BRIAN ENO AND THE WORDS OF RICK HOLLAND 『Drums Between The Bells』(Warp / Beat)

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 「新聞を用意しなさい ハサミを用意しなさい 作ろうとする詩の長さの記事を選びなさい 記事を切り抜き 記事に使われた語を注意深く切りとって袋に入れなさい 袋をそっと揺り動かして 切り抜きを一つずつ取り出しなさい 袋から出てきた順に一語ずつ丹念に写し取りなさい 君に相応しい詩ができあがる 今や君はまったく独創的で魅力的な感性をもった作家というわけだよ まだ俗人には理解されていないが」(トリスタン・ツァラ「ダダの詩をつくるために」より)

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 言語学者のフェルディナンド・デ・ソシュールは「今ある言語」がその言語であるべき必然的な理由は存在せず、例えば、社会的な取り決めの下で発展してゆくものとして捉え、研究するのは違うのではないか、と指摘した。要は、機能性としてのパロール(声)はラング枠内で格納され、シニフィエ・シニフィアンとしての恣意的な言語構造があるとしたならば、言語とはある種の記号であり、同時に形態・特徴を指し示す何かでしかないという文脈があり、そのまま「意味」が「言語」に繋がるかどうか、となると、そこは難しい。声は「声」のまま、共時的に響くのか、その検討の範囲内でこそ、実のところ、「声」は浮揚する。

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 今回、ワープ・レコーズ第二作となるアルバムで、ブライアン・イーノは03年から共作を続けていた詩人であるリック・ホランドとコラボレーションを行なうという話を聞いた時、彼のことだから、"ポエトリー・リーディング・ミーツ・アンビエント"といったようなそんな平易なものにはならないだろう、と思っていたが、案の定というか、非常に実験的な内容になっており、面白い。リック・ホランドの詩は多種多様な人たちの「声」によって朗読されてゆく。その多様な人たちは、彼のスタジオの付近で声を掛けたという南アフリカ人であったり、近所のスポーツ・ジムで働く女性であったり、いわゆる、一般の市井の人たちであり、その大半は英語を母国語としていないためか、独特の「癖」がある。そこに、イーノらしい端整な電子音やサウンド・シークエンスが混ざり、不思議な浮遊感をもたらす。そして、詩の言葉そのものの強さよりも、起伏の豊かな、ある種、歪な声の特質(ときに、オートチューンで加工・変調も為されている)が先立ちながら、極めて機械的な作りを為されているにも関わらず、全体を通じて不思議な「暖かさ」があるというのはどういうことなのだろう。思えば、ジェームズ・ブレイクが現代のソウル・ミュージックと一部で称される磁場が形成されている現代とは「Be Computerized」されたものこそ、そこに生々しさが宿るという反転が起きているところがある。それをフーコー的な物言いを援用すると、もともと明確であった公的なもの(ビオス)と私的なもの(ゾーエ)との区分が緩やかに瓦解しつつあり、公的であるのか私的であるのかを「分類」できない、不分明な地帯で、多くの相互共感が生まれるという理由付けは出来なくもない。その「親密圏」では、機械的な声の方がより遠心力を持つ可能性がある。だとすれば、今作での様々な「加工された、癖を帯びた声」はとても色味を感じるのも道理なのかもしれない。

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 昨年、発表された前作が即興セッションから生まれてきたのと比すると、今作はより練り込まれ、じっくりと詰められたような印象も受ける。しかし、ときにアカデミックになってしまいがちな彼の作風からすると、何故か風通しが良いのは「声」そのものに重きを置きながら、その声が何を明瞭に指し示しているのかどうか、を脱化(ポップ化)したところにあると思う。そういう意味で、純然たるボーカルにフォーカスをあてた作品ではあるのだが、イーノのサウンド・ワークの妙に唸らされる点が大きいと言えるだろう。ワープ・レコーズへの移籍の影響もあるのか、ブレイク・ビーツや電子音のバリエーションも今まで以上に幅広く、前衛的な気配があるのも興味深く、今後のヴィジョンがより拓けていくものになるのではないか、という予感も感じることができる。数年前からスタジオに色んな人たちを読んで、声の可能性を探るワークショップを開いているという話は有名だが、もしかしたら、ストレートな音楽家としてのブライアン・イーノのポップ・アルバムというのも近いのではないか、という感触も受ける今作は10年代に入って、再び彼のギアが入ってきたことを示す好作になったと思う。個人的には、このアルバムのドープなリミックス版も聴いてみたい気がする。

 (松浦達)

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