NAOMI&GORO&菊地成孔 『Calendula』 (Commmons)

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naomigorokikuchi.jpg  ボサ・ノヴァが緩やかにアメリカのミドルクラス・サイドのラウンジ・ミュージックへと回収され始めた1960年代初頭、本来持っていたブラジル発信の「ボサ・ノヴァ」の持つ先鋭性や反骨の要素因子は如何せん対象化されていたところがあったのは否めない。元来、ボサ・ノヴァはリオの海岸地方に住んでいたジョビンなどを筆頭に台頭した「うたごころ」も備えたものであり、同時期に行き交ったジャズ・サンバは、マンフレッド・フェスト辺りのジャズ側からのアプローチに伴うブラジルのリズム感覚に沿ったモダン・ジャズと言えた。としたならば、いまだに名盤扱いされている63年にレコーディングされた『Getz/Gilberto』という作品は、どのような場所での座標軸を定めるべきなのか、曖昧にされている領域があり、曖昧にされることでマスターピースに成り得ているともいえる。ボサ・ノヴァの歴史のコアを担う錚々たる面々、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ミルトン・バナナなどに混ざって、白人の当時は少し人気が凋落気味だったスタン・ゲッツがテナー・サックスを持ち込むというボサ・ノヴァとジャズの関係性の複雑さをポップネスに漂白した形で落とし込んだアルバム。世界的にはブレイクし、尚且つ、それまでボサ・ノヴァやジャズ・サンバに疎い多くのリスナーも「巻き込んだ」と言えば、響きはいいものの、この作品によって、ボサ・ノヴァの商業化に拍車化を掛け、必ずしもクールやアンクールでは語られない音楽形式(ボサ・ノヴァは形式ではなく、アティチュードだった)であるはずなのに、70年代に入り、緩やかなアンクールの称号がアメリカを中心にして消費されてしまったのは周知の歴史かもしれない。

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  今回、Naomi&Goroが菊地成孔とコラボレーションして、この『Calendula』をリリースする運びになったが、現在でも今作を巡って行き交う多くの音楽評は『Getz/Gilberto』的な磁場を巡るものだったりする。Naomi&Goroといえば、布施尚美女史と伊藤ゴロー氏からなる本格的に且つオーセンティックにボサ・ノヴァを追求するデュオであり、その世界観はほぼ確立もされている。そこに、あのプロデューサーとしてのセンスも長けており、ときに蠱惑的なサックスを吹くジャズメン、菊地氏の参加がどういった影響が起こるのか、正直、僕は不安が募った。しかし、結論から言うと、お互いがお互いを牽制し合っていないという意味に沿って、艶めかしい涼やかさを感じる内容になったのは好ましい。ここに、イージーリスニングやヒーリングの成分やCTI辺りの空気を見出せる人たちもいるのだろうが、もっと良質な音楽そのもの豊かさを取り戻そうとする蛮性もある。選曲にしても、書き下ろしの曲やジョビンなどの曲のみならず、流麗に再構築されたプリファブ・スプラウトの「The King Of Rock'n Roll」や叮嚀に纏められたホール・アンド・オーツの「One On One」、布施女史の声が柔らかく弾み、ピアノとサックスのミニマルな絡みが美しいブリジット・フォンテーヌの「Brigitte」などベタながら、興味深い11曲が収められている。欲を言えば、菊地氏絡みのワークであるならば、UA×菊地成孔のときのような「Over The Rainbow」のような大胆なアレンジがあっても良いと思ったが、そこを抑制の美で纏めたところは菊地氏がNaomi&Goroの良さを引き立て、尚且つ、彼らが菊地氏により有効なフィードバックをもたらすような「関係性」が「Getz/Gilberto的な何か」ではない形で良い方向性を向いているということを表象している気はする。個人的には、「イパネマの娘」のようなサービス・トラック(勿論、これが入口になってもいいと思うが)は入れなくても良いのではと感じたりもするが、"ボサ・ノヴァ×ジャズ"といった距離感へ訝しさを持つリスナーやフラットに軽やかで流麗な音楽を聴きたいリスナーにとっては「感性のクールダウン」を要求させるという意味で、2011年の「今」に相応しい音楽になったという気がする。

  不穏な時代こそ、こういった透き通った質感を持った音楽が個々の感性に風穴を開けて、空気を送り込み、"三月の水"を飲める逃避行へと導くべき路を示すとしたら、ひとまずこの作品の上梓を僕は喜びたいのとともに、大きな音で静かに聴きたい内容になったのには快哉を叫びたい。

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  最後に、このアルバムを聴いて、ジョルジョ・アガンベンの「インファンティア」という言葉を喚起した。インファンティアとは、「非言語的」ではある訳だが、言語がそこを前提として成立していくような「閾(いき)」ある。そこで、言葉は「閾」から、何かしらの新しい衝動を獲得して、言語的な何かに向かって生じるものである。だからこそ、「歴史を語る」にしても、美術表現にいたるのも、そもそもが「インファンティア」に発し、「インファンティア」に根付いているものなのだとしたら、この作品はしっかりとインファンティアに対峙していると思う。

(松浦達)

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