【合評】フレンドリー・ファイアーズ『パラ』(XL / Hostess)

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 エド・マックによると、『PARA』は、バックストリート・ボーイズやイン・シンクなどにも影響を受けたアルバムだそうだ。もちろん3人が、楽器を放り出して踊り始めたわけではなくて、前作『Friendly Fires』の内省にも行きかけないほどのエスケーピズムは大きく後退し、80年代エレ・ポップとディスコの要素を基本とした、健康的なポップ・ソングが多い。これは前述したアーティストの影響はもちろんのこと、多幸感など前作の良さを引き継ぎつつ、より開かれたフィールドへ向かうため、さらなる音楽性の獲得に力を入れた結果だろう。この方向性は、ヘラクレス・アンド・ラブ・アフェア『Blue Songs』と似ていなくもないが、本作は、前作のシカゴ・ハウス的な如何わしい卑猥さからくるアクの強さが、すっぽり抜け落ちている。このアクの欠如をどう捉えるかによって、評価は分かれるはず。

 個人的には、アクが薄まってしまったのは残念でならない。先程「前作の良さを引き継ぎつつ」と書いたけど、僕にはその引き継ぎが、方向性の転換に近い大きな変化に見えてしまった。様々なサンプリングを多用し、ある曲のフレーズを別の曲で使用したりと、その実験的な姿勢を保ちつつ、開放的で万人性が高いポップ・ソング集に仕上げたのはすごいと思う。しかし行儀が良すぎて、体を揺らすには最適でも、陶酔に近い没入感というのは、まったく得られない。この変化というのは、ライナーノーツにあるエド・マックの発言を引用すれば、「今はブラック・アイド・ピーズやケシャみたいなのが流行ってるから、以前の感じを取り戻したいと思ってるんだよ。今はうんざりさせられるようなエレクトロ・ポップがたくさんあって(中略)でも僕らは、ポップ・ミュージックを違う方向に持って行かなきゃいけないって感じてるんだ」ということ。つまり彼らは、自ら挙げたアーティストを仮想敵に設定し、本作を作った。これは好きな音(ハウス、パンク、シューゲイザーなど)を自己流に解釈し、好き勝手やるという前作とは違うアプローチだ。

 いい曲が詰まったポップ・アルバムとしては素晴らしい出来だが、「飛ぶ」「ハマる」などのトリップ感を失わせることになった、メインストリームとの距離感から生ずる緊張を糧とした創作姿勢は、批評にすら「橋渡し」の役割を求められている現在において、少しばかり退屈に見えてしまう。



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friendly_fires.jpgのサムネール画像
《君が過ごした時間を感じることは無い 僕には君の過去に触れることができない でも僕は 生きてゆく 生きてゆく 生きてゆく 僕は今夜、過ぎ去った日々を生きるんだ》
(「Live Those Days Tonight 」)

 彼らは前作『Friendly Fires』において「Paris」=「ここではないどこか」を志向した。しかし、今作ではそれとはうって変わり、「今、この夜」を生きることをアルバム冒頭の1曲目で歌う。アルバムは全編このステイトメントに忠実に「今、この夜」を生きることを鳴らしている。前述した歌詞を読めばわかるように、彼らは過去が無かったかのようにふるまうわけではなく、過去に最大限の敬意を払いつつ、それと「同じこと」ではなく、「それと異なった形で同じように」、「今夜」を生きようとしている。それが「過ぎ去った日々を生きる」という言葉の意味なのだ。

 震災後、「暗闇」について思いを馳せることが多くなった。それは僕が、地震が引き起こした、大規模で長時間にわたる停電(とは言っても僕のいる地域は復旧まで2日かからなかった)の被害にあったからだ。その停電が引き起こしたのは「長い夜」だった。そこでは本を読むこともできず、ネットを観ることもできず、電池が充電できないため、メールをすることも電話をすることもできなかった。ラジオをつければ被害情報が繰り返され、神経がすり減る。大規模な余震も連発し、3月の中旬であったその頃は、暖房が無ければ凍えてしまうくらいの寒さだった。「この夜を生き延びることができるのか」が冗談ではなく、頭の中で繰り返された。

 日本中で「節電」が叫ばれ、街という街に夜が侵食した。その夜は「暗闇としての夜」であり、明かりを灯すことができない夜だった。「いつもの夜」と「暗闇としての夜」が混在した。「いつもの夜を取り戻せ」という声と今は「暗闇としての夜」が必要なのだという声が混在した。

 この「混在」の情報がメディアから放たれるたびに僕はその「混在した夜」をどう過ごせばよいのかわからなくなった。この「混在した夜」は「日常」を侵食した。そして、「日常」は「非日常」を生み出し、人々の振る舞いにさらなる混乱をもたらした。「日常を取り戻そう」という言葉は否応なく「非日常」を身体に刻みつけ、「力を合わせよう」といったどこにも向いていない「大きな言葉」が宙を飛び交った。

 震災後には様々なチャリティーソングが様々な形で発表されたが、そのほとんどが「暗闇としての夜」と向き合っていないように思えた。時が経ち、現在、「日常」から「非日常」の影は少しずつ取り払われつつあるが、それでもやはり「原発問題」を抱えている我々に「日常」が戻ってきたとは言い難い。「暗闇としての夜」がまた戻ってくるのではないかという恐怖も少しだが、確かにある。

 そしていつしか、僕は音楽を聴くとき、それが「暗闇としての夜」でも堂々と鳴り響くことができるかを考えるようになった。それを聴くことによって「暗闇としての夜」の中でも自分が鼓舞されるかどうかを。

 フレンドリー・ファイアーズのこの新譜はそんな「暗闇としての夜」の中でも、その輝きを失うことは無いように思える。前作にあったDFA周辺のディスコ・パンク色は影を潜め、ブルー・アイド・ソウル、ハウスミュージックなどの影響が前面に出ており、ソフィスティケイテッドなメロディをヴォーカルのエド・マクファーレンがソウルフルに歌い上げる。そして、そこで歌われるのは先ほど述べたように、全ての過去を踏まえ、それを記憶にとどめ続けながらも、今夜、自分たちは生きてゆくんだという揺るぎないメッセージだった。

「ここではないどこか」なんていうファンタジーが容易に通用しなくなった今(これは震災後の日本においてもとても大きな問題でもある)、彼らが「今、ここ」に焦点を当てるのは必然的とさえ言える。しかし、彼らはその「今、ここ」を「サヴァイヴする場所」として提示することをしなかった。「サヴァイヴ」に付随して起こる「バトルロワイヤル」は人々を疲弊させるばかりであるから。彼らはあくまでそこで「踊る」ことをサジェスチョンする。それは「暗闇」に押しつぶされることなく、「暗闇」を引き受けた上でなお、自分たちは踊りつづけるという決意であり、そのようにあって欲しいという「祈り」に満ちた音楽なのではないだろうか。

 僕らは色々なものを「喪失」してしまった。そこには取り戻せないものも数多く存在するし、そのことに心を悩ませ続ける人間も大勢いる。しかし、『パラ』はそんな想いを抱く人々の心にも届くはずだ。なぜなら最初に述べたようにこのアルバムは「昔と異なった形で同じように踊る」ことを歌ったアルバムだからだ。

「喪失」を知ってしまった僕らが「昔と同じように踊る」ことは不可能だ。だが、「今までとは違ったやり方で今夜、踊る」ことができる。


*2011年2月来日公演のときのインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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