岡村靖幸三度目の復活によせて

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コントリビューターとしていつも鋭い原稿を寄せてくれている松浦達さんから、岡村靖幸さんに関する原稿が届きました。「三度目の復活」という大変興味深い内容になっています。

邦楽に疎い私としてはまだまだ勉強中のこのジャンル...ではありますが、皆さんはどうお受け止めになるのでしょう?

長い活動歴を持つ彼だからこそ、何度も復活する。その全貌をご覧になっていただければ幸いです。

それでは、どうぞ!

(吉川裕里子)



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 例えば、貨幣論的にもう「老いた貨幣」に興味が無くなってきている自分も感じてきていて、それは「アンチ・エイジング」の趨勢と逆を行くのだが、仕方ない。もはや、何と「交換」する為の紙切れなのか、理解らなくなっている人も多いと察するし、物神論的に「止むを得ない」という態度をメタ認知して、ベタに「金持ちになりたい。」という背景に潜む人間の脆弱なプラットホームを暴くとなると、アイデンティティさえ「換金化」される時代に入ってきたということなのかもしれない。そもそも、メタファーとしても、「お金に換算出来ない何か」というのは逃げ口上で、プライドなどは売って、買い直すくらいの「覚悟」の天秤が傾ぐケースがときにある憂き世が現在ならば、その「正しさ」は立証される"べき"行間を孕む。そうなると、実存に対して、今こそ対峙する危機的必然が立ち上ってくる。その「実存」を知覚次元で、岡村靖幸はアタッチする。


「知覚」というのは、目で見たり、耳で聞いたり、鼻で嗅いだり、感覚を通じて「それがどういう意味であるか、を脳解釈して、記憶や知識と結合させる」所作というのが定説だが、知覚心理学者であるジェームズ・J・ギブソンが「生体心理学」という分野で、部屋に人が座っていて、照明の光に照らされているという「包囲光配列とその変化」という図を用いて、直接光源からの光を「放射光」と名称化した。この放射光は、その周囲の物体の表面を照らし、反射、拡散して、その部屋(場所)を光で埋め尽くす。そして、環境を取り囲む光、つまり、包囲光の配列とその変化が「アフォーダンスを特定する」と言った。


《なんで 僕らが泣きだすのか 絶対きっと女の子なら知ってる》
("Peach Time")


「アフォーダンス」というのはそもそも造語であり、環境がそこで生活している人間や動物に「afford」の意味を付加するという定義性を指す。例えば、椅子がある。別に「座れ」とも指示していなくても、大概の人は「何もなければ」座るだろう。これは、椅子が「座る」ことをaffordしていると言える。女の子が「僕ら(男の子)が泣きだす理由」をaffordとしていることをして、「Peach Time」(桃色の時間)と名付けた彼の感性は至って正しい。


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 さて、岡村靖幸が戻ってくる。

 三度目の復活。ドラッグの問題や90年代半ばから寡作になっていったアーティストをしかし、今、時代は確実に「求めている」。女性側の視点から彼を捉えたときの男性(♂)としての純然なロマンティシズム、男性側の観点として彼の歌を聴くと、締め付けられるようなどうしようもない遣る瀬無さ、それは何なのか、よく考える。彼の天才振りを公言して憚らないスガシカオやミスチルの桜井氏、SOPHIAの松岡氏、KANその他数多のアーティストたちなどにしても、「知的」が故に、かばってしまっている妙なスマートさが最終的にあるが、岡村靖幸の場合は勿論、知的なことは知的だが、実存的に、そして根源的なレヴェルでの「意味」に潜り込もうとしている決死のシリアスさと、ゆえの儚さが異様な熱と生(性(SEX))のダイナミズムに繋がる切迫感がある。しかも、テーマは大概、"女の子を巡るあれこれ"で、際どいラインまで言葉で詰め、明らかにヘビーなレコード・コレクターであると思われるアレンジの緻密さで音響を編み、過剰なインプロでリプレゼントとしようとする。


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BABY BABY BABY いつもオール4か5でせっかく法学部に受かっても
東京じゃ家など建てれない バカ高い そんなら ジャングル・ランド

("ターザン・ボーイ")


 プリンスに「なりたかった」、そして、「ロングシュートを決めたら、あの娘がどんな顔をしてくれるのだろう」という想いを一つぶら下げて、肉感的な和製ファンクを翻訳しようとした結果、込み出る何かとは日本的情緒と免疫学的な側面から切り取れる男性の「現象」としての果敢なさだった。そして、女性はただ「存在」であり、聖域枠での対象として保存され、架空化された「記号」に帰納された。90年代半ばからの彼のコンフューズは、女の子が「女の子で居て欲しい」のに、援助交際やら様々なニュースが行き交う中で現実と想像力のバランスが崩れてしまったゆえであり、「ハレンチ」や「セックス」といった曲での露悪的なまでの尖りは逆に彼の優しさと困惑、憂鬱だったのだと思う。やはり、彼は「歌」の中でこそ、《ねえ 三週間 ハネムーンの振りをして 旅に出よう もう劣等感ぶっ飛んじゃうくらいに 熱い口づけ》("だいすき")と表象したかった「だけ」であり、そのスタイルを保持するには時代が「速すぎた」(または、女の子が「強すぎた」)。そして、ヴァルネラブルな感性を持て余したままの彼は、絶対的な強度として「あの娘」を見つけられなくなり、錯綜してしまった。


 非常に曖昧な物言いになるが、彼は自分や自分を取り巻く世界が周到に人間の都合によって創造(捏造)されたカラクリや下らなさ、張り子細工、お約束事で出来た「代物」だと知っているからこそ、時に生物的な「雄(♂)/雌(♀)」の次元まで降下し、「愛」を歌う。その「愛」は生々しく、決して巷間で安売りされているような、ベストセラーやキャッチコピーで溢れているような"愛に似た愛以外の何か"でもなく、衝動に則ったサブライムな文脈下での「愛」の色を帯びて来るために、愛護(/他者排除)の構図の下、二人(/二人以外は全て景色に過ぎない)の密度を高めようとする結実としての、「セックス」や「I LOVE YOU」に総てをかける重力が強くなる。

 しかし、勿論、現実の世界というのは往々にして「砂上の楼閣」で残酷過ぎる様なところもあり、電気グルーヴ「Nothing's gonna change」の歌詞でもあるように、「My Heart is like satellite of yours」という非情な展開に着地し、その衛星の心は結局、「君」の周囲を巡るだけで、社会性の下に相対化/対象化されることになった挙句、自分に「還ってきてしまう」ことになったりもしてしまう。だからこそ、岡村靖幸の描く世界観は痛々しさも含みながらも、いつも切なく、美しい。


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 基本的に、彼は「女の子」を通じて、"もう失われてしまって、再形成が不可能だと思われるもの"だけしか取り上げない。「愛」、「青春」、「子供心」、「裸のスタンスでいること」、「学生時代の煌き」、「童貞性」、「処女性」、「平和」、「純粋」―。

《あいつより愛してる 僕に気づいて》

("Dog Days")


 例えば、この歌詞の「あいつ」はその字義通りの「あいつ」であり、対象としての「女の子」はそこをフォーカスを当てており、「僕のことは気づかない」訳だから、その≒を断絶する葛藤により、「僕」のあらゆる輝きや想いは撃ち落とされる。そこで、「僕」は、どうしようもない遣る瀬無さを抱え込んだまま、過ぎてゆく日々の無常に咆哮するしかなく、彼のシャウトはときに、生物的な悲しさに「聴こえる」ことがあるのも道理なのかもしれない。

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 今回の復活にあたって、また新たに彼に出会う人も居ると思うので簡単に説明しておくと、音楽的なルーツはディスコ、ファンクであり、ただあまたの歌謡曲やポップなメロディーを聴きまくってきたという裏付けとして着地点はいつも非常に「ポップ」で、参照点は無論、プリンスがメインになるだろうが、プリンスは音やアレンジの先鋭性と反比例して「言葉が遅い」が、彼の場合はメロディーやもうアレンジし終わったサウンドは沢山あるけれども、「歌詞が書けない」という理由でなかなか作品を出せなかった時期があるほど、メロディーにどういった言葉が乗りどういった意味が発現し、どういった反応を起こすのかを考え尽くすタイプで有名であり、結果、無駄なフレーズは極力省いていこう/(省かれてしまう)ということに成る。95年の『禁じられた生きがい』、04年の『Me-imi』における歌詞のカオティックさはそういうところにも起因するのだろう。


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 普通、人間は置かれた環境、眼前の物体に関して"更なる"情報を掘り下げるべく、周囲を彷徨いてみたり、近寄ってみたり離れてみたり、「源」を詮索してみる。環境の中で「移動」するというのは物理的な単なる移動ではなく、他者との対話、景色の変遷も大きい訳で、知らなかったものが「明らか」になる。だから、例えば、思想書を散々読んでいた人がある日、どうしても判らなかった箇所が判るようになるとか、映画を膨大な量見ていたら、批評出来るようになるとか、環境が与えている意味が視えてくることが起きる。模索、取捨選択、の繰り返しの中での日常生活。環境の中に無限にあるリソースを自分の活動にどう有利なのか、などを切り分けていく知覚も大きい、とすると、知覚はそもそも「予期的」な性質を帯びてきやしないか、これから起こる「であろう」ことを見越して行動しないか。思考には、前兆情報の選択や予期的意識がベースにあって、知覚というベースの中で判断して、進んでいく訳で、何故、今、アフォーダンスという言葉が取り上げられているか、と言うと、現場での「そこでしか得られない、という意味」を見出しているのか、しっかり発見して、掘り下げられているのかどうかの「身体知」を大事にしよう、という部分に焦点が当てられている背景が透ける。ロジカルな思考回路も大事だが、アフォーダンスという身体知は日常のその場に埋め込まれているからだ。


 そうなってくると、コンピューター越しじゃない「現場」と「肉感性」を取り戻そうとする野蛮な知性を持った岡村靖幸という稀有なアーティストの今回の復活は、時代の要請とマッチしているような気もしてくる。僕は心から歓待したい。


《ジャンパーの袖にしがみつけよ 命がけの恋が世の中を救うよ》

("真夜中のサイクリング")

(松浦達) 

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