中村一義 『最高宝』 (Five D)

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中村一義.jpg「僕は行く」。

 中村一義は、21歳でデビューして以来、どのタームであっても常にこの必殺の切り口で世界と対峙してきた。多くのファンがご存知であるように、幼少時から壮絶なほど劣悪な家庭環境で虐待気味な待遇を受けながら「あり」、その後、両親と離れて祖父母の家に住んでいた少年は、既にその時期から何度も「自分対世界」の図式で、流れる景色を捉えていたことだろう。

 この中村一義ソロ時代から100sというバンドの一員として活動するようになってから現在までの中村の全キャリアを網羅するベスト・アルバムは、同時に、ザ・ラーズの「There She Goes」に感化されて絵画という表現形態を捨て、音楽を志した人間が「状況が裂いた部屋」という自室から世界を見据え、時には他者を、世界を、時には愛で、時には傍観し、時にはノーを突きつけてきた後、ライバルでもあり親友とも言えるバンドメンバーという存在を手にして、自己の内外に潜り、自分自身に回帰することになった一人の人間のドキュメンタリーとも言える作品である。

 ベスト盤としての選曲には、曽我部恵一、草野マサムネ(スピッツ)、小出祐介(ベース・ボール・ベアー)といったミュージシャンから津村記久子といった作家やうすた京介のような漫画家、果てはオリエンタルラジオの中田敦彦といったお笑い芸人にいたる著名人が、各々のベスト・ソングを持ち寄って、それを一つのアルバムにパッケージングするという画期的な試みをとっている。そのためか、オリジナル・アルバムからの収録曲数は少々偏りがあるし、シングルだからと言って収録されていない曲も少なくない。しかし、とりわけ、1曲毎に決死の想いをかけて曲作りに取り組み、ファンもそれらの1曲毎に丁寧に聴いて各々のベスト・ソングを精査するような関係が成り立っているアーティストである中村(100s)のこと、各々の大好きなあの曲やこの曲が収録されていないことを嘆き出しても仕方ないことである。少なくとも、この作品は中村一義という表現、中村一義という行き方(生き方)を俯瞰し、その行程をもう一度たどることのできるアルバムではあるのだ。

 まずデビュー・アルバム『金字塔』から収録されているのは、「犬と猫」、「ここにいる」、「永遠なるもの」の3曲。デビュー当初こそ、多くのメディアがこぞって「孤高の天才」と彼を称する向きがあったが、それまでの彼はむしろ、デモ・テープの審査がどこにも落ちまくり、「デビューできなかったら(責任を取って)死のう」とすら思っていた人間だ。その壮絶な幼少期から世界を見てきた人間が《同情で群れ成して否で通す》人間に対して、それでも《僕は行く》と言い放ったこのアルバムのジャケットは煙草の塔、言うまでもなく煙草は大人の象徴物であるし、そこで《街を背に僕は行く》と言い切った強かさは、幼少から地続きでありながらも、幼少期をどこかで切り離している感覚さえ覚えさせる。面白いのは、《同情の群れ》に対して「僕はそこからは引かせてもらって一人で行くよ」と叩き付けていながら、同アルバム最終曲では、「状況が裂いた部屋」に自ら閉じ込められていた人間からの溢れ出る博愛心を歌い切っていることだ。中村の世界との対峙の過程において、ここまで愛憎入り交じりながらも、それでも自分自身の来た道を全身全霊で「認めて」いくアルバムは恐らくこれから生まれ得ないだろう。

 「主題歌」は、本作収録曲で唯一、アルバムに収録されていなかったシングル曲。オリジナル・アルバムをメインに聴いているリスナーにとっては久し振りに陽の目を見ることになった曲ではないだろうか。サウンドの傾向としては『金字塔』の流れを汲みつつ、ザ・ビートルズ「Hello Goodbye」のようにどんどん開けて行くアッパーな曲調と歓喜と「僕は僕のやり方で行かせてもらうね!」という宣言をあますことなく歌い切った曲である。『金字塔』から『太陽』にいたるまでの途中経過として非常に大切な曲であるし、この曲をシングルという形でリリースしていなければ、中村のソロ時代の動向は大きく違うものに変わっていたのではとさえ思える重要な曲の一つである。

 21年間の中村を閉じ込めきった『金字塔』というヘヴィーな作品から、「その後の1年」をパッケージングしたという『太陽』からは「魂の本」と「笑顔」の2曲が収録されている。『金字塔』ではどこか個人に密着するのにかけていただけあって無骨さもあるサウンドだったが、『太陽』では温かみを帯びたメロディと録音が特徴である。そういった面では、たとえば、「そこへゆけ」あるいは「生きている」といった曲を収録しても良かったのでは?とも思えるが、当盤から2曲だけを選曲するとしたら、さらに「生活者としての中村一義」に密着しながら、痛みを抱えて、それでも「自分は諦めない」「歓喜で包み込んでやる」といった思いが如実に伝わるこの2曲が適当だろうと思う。

 新録曲「最高」にいたるまでの4曲が、『ERA』に収録された曲であるが、やはり、こうして並べるとそれまでの流れから様々な面でかなり大きく転んでいっている様が伝わってくる。プライマル・スクリームのようなアシッド・ハウス的手法やサンプリングなどの「加工」技術をそれまでより露骨に打ち出したサウンドもさることながら、中村は当該作では完全に怒りを体現していた。『ERA』において彼が批判し、切り捨てたのは、延々続く無気力、揚げ足の取り合い、自分は安全な場所にいる上での嘲笑/侮蔑/罵倒の嵐、誇大化した自意識の他人排除、価値観の倒錯であり、彼はそれらに今作でも収録されている曲からの言葉で言えば、《「変わらねぇ」。そればっか、まだ言うだけで、君も変わらないんだねぇ。》(「ショートホープ」)、《そう、君ん中に溢れ出す世界に、決して消えない場所が。それをキレイ事って済ますなら、去って。》(「ジュビリー」)といった諸々のセンテンスを用いて、不服従の姿勢を表明し続けた。中村のソロとしては(実質的な)最後のアルバムとだけあって、それまでにも増してコンセプチュアルでありながら、最初から最後の流れを切り取っても、無作為に出発点と到着点を切り取っても、その流れ自体が意味性を成しているようにも思える傑作であるが、この4曲が気に入ったら是非、オリジナル・アルバムの「ゲルニカ」~「グレゴリオ」~「君ノ声」の流れを聴いてみることをお薦めしたい。「捨てられた犬を焼く」少年が、再び「目を覚まして」世界と対峙し、「君」に出会うまでの流れだ。またソロでの中村が自ら《さようなら》と告げる「素晴らしき世界」も(熱心な中村一義ファンである漫画家の浅野いにお氏がこのタイトルをもじったような『素晴らしい世界』という単行本とともにキャリアを「スタート」させていることも含めて)興味深い。

 そして中村一義名義ではありながらもバンド100sとしての実質的なデヴュー盤『100s』(実際にこの『最高宝』の収録のされ方から見ても、ソロ時代とは明確に分けるかのごとくディスクが変わっている)からは、「キャノンボール」と「セブンスター」と曲数自体は少ないが、これまた象徴的な2曲が収録されている。非常に興味深いのは、100sというバンドを従えて、初めて世界に歌いかける「キャノンボール」においても、《そこで愛が待つゆえに、僕は行く》と叫んでいることだ。中村一義という一個人としても、バンド100sの一員としての中村一義としても、第一声が《僕は行く》という言葉であるのは特筆に値するだろう。中村が中村として自らを、他者を、社会を、世界を歌い出すとき、「僕は行く」という言葉を用いるのは最早、一つの業のようにさえ思える。もちろん、それだけでなく、この2曲からでも、「状況が裂いた部屋」で黙々と曲作りに勤しんでいた青年が、同士を見つけ、彼らとともに曲を作って行く喜びを全身で受け止めているかのような感動と緊張が伝わってくる。なお、この時期、中村は特にカヴァーに凝っていて、(このアルバムには収録されていないが、)シングル「新世界」のカップリングには、細野晴臣の「恋は桃色」のライヴ・カヴァーやスピッツのトリビュート・アルバム『一期一会』には、「冷たい頬」のカヴァーを提供している。

 名実共に100sとしてのファースト・アルバム、『OZ』からは、シングル曲から選ばれた曲はなく、「扉の向こうに」と「いきるもの」という当該作ではまだ、希望の灯りがおぼろげながら微かに見える2曲だ。レコーディング中に、中村をはじめ、メンバーの親類の不幸が続いたこともあり、100sとしての正式なデヴュー・アルバムながら、「死の地平から生を逆説的に映し切る」というヘヴィなコンセプトとなった『OZ』は、さながら、100s版イールズ『Electro-Shock Blues』とでも言うような、深淵の闇と厭世的ながらも最後の救いを提示したかのような観念論に満ちた文字通りのネオン・バイブルとでも言うべき作品で、アルバム中、どの曲を選んでも、密度過多にはなってしまいそうだが、特に「いきるもの」は後に繋がる「希望」のポジティヴなバイブレーションに後押しされるかのごとく、鮮烈に聴かせることに成功している。

『OZ』が「死の地平から生を奏でる」アルバムだとしたら、「生の地点から真っ直ぐに生を讃える」アルバムとでもいうような、『ALL!!!!!!』からは、アルバムジャケットにもみられた彩り豊かな楽曲、「希望」、「Q&A」、「つたえるよ」を収録。全体のバランスを鑑みると、「Q&A」を入れることには少しながら懐疑心が生まれる側面もないではないが、エレキコミックのやついいちろう氏の寄稿文にもあるように、《エロい栄光より、また、いつか君と会いたいんだ。》という一節が当時の中村のヴァイブスを示しているかのような、「つたえるよ」が収録されていることで不均等にならず、うまく中和された流れで聴き難くない。もちろん、このアルバムも、中村自身のルーツである中国に接近するという、密度の濃い「裏テーマ」が存在しているし、「蘇州夜曲」がヴィヴィッドに映えてはいるが、全体としてポップネスが高らかに鳴り響いているので、100sとしての中村一義のキャリアが気に入ったならば、このアルバムから聴いてみるのが良い入口であるように思える。

 そして、「モノアイ」、「最後の信号」は現時点で彼ら、100sの最新のオリジナル・アルバムである『世界のフラワーロード』から。ここでの「フラワーロード」とは、中村が生まれ育った東京は小岩のフラワーロードの商店街を指している。この当該作は、100sというバンドになった現在から、昔から自分が一度も転居していない「地元」のことを歌い切ったアルバムであり、それはつまり、叫びたくなる衝動の青を何度も吸い込み、そこで傍観的に過ごしていた過去の自分と対峙したアルバムである。《抗菌の世に住む君へ》(「世界の私から」)という一節から始まり、《乗り越えてゆくならば。》(「空い赤」)という一節で終わるこのアルバムは、あなたが捨て去ってきた古い自己を掘り起こしてくる厄介なコンセプトをもっているが、それでもそれが《同情の群れはとうにいねぇ。》(「魔法を信じ続けているかい?」)からこそであることも、同時に歌われている。ここにきて性懲りも無く自己の死と再生を歌う中村の想いの先は、「最後の信号」で鳴らされる。

 そして新録されたのが、「最高」と「愛すべき天使たちへ」の2曲。どちらもアコースティックによるプレイだ。「最高」はベスト盤に即したような、中村から今の地点に立ったことへの感謝をおおいにあらわしたような曲であるが、ここでも《穢れを好む人の群れくぐって、あぁ、また、ここでいつかさ、会えるなら》と歌っているところは相変わらずデヴュー当時の信念がまた再び現在進行形のものとして伝わってくる。そして、それをもって「愛すべき天使たちへ」の賛美に繋がっていく様は、ベスト・アルバムをリリースするまでにいたった彼と彼に賛同する多くの人たちをも祝福しているようで微笑ましい。

 こうしてみると、中村一義ソロと100sのどちらも、そのキャリアにおいて全てのアルバムがコンセプチュアルであり、非常に濃密なものであることが改めて実感できた。中村は「一気に全て出し切って、またゼロから始まるタイプ」と自身を分析するが、通常、そういったアーティストは、ベスト・アルバムをリリースすることを極度に毛嫌いするか、リリースしても曲選びに難航することが多いだろう。このアルバムは、先の通り、中村自身も祝福しているが、シングル曲のバラツキなども考えると、やはりすんなり選曲できたのではないかと思える。その面では、ゲストを招いて選曲してもらうというスタイルは見事に功を奏していると言えるかも知れない。

 どのアルバムをとっても、確固たる決意のもとに突き動かされてきた様が見える中村だが、彼が示し続けるアティテュードはやはり、この一節につきるだろう。もちろん、それは今作を聴かれるあなたへの問いかけでもあるのだ。

《僕は行く》

 さぁ、君は

《どう?どう?》

(青野圭祐)

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