アンディモリ『革命』(Youth)

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 ドイツ出身の歴史学者ジョージ・モッセは『大衆の国民化』で大衆の不確かな定義を試みようとしたが、アメリカの政治学者のベネディクト・アンダーソンが指摘したように、近代ネーションではどこかに帰属すること、すなわちナショナリティをもつことは自明の理であるはずなのに、どの国民も自分たちは他の国民とは異なる国民性(または、民族性)や文化性を持つという「ように」確信することについて言及した通り、何かに帰属していると想っている間は、そこから外れているのとも同じようなことでもある捩れが近代の課題の一つであり、それが妙な個人主義に収斂する形で、右軸も頼りなく、不条理性における快楽の閾値をはかることの艱難を孕み、そして、左軸の理論武装の限界も見えるなど、両軸が揃いづらくなった。だから、「想像」する形でのコミュニティを模索の形を取るという行為しかないようになったとしたならば、例えば、ロック・フェスが装置化したというシステム論も「小さいネーション」なのだということが分かる。その文脈で、andymoriはヴィクティムでもあり、同時に果敢なドン・キ・ホーテだった。

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《なんにも考えなくていいよ 投げKISSをあげるよ》
(「投げKISSをあげるよ」)

 彼らが颯爽と現れて、字余り気味の歌詞を吐き捨てながら、前のめるビートで「Follow Me」と叫んだとき、僕はメディアが絶賛する新世代ロックンロールの旗手としての冠詞やアークティック・モンキーズ世代の日本語ロックの最新モデルのバンドという印象よりも、あくまで隠喩としてだが、京大西部講堂が似合うイメージやフォーク・ミュージックの匂いと、四畳半からはみ出そうとする「もたざる者の咆哮(彷徨)」を痛切に感じた。

 そこには、ルックスの良さとスマートなR&Bのモダン解釈でヒップな座を射止めたTHE BAWDIESや、銀杏BOYZ的なリビドーの昇華をファンクネスで再構築してみせたモーモールルギャバンや、シンプルにユースフルな観念的な生き難さを平易な言葉で紡いだplentyなどのバンドと比べると、あまりに野暮ったさが残る感じがあり、初めてライヴで観た時も、マイク・チェックをしながら、「City Lights」のフレーズを早口でまくしたてるボーカルの小山田氏の焦点が何処に当たっているのか、視えなかったし、そのまま、ライヴ本編に入っても、アイデンティファイ出来る緩衝帯を最後まで見つけることが出来ず、それでも、怒涛のドラミングからギターが唸る「Follow Me」に入る瞬間に立った鳥肌は何だったのか、考える。

 そして、そのまま、考えは飛躍して、時代が時代なら、中津川フォークジャンボリーのような舞台で観るのが相応しいような気がして、背景には岡林信康、遠藤賢司、はっぴいえんどの匂いがしたのと共に、「断罪」される身を弁えながら、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキ・ギターを掻き鳴らしたボブ・ディランの詩情と気骨への距離感に繋がった。

 だからなのかどうなのか、現代において彼らがスピードを上げながら、様々なフレーズ片をマシンガンのように掃射するスタイルに個人的に懐疑性も持った。ボーカルの小山田氏の紡ぐ歌詞世界には「ウイスキー」、「タイランド」や「人身事故」といったキーワード群が絶妙に配置されてシュールな日常が持ち上がってくるのにも関わらず、例えば、ケルアックやバロウズのようなビートニクの匂いはせず、観念の中の小さい酒場でのメモを千切って破り捨てて、配ってゆくような捨て鉢さがある。それを「狂気性がある」と喜ぶロック・ジャーナリズムならば、訝しさを持つ。寧ろ、そういったメモを受け取るファンの感受性のアンテナが何処を向いているのか、「変奏」の経路をジャーナリズムなら解析しないといけない筈なのに、andymoriは特に批評磁場で誤解が積み重なっていったトラジェディはあったと思う。

 要は、ユースの集合的自意識がコロニー内で通じるハンドルネームで往復書簡を交わし合うようなモードに入っていた00年代後半から10年代の機運と彼らの朴訥さはマッチしたということだろうし、彼らは何処にも連れていかないのに、「Follow」(Twitter時代の最大のキーワードだろう)をしてゆく人たちの群れがandymoriというバンドの実像を肥大させていった。それ以上でもそれ以下でもないと思う。

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 2010年の日比谷野外大音楽堂でのワンマン・ライヴで初期メンバーのドラマーであった後藤氏の脱退表明があるという早すぎるクライマックスを迎える中、新しく岡山健二氏をドラマーとして招いた形での新しいフェイズといえる新作がこの『革命』になる。

 タイトルからして、『熱狂とファンファーレ』から果たして更新(後進)されたのか、気になるが、結論から言うと、正直、そういった大文字が並ぶのは前半の3曲ほどである。それも、1曲目の例の3ピースのバンド然としたビートでスウィングする「革命」での《革命を起こすんだ 明日はあるんだと誰もが今夜祈るわけは》も、《太陽がなんだか恋しいんだ コンクリートジャングルに降り注いだ Weapons of mass destruction 東へ東へ》という3曲目の「Weapons of mass destruction」にしても、3.11以降、メタファーとしての核シェルター時代に入った今における警句として深読みは幾らでも出来るが、彼らの「東」はおそらく「フクシマ」や「ドイツ」ではないのが明らかに分かるのは、その次の4曲目の「ユートピア」だろう。緩くハンド・クラップを求めるような《バンドを組んでいるんだ すごくいいバンドなんだ》と朗々と表明するアティチュード。ここには、もっと身の丈の日常に添った感情とささやかな小文字が混ざり合っている。

 基本、今作の全体像として大きいのは、『革命』という題目と比して、非常にささやかな世界観で、スーパーマンに「なりたい」と願いながら、そこで地団駄を踏むようにダンス・ステップでテンションを上げ、ただ日常をやり過ごせたらいい、という柔らかい空気感だったりする。だからなのか、ときに恋人の影を匂わせた二人の世界観があっても、孤立したモノローグのような寂寥が先立ち、そして、誰かとの共振を拒否しながらも、「呟き(Tweet)」を巷間に受け止めて欲しい、今の時代の"閉じたシンクロニシティ"への期待を担保に入れたままのフォーキーなリリシズムがこれまでより気化速度を遅めながら、現前している。そういう意味では、カントリー調の「Sunrise&Sunset」から本編ラストのいつになく優しい「投げKISSをあげるよ」の流れが今作の核心と言える気がする。

 BPMは抑え目に、「最期」や「無」を意識するあまり、過剰なレゾンデートルをディグしてしまうことになった、このアルバムを果たして、ユースたちはベタに受容「してしまう」のか、そこが気になる。セカイ系も終焉を迎えつつ、循環するように「YOU&I」への完結こそが、切り詰まった世におけるかろうじての通気孔だという認識論が台頭してきている瀬に、andymoriが今作で踏み込んだややこしさは「&I」の世界であり、の「&」の前項目が気になってくる。それが「THEY」や「WE」なら、面白いが、誤配の果てに予め設定されるのは「YOU」なのだろう。そうだとしたら、リリース前から勝負が決まっていた作品なのだろうか。

《いつか見た夏の海も冬の星も消えてしまうだろう なくなってしまうだろう》
(「Sunrise&Sunset」)

 だからこそ、今の彼らには「だろう」じゃなくて、消えてしまうんだ、なくなってしまうんだ、という言い切りをして欲しかった気がする。そこで、仮想敵が増えた方がより未来への展望が開けたと思えてしまうだけに、僕自身は怜悧に評価するのが非常に困難な内容になってしまったと悔やみもする。「無じゃない何か」への希求を日本語で紡ぐ表現のエッジがこの場所だとは少なくとも想えない。まだまだ、彼らは速度を早められる気がする。「どこか」なんかないから、「ここ」で革命は起きない。

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