環ROY 『あっちとこっち』(POPGROUP Recordings)

|

tamakiroy.jpg

 環ROYの前作『Break Boy』について、ライターの二木信は「幅広い音楽性を持った環ROYが、なぜ、ここに来て日本語ラップにあえてこだわろうとしたのか、またそこに毒を吐いたのか」と書いたが、そこは僕も大いに疑問を持った。それはやはり、フラグメント、エクシー、DJユイ、オリーヴ・オイル、ニューディールといった様々なスタイルのトラックメイカーたちとのコラボをすることによって日本におけるヒップホップの可能性を押し広げてきた彼に「日本語ラップ」という「島宇宙」に囚われて欲しくなかったし、「島宇宙内部」で「島宇宙内部」をディスることに内破の可能性など微塵も無いことに気づいて欲しかったからである。1つの「島宇宙」の中でノイズが起こったとしても、それは「島宇宙内部」でのみ消費され、拡大することは無く、「一過性のエンターテイメント」として消費されることになってしまう(実際、ヒップホップ・アーティストが己のオリジナリティを提示するために現行のヒップホップ・シーンをディスリスペクトするのはよくあることだ)。

 それでも僕が前作をよく聴いた理由はトラックメイカー達の仕事がどれも素晴らしかったことと(二木信は「いくつかのトラックが気の抜けたデジロックが空騒ぎしているよう」と言っていたが、それはさすがに表現として酷い。彼の今回のラップのテーマが日本のヒップホップにおけるノイズなのだから、このようなノイズを含んだトラックの存在はむしろ必然だろう。環ROYが「日本語ラップ」への言及「以外」の「葛藤する主体」について書いたリリックが気に入っていたからである。

 3rdアルバム『あっちとこっち』はそんな「葛藤する主体」について書かれたリリックに満ちている。前作収録の「Break Boy In The Dream」でもそうだったように(《時間の流れに逆行 不可能》)彼が「葛藤する自我」について書いたリリックでは「時間」についての言葉が散見され、このアルバムにおいてもそれは変わっていない。「主体」は常に「過去」「現在」「未来」に想いを馳せ、その中でもがき、ラップする。

《ずっと昔に誰かが想像してた未来に僕らは立っている いま俺がいる街は特に上下左右がギュウギュウで 嘘みたいだなって思ってしまう風景なんだけど 君の町はどう?居心地がいいなら少し羨ましいよ できるなら そこの話が聴きたいな》(「街並み」)

 「昔」、「未来」、「いま」という異なった時間を示す言葉の交差点となっているこのラインにあるように彼の時間に対する向き合い方は様々な形態をとっており、その時々で彼が時間に対して紡ぐ言葉の帯びる感情は異なってくる。また、ここに書かれている「俺がいる街」は「日本語ラップ・シーン」のメタファーともとれ、「日本語ラップの閉塞性」を批判する彼のスタンスは変わっていないにもかかわらず、そこには前作のようなトゲトゲしさも無い。前作のアグレッシヴなアプローチを変化させ万人に届くようなリリックにし、メタファーに気づかぬとも問題ないものになっている。ここにあるストーリーはありきたりだ。「昔」抱いていた「未来」に「いま」立ってみると、そこは思っていたほど素敵な場所ではなかった。無数に語られてきたストーリーの上に彼のリアルはある。そこで彼は「孤独」と向かい合うこともあり(「Ms.Solitude」)、《モノに出来てサマになる声 今の俺にはあまりに足りない》(「You Are...」)と思うときもある。柔らかな物言いにもかかわらず、彼の現状認識は非常にシビアであり、諦念を抱いているように思える時もある。しかし、彼はこのアルバムをそのような諦念で見たすようなことはしなかった。

《信じたいみえないモノ まだ次の景色みてない まだやりぬいたって言えない 信じたいみえないモノ》《きっと時間が経って見渡したら きっと景色は変わってるはずだ きっとばかりが積み上がるけど きっとを信じるくらいはしなきゃな》(「みえないモノ」)

《手は抜けない 抜いたらすぐに消える 時の流れは無情にみえる だけど見方を変えられるなら それを希望に変えてくだけだな》(「フルメタルラッパー」)

《最初は違った 今とは違った だけど君と同じこと思った 時のせいか 新しく開けなきゃ トビラ》(「あるがままで笑える」)

 「みえないモノ」=「未来」について、彼は可能性を感じている。「不可視」であることは人間に恐怖や不安をもたらすことがしばしばであるが、彼はそこにどこかオプティミスティックにさえ映る想いを抱いている。「今、ここ」の苦しみやそこから抜け出すことをラップし続けた、ついこの前まで日本のヒップホップの中心だったハスリング・ラップには見受けられなかった「ポジティヴィティ」がそこにはある。環ROYはそれと気づかずに日本語で「ポジティヴィティ」をラップすることに挑戦しているのかもしれない。それは日本のヒップホップ黎明期における「ヒップホップというマイノリティ」が集合した共同体内における「祭り」(さんぴんキャンプ)が生み出した「ポジティヴィティ」とは全く異なるものである。今、日本のヒップホップは彼にしてみれば「嘘みたいだなって思ってしまう風景」であり、もはや「勃興しつつある新しいカルチャー」ではないヒップホップは以前のような「ポジティヴィティ」をラップすることはできない。その状況でいかにして、「ポジティヴィティ」をラップすることが可能か。彼のこのアルバムの焦点はここにあるのではないだろうか。

 (八木皓平)

retweet