WU LYF 『Go Tell Fire To The Mountain』(LYF / Hostess)

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"Wu Lyf は、ホームと呼べる場所を心の底から欲しがっているバカな4人のガキどもの集まりさ。2組の2人兄弟が出会い、一緒にheavy pop をプレイしている。ここはホームじゃない。これじゃ満足できない。" (ウー・ライフのホームページに掲載されている声明文から引用)

 この声明文の一部からも分かるように、イギリスはマンチェスター出身の4人組バンド、ウー・ライフの音楽は、怒りや悲しみを鳴らしている。彼らは、ホーム=居場所がない者達だ。この喪失感による哀しみというのは、故郷を失った人々の音楽であるジプシー音楽にも通じるが、この哀しみは、現代に生きるほぼすべての人間が共有できるものではないだろうか?

 現代人は、強迫的に知識や情報を取り入れ、自らの鎧として身に着けていく。そうしないと、目まぐるしいスピードで変化する現代社会についていけないからだ。それでも、確固たるアイデンティティーを築き上げ、社会的ステータスや華麗なキャリアに恵まれた人生を得る者は、ほんの一握りしかいない。そして社会に搾取されていくなかで、最低限の尊厳や権利といったものまで奪われていく。こうしたシステムがさらに複雑化し巧妙になった現代において、「2.5次元」といった現実と幻想を曖昧にした概念が注目されるのも理解できるし、ツイッターなどSNSの「手っ取り早いリアリティ」でキャラを作り、批判や不満をぶちまける行為が「文化」になりえてしまう状況も、時代を反映した結果として受け止めざるえないだろう。しかしウー・ライフは、そのすべてを否定する。彼らは、これらの後ろ側にいる人々に手を差し伸べる。リヴァーヴが効いたサウンド・プロダクションも、繊細なギターが奏でるメロディも、力強く地を這うようなベースとドラムも、そして、哀しみと希望が同時に存在する絶叫も、すべては我々と繋がるための、しかも原初的な段階での繋がりを求めるために鳴らされている。なぜ「原初的な段階」で音を鳴らすのか?それは、彼らにとって我々が「世界」という場所に集まっているように見えて、その実、バラバラになっていると考えているからだ。彼らにとってSNSは、本当の意味で人と人が繋がる選択肢を狭めているものでしかない(特に日本のように高い匿名性が守られている場合、SNSはストレスの温床となり、そのストレスが繋がりとなっている現実を踏まえれば、それが歪なものと見ることも可能だ)。

 こうした「リスクが伴うコミュニケーション」を実践する者たちは、過去を遡ればザ・クラッシュ、マニック・ストリート・プリーチャーズ、リバティーンズなどが挙げられるが、リバティーンズですら10年以上前のことだ。この約10年以上の間に、世界はより混乱の度合いを増し、個人の顔が見えにくくなっている。ウー・ライフがやろうとしていることは、多大な想像力を必要とする行為だ。当たり前だけど、想像は現実を凌駕するもので、いま我々が生きる日常も、現実を凌駕した想像が現実化するというサイクルを長年積み重ねて作り上げられたものだ。しかし、現実を凌駕する想像を生み出すのは、前述した多大な想像力と、強靭な意志と知恵が必要となる。だがウー・ライフは、果敢にもその難題に挑戦する。

 歌詞だけを取り上げれば、語彙不足という指摘も可能だろう。もちろんそうした指摘をするのは構わないが、それは音楽を聴くことに対する想像力の欠如を自ら暴露することになる。彼らは小説家でもなければ脚本家でもない、れっきとした音楽家であり、音楽をやっているのだから、リスナーもそれ相応の想像力を持って迎えるべきだ。ましてや、彼らのことを「宗教」呼ばわりして、安易に「震災後」というキーワードで語るのはもっての他だ。「震災後」を語るのも必要だが、「音楽評論家」と名乗る者であれば、音楽を通して「震災」を語るべき。もし、「震災」という言葉を掲げなければ「いけない」、もしくは「震災」について語ること「のみ」が批評精神の責任だとするならば、そんな批評精神の元で音楽について語られても、その言葉が多くの人に届くことないし、そもそも音楽について語る必要もない(「手段としての音楽」にしか興味がないなら別だけど)。そういう意味で、『Go Tell Fire To The Mountain』は、我々にとって重要な試金石となるアルバムかもしれない。

 ウー・ライフは、音楽の力を信じている。だからこそ、音楽でもって我々と繋がろうとするし、彼らは音に言葉を託し、必死になって音楽を鳴らしている。実際彼らの音には、暑苦しいほどの情熱が宿っている。そして力強い意思と想像。ある種のメランコリーを感じさせる部分もあるが、彼らのメランコリーは、クラナッハ『憂鬱』やフリードリヒのメタファー的な絵画とは程遠く、サルトルやキルケゴールのそれよりも、双極性障害に近いものを感じる。グラスヴェガスも『Euphoric///Heartbreak\\\』という双極性障害を想起させるタイトルのアルバムをリリースしたけど、それは、何かを切実に求めようと日々生きている証のように見える(世界をまっすぐ見据えている点も、ウー・ライフとグラスヴェガスに共通する姿勢だ)。彼らのようなバンドをシニカルに切り捨てることもできるだろうし(日本では「うざい」「キモい」だろうか?)、それが時代というものならば、それも致し方ないのかもしれない。しかし、こうした得体の知れないものにこそ、未知なる興奮が隠されているし、それを「うざい」「キモい」と簡単に切り捨ててしまうのは、あまりにもつまらない。まあ、切り捨てるかたちで「存在しない者」とするのもいいけど、それは結果的に、自らの首を絞めることになるかも知れない。これは、日常を生きるうえで我々が「存在しない者」とされる仕打ちと同じだからだ。ウー・ライフが鳴らす、キラキラとしながらも闇を引きずり前進する美しいポップ・ソングは、「それじゃ何も変わらないだろう?」と、猛烈に聴く者の心に訴えかけてくる。

(近藤真弥)

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