拓けてもいて、またとても悲惨で残酷で、「閉塞性の高い」描写で巡りまわっている。それは、現実の輪郭をなぞったときの「そのまま」に近いものであって、彼は基本的に、現実なんて碌なものでもなく、人間関係とは拗れることで始まるものがあり、セックスをサブライムな何かへと昇華させるべきではなく、男性側の本能的な(権威欲、支配欲に絡んだ)陰湿さとか女性側の(生物的な)朗らかな闇へと静かに降りてゆく。やはり、そういう意味では、これは『Sugarless』の続編であり、ラブソング集なのだと思う。

>>>>>>>>>>

 偶然にもといおうか、彼がリスペクトしてやまない岡村靖幸の帰還と、彼のこのラブソング集は奇妙なコインの裏表を描くことになるだろう。つまり、スガシカオは岡村靖幸でいう『禁じられた生きがい』(彼はこの作品で論文でも書けるとラジオで言っていたことがある。)をモノにできなかったから、「身体」ではなく、「都市」を目指した。その都市は観念内で増設されたループが紡がれる。それは、大江健三郎の『奇妙な仕事』というテーマを髣髴ともさせる。『奇妙な仕事』とは、実質、彼の公的には(駒場の雑誌に「火山」も載せているが)、処女作で、150匹の犬が居て、そこに「女子学生」、「私大生」、「(国立大生たる)僕」が「犬殺し」のバイトとして、参加をする。一日50匹しか「処理」出来ないので、100匹は次の日に残り、そこで、「犬殺しの講師」はその100匹に餌をやるが、私大生が「明後日には全部殺してしまうんだろう?それに餌をやって手なづけるなんて卑劣で恥しらずだ。僕はすぐに殴り殺される犬が、尾を振りながら残飯を食べることを考えるとやりきれないんだ。」と言う。それを受けて「犬殺しの講師」は「後の100匹を飢えさせておくのか。そんな残酷なことはできない。」と返すというような、極限の対立に向き合った作品であるが、ラブソングというのはときにそういう「性質」を帯びてしまうものでもあり、スガシカオのこのアルバムでもそういった「対立」の「対立」として、砂糖抜き(Sugarless)のコーヒーを頼み、飲まずに(飲めずに)こぼしてしまった痕を見て、遠回りして行こう、ということを歌っている。その遠回りは決して、無駄じゃないかもしれない。

《ぼくの足がからんで 道に倒れるまで走ったら この街の向こうへ 自由へ 君を連れて行けるのかな たぶん 春の夢のように》(「黒いシミ」)

(松浦達)

retweet

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: スガシカオ 『Sugarless II』(アリオラジャパン)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://cookiescene.jp/mt/mt-tb.cgi/2859