【合評】レディ・ガガ『ボーン・ディス・ウェイ』(Interscope / Universal)

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 時は1991年、ニルヴァーナというバンドがアメリカで全世界的音楽革命を起こした。メジャー・デビュー・アルバム『ネヴァー・マインド』は言わずと知れた歴史に残る一枚となった。その頃、世界中の音楽関係者は「次なるニルヴァーナ」を求め、その結果見いだされたのがティーンエイジ・ファンクラブだった。その音楽はいわゆる「グランジ」ではなかったが、彼らの『バンドワゴネスク』は同じく商業=金を皮肉ったスリーヴでUKからの返答と相成った。

 さて2000年代、これという革命は起こらなかったものの、ニューヨーク出身のザ・ストロークスが一躍脚光を浴び、これまた世界中で人気を博した。そして音楽業界はまた「次なるザ・ストロークス」を探し始めたのである。そこで目に留まったのが同郷ミューヨークで活動するステファニー・ジャーマノッタという一人の女性歌手だった。

 ステファニーはニューヨークという土地において、なかなか皆の注目を集めることが出来ずにいた。ある日いつも通りピンク・フロイドやクイーンのカヴァーを披露することになったステファニーは、下着でステージに上がるという強攻策に打って出た。そのとき初めて皆が注目してくれたのだ。そしてステファニーにとって、これがのちの「露出」の原点となっていく。

 そんなステファニーは、もちろんザ・ストロークスとは音楽性が違っていた。しかし歌唱力と人間的魅力を感じたある関係者が何か別の方法で売り出そうと考え、ステファニーにこんなことを考案した - 「ダンス・ミュージックをやってみないか?」。

 そして、それに見合う新しい名前が決まった。クイーンの曲「レディオ・ガ・ガ」をもじったレディー・ガガという名前だった。

 60年代や70年代という時代には1年に一度程度のペースでアルバムが出されていた。だがしかし、ここ最近はストーン・ローゼズ、ナイン・インチ・ネイルズ、そしてミューまでもが4年半ぶりに新作を出す時代となってしまった。そんな中でレディー・ガガは毎年フル・アルバムをリリースしているのだ。何と凄い逸材が生まれたのだろう! 今回は早くも通算3作目となる新作だ。

 スロー・テンポで始まるこのアルバム冒頭部分は既にその瞬間から直後にやってくる竜巻を予感させる。もちろん期待は裏切らなかった。ガガ旋風の始まりだ。その後もアッパー・チューンが続いていく。これまでと敢えて違う点を挙げるとすれば言わば陰と陽、静と動、強と弱といった波が1曲1曲に感じられることだ。更にエレクトロ音のアプローチもよりハード・デジタルに移行し、新鮮に感じる。それでも尚ポップ・ミュージックという枠に括られるのはひとえにステファニーによる卓越したメロディー・センスとヴォーカリズムにあると思う。皮肉なのは「アメリカーノ」というかつてオフスプリングも使用したベタなアメリカ的タイトル曲が非常に民族的要素に富んでいること。最も現在のアメリカらしくない一曲にガガの才能を感じざるを得ない。

 ステファニーは米インタヴューで「私は女でも男でもない。両性具有だ」という発言をしている。実際、彼女(或いは彼)が本当に男か女かは未だ誰も知らないというのが現実なのだ。ヴィデオ撮影の際に男性器が見せそうになって撮り直したというエピソードまである。そのスタイルは、ゲイ(&レズビアン)・カルチャーに絶大な支持と衝撃をもたらした同郷のシザー・シスターズ、過激なショウでファンの目を釘付けにするヤー・ヤー・ヤーズにも似ている。だがステファニー曰く、ガガのショウは彼らとは一線を画し「ショックアート」と位置づけている。また、ステファニーが設立したファッション・チームは「ハウス・オブ・ガガ」と名付けられ、ハウスというのはドイツの「バウハウス」から拝借されている。

 ロック界やアンディー・ウォーホルの「ライフ」そのものに興味を示したステファニーは、彼らの生活に欠かせないドラッグに手を出すことになる。だがあくまでそれは「興味」と「好奇心」と「体験」への探究心から成るもので、深入りはしなかったという。ドラッグのBGMには必ず大好きなザ・キュアーの曲をかけていたとも言われている。ステファニーの心には幼い頃からロックが刻まれているのであった。初期の曲「ボーイズ・ボーイズ・ボーイズ」はモトリー・クルーの「ガールズ・ガールズ・ガールズ」へのオマージュとも取れよう。

 シュウ・ウエムラの付けまつ毛の目元にジギー時代のデヴィッド・ボウイとそっくりのアイ・メイクを施すなど、ボウイへのリスペクトは今でも続いている。更に音楽と芝居(演劇)を好むステファニーは当初、マイルス・デイヴィス、スティーヴ・ライヒ、チック・コリア、フィリップ・グラスらを排出したジュリアードへ進学する予定もあったという。

 こんな風に様々な音楽が溢れ返るニューヨークで生まれ育った彼女にとって、究極に斬新なものでなければ注目されなかった苦労の日々が、今やトップ・スターダムへとのし上がり、まさに今回のキャッチ・コピーの通り、「レディー・ガガは止まらない」。

 最後に、アメリカ音楽界で同じくトップ・スターダムへと登り詰めたコートニー・ラヴ。彼女は今、レディー・ガガの存在をどう思っているのだろうか?

 
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 世界的な音楽不況が叫ばれるなか、海外だけでなく、ここ日本でもチャートを席巻するほどのセールスを記録するレディ・ガガ。洋楽としては、日本におけるレディ・ガガのブレイクというのは現象と言えるものだし、商業面で張り合えるとしたら、AKB48くらいのものだろう。 

 ただ、レディ・ガガがここまで支持されている背景には、彼女のポップ・スターとしての才能だけではなく、彼女自身が内包する同時代性が関係しているというのは、大方の同意を得られるところだろう。実際彼女は、これまで音楽という枠を越えて様々な批評の対象にされてきたし、語られてきた。そのなかでも、マドンナとの比較は多かったと思うのだけど、『Born This Way』を聴いて興味が向いたのは、アルバム全体に漂う「雑さ」だ。この「雑さ」については、すべてを切り開くようなパワーや勢いと捉えることも可能だけど、『The Fame』『The Monster』にあった隙の無さに驚いた僕にとっては、『Born This Way』の雑な作りに対して疑問を抱いてしまったのだ(蛇足として、この隙の無さが、当時のレディ・ガガがマドンナと比較されてしまった要因のひとつだと思う)。ヒット・チャートに氾濫しすぎて飽和状態となっているエレクトロを、ダサくならず、あくまでスタイリッシュにやっているのは評価できるが、音だけを聴けば、起伏が少ないアルバムだし、「Hair」のようなバラードもアクセントにはなりえていない。 すべてがシングル・カット級の曲ながらも、アルバムというよりもシングル集的な印象が拭えないし、音のみで判断すれば、傑作とは言えない。

 それでも僕が『Born This Way』に強い興味を持ってしまうのは、歌詞が複雑で、それが内省的に吐き出されているからだ。『The Fame』リリース時、PopMattersなどで歌詞を批判されたことを受けてか、現代のアメリカが抱えるトピック、特にアメリカ社会やマイノリティとされる立場の人々をガガなりにピックアップし、それを弁証法など様々な形で歌っているものが多い。しかしその歌詞は、何かに立ち向かう急進的なものだが、同時に単調な曲とは裏腹に、パーソナルな呟きに近い、前述した内省的なものに聞こえる。

 ガガはステファニーと呼ばれることを拒否し、《レディ・ガガ=私》と自分自身を定義した。しかし、『Born This Way』には、ガガが捨て去ったはずのステファニーが戻っている。このステファニーの介入が、現在のレディ・ガガと、アイドル声優などに対するスラングとして使用されるようになった、「2.5次元」という言葉とシンクロしているように思えるから面白い。いままでのレディ・ガガは、ステファニーという器の消滅によって、彼女の歴史と精神を取り込む受け皿となっていた。だからこそ、レディ・ガガは「実在する幻想」でいられたし、リスナーもリアルなものとして受け取ることができた。しかし、『Born This Way』でのレディ・ガガは、アバターとしてステファニーの前に立ちはだかる者として対峙している。それは、シングル「Born This Way」のMVが示唆していたのかもしれない。おおまかに説明すると、まずは冒頭の、海老反りのようになったガガの背後に回ると、クレオパトラを思わせる姿をしたガガが登場し、そのガガが「ガガのようなもの」を次々と生み出していくシーン。僕は、この「ガガのようなもの」を生み出している者がレディ・ガガで、その前の死んだような表情で映し出されるレディ・ガガは、ステファニーではないかと踏んでいるが、このシーンは、レディ・ガガの「新たなレディ・ガガ」を作り出す苦闘を表しているのではないだろうか?このあとは、下着?姿のレディ・ガガ、ゾンビのような骸骨姿になったレディ・ガガ、成長した「ガガのようなもの」、そして「ガガのようなもの」を生み出そうとしたレディ・ガガが、代わるがわる登場する。最後は一筋の涙を流すレディ・ガガの後に、おちょくるかのように風船ガムを膨らますゾンビ・ガガが登場して、MVは幕を閉じる。

 ここで、同MVの冒頭でガガ自身が読み上げたと思われるマニフェストを、長くなるが、僕が直接MVから聞き取ったものを引用させてもらう。

《これは母なるモンスターのマニフェスト。山羊座にある宇宙の中の異空間を支配する政府で、素敵な魔法のような調和が誕生した。その誕生は有限ではなく、無限のものだった。そして母胎の月が満ち、未来の細胞分裂が始まった。この忌まわしい時は、一時的なものではなく、永遠のものだと思われた。こうして、新しい人種が始まった。それは人類に属する人種だが、偏見はなく、裁きも下さない、無限の自由を持つ人種。しかし時を同じくして、永遠の恋人が多元的宇宙を彷徨っていると、もう一つの恐ろしいものが誕生した。『悪』です。彼女は2つに引き裂かれ、2つの究極の力の間でもがき、選択の振り子が揺れはじめた。迷い無く、善の方に引きつけられるでしょう。しかし母は考えた。「どうしたら、こんな完璧なものを守れるか?悪なしで?」》
 
 このマニフェストにおける「こんな完璧なもの」はレディ・ガガであり、そのレディ・ガガを邪魔する存在という意味において、「悪」とはステファニーではないだろうか?つまり、レディ・ガガの中に眠っていたステファニーが目覚めることによって、レディ・ガガという完璧な存在が揺れている。そして彼女自身、レディ・ガガとステファニーの狭間に本当の自分を見出そうとしていて、そこにいるのが、「人類に属する人種だが、偏見はなく裁きも下さない、無限の自由を持つ人種」なのかも知れない。その人種が希望なのか、はたまた絶望なのかは『Born This Way』を聴く限り知ることができないし、そういう意味では「レディー・ガガは正しい」と断言はできないが、少なくとも本作は、彼女がレディ・ガガとステファニーという謂わば完璧な幻想と実在の間にある「ナニカ」を見つめている姿が窺い知れるアルバムだと思うし、その「ナニカ」の正体を知ったとき、彼女がどういったことをするのかは、すごく興味がある。

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