June 2011アーカイブ

ワイアー

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WIRE

きみたちの国で起こった悲劇的な出来事のあとに
東京に行くというのは、意義のあることだと思う

今年1月に待望のニュー・アルバム『Red Barked Tree』をリリースしたワイアーが久々の来日を果たし、東京は代官山ユニットのアニヴァーサリー・イベントで、一夜限りのライヴをおこなう

80年代の初来日も00年代の2度目も、プライヴェートな都合により行けなかった(泣)ぼくとしても今回は絶対に行くつもりだ! ぼく(ポスト・パンク世代:笑)の彼らに対する思い入れは、それほど深い。『Pink Flag』にはじまる70年代の3枚のアルバム、ラフ・トレードからのイレギュラーなリリース(シングルやライヴ・アルバム)をへてミュート・レコーズからリリースされていた80年代の一連の作品、そして『Send』で00年代に復活をとげてからのEPやアルバム、どれもこれもが素晴らしい。

今チラリと述べたとおり、彼らはいわゆるポスト・パンクを代表するバンドのひとつと目されている。先日発売されたクッキーシーン・ムックではちょっとしたポスト・パンク特集を展開した。そこにおける「総論」(みたいなもの)の冒頭に、00年代におこなった(曲作りにおける)中心人物コリン・ニューマンの発言を長々と引用した。過去にぼくが直接おこなった、当時のバンドたちのインタヴューのなかで、ポスト・パンクというものを最も簡潔かつ適確に捉えた発言と思えたから。

その特集では、ザ・ポップ・グループやスロビング・グリッスル、ギャング・オブ・フォーのインタヴュー記事を並べたものの、ワイアーのページは(単独では)設けなかったことを微妙に後悔していたところ、来日が決まってさらにそれがふくらんだ(笑)。しかし今回、クラブ系ウェブ・サイト、ハイアーフリクエンシー(Higherfrequency)、および招聘もとであるユニットとの共同作業により、彼らのメール・インタヴューをおこなうことができた!

上記のようなムック(紙媒体)の「くくり」に「並べなかった」ことは、もしかしたら、よかったのかも? と思える部分もある(Read & Burn, i say!)彼らの最新インタヴュー。70年代から現在に至る彼らのバックグラウンドもよくわかる、興味深い内容となった。是非ごらんください。


Wire_1106_A1.jpg

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今回の「表紙」にフィーチャーされたのは、来週末に待望の来日を果たすワイアー。彼らのインタヴュー記事は、こちら

「DLすると横幅が1500pixel」となる画像をアップしました。あなたのPCの壁紙に使えるかも?

2011年6月26日10時25分 (HI)

2011年7月

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  • ハー・スペース・ホリデイ

    結局、終わりが訪れることには変わりがない、それならお祝いで終わりにしよう

  • ジプシー&ザ・キャット

    ぼくのイメージする「サマー・ポップ」って、聴く人をハッピーにする音楽だから!

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絶賛発売中クッキーシーン・ムック第2弾『Pop & Alternative 2011』の出版を記念しておこなわれるトーク・イベント、しめくくりはこれ! 去る2月に開催して大好評だった「サエキけんぞう×クッキーシーン presents 洋楽トーク」のニュー・ヴァージョン!

今回はゲストに「プロ・インタヴュアー&プロ書評家」吉田豪さんをお迎えして、「80年代から10年代を逆照射する」というテーマでお送りします。

豪さんは、日本のロックやアニソンのみならず、ディープな洋楽ロック愛好家でもあります。そんな彼が(主に)「洋楽」について語るイベントというのは、なかなかレアなのでは?

いろんなビデオ映像などもお見せしつつ、かなり濃い(約)3時間になると思われます。前半(1時間半)はユーストリーム中継もおこないますが、(2月の「洋楽トーク」もそうだったように)ユーストリームが終わってからのほうがさらにリアル(デンジャラス)になる...と思われます!

そして、日本一のマイ・ブラッディ・ヴェレンタイン・マニアとして知られる(『シューゲイザー・ディスク・ガイド』でおなじみ)黒田隆憲さんのゲスト参加も決定!  ← 【6月28日追記】

よろしければ、是非ご来場ください!

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日時:7月6日(水)19時30分〜22時45分ごろ
場所:ototoy

トーク・テーマ:「80年代から10年代を逆照射する」
出演:吉田豪、サエキけんぞう、黒田隆憲、伊藤英嗣

料金:2,500円(セルフ・サービスで、お茶、コーラなど飲み放題)

詳しくは、こちらototoyのページ下部のフォームから!

注)今回は「予約」なしでもご来場可能です!←【7月6日追記】

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なお、ユーストリーム放送は、こちらからご覧になれます。7月6日(水)19時30分ごろから約1時間30分(イベント前半のみ)配信開始でございます。微妙にせこくて、すみません m(_ _)m ←【7月5日追記】

よろしくお願いします!
2011年6月28日14時56分(HI)

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またもやドタバタした告知になってしまい、申し訳ありません!

あと「本放送」の開始がずるずると遅れていて、それも申し訳ありません(汗)!

レディオ・クッキーシーン・ユーストリーム・ヴァージョンの「試験放送」にあたる(とは言いつつ、レディオ・クッキーシーンが始まっても、つづける可能性あり...:笑)パイレーツ・クッキーシーン第2弾として、このトーク・イベントの前半1時間30分をストリーミング配信します!

可能なかたは、PCもしくはスマフォから
http://www.ustream.tv/channel/pirates-cookie-scene
にアクセスを!

是非是非〜!

2011年7月6日6時56分(HI)

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絶賛発売中クッキーシーン・ムック第2弾『Pop & Alternative 2011』の出版を記念して、6月後半から7月前半にかけてトーク・イベント3連発をおこないます。

1発目、6月22日にドミューンで配信された「クッキーシーン presents サマー・オブ・ラヴ」は大盛況のうちに終了しました。ありがとうございます! 2発目は、以下のとおりになります。

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日時:7月1日(金)19時〜20時
場所:タワーレコード新宿店10F

トーク・テーマ:「ポスト・パンク(とエロ)」
出演:ロマン優光(ロマンポルシェ。)、伊藤英嗣

料金:無料
タワーレコード新宿店にて『Pop & Alternative 2011』をご購入の方には、サイン会参加券が配布されています。サイン会はトーク終了後におこなわれます。

なお、当初このイベントは、ブラッドサースティ・ブッチャーズのDVD『kocorono』の発売記念イベントも兼ねた合同企画でしたが、吉村秀樹(ブラッドサースティ・ブッチャーズ)の入院により企画変更となりました。吉村秀樹(ブラッドサースティ・ブッチャーズ)のサイン会参加券をお持ちのお客様には、タワーレコード新宿店にて、サイン会参加券と映画 『kocorono』パンフレット(ブラッドサースティ・ブッチャーズ・メンバー全員のサイン入り)を引き換えさせていただきます。引き換えは、上記イベント終了後より店頭にて行ないます(7月2日以降も店頭にて受け付けさせていただきます)。

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ふるってご参加ください。お目にかかれるのを楽しみにしています!

2011年6月24日14時43分 (HI)

2011年6月27日

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friendly_fires.jpg
 エド・マックによると、『PARA』は、バックストリート・ボーイズやイン・シンクなどにも影響を受けたアルバムだそうだ。もちろん3人が、楽器を放り出して踊り始めたわけではなくて、前作『Friendly Fires』の内省にも行きかけないほどのエスケーピズムは大きく後退し、80年代エレ・ポップとディスコの要素を基本とした、健康的なポップ・ソングが多い。これは前述したアーティストの影響はもちろんのこと、多幸感など前作の良さを引き継ぎつつ、より開かれたフィールドへ向かうため、さらなる音楽性の獲得に力を入れた結果だろう。この方向性は、ヘラクレス・アンド・ラブ・アフェア『Blue Songs』と似ていなくもないが、本作は、前作のシカゴ・ハウス的な如何わしい卑猥さからくるアクの強さが、すっぽり抜け落ちている。このアクの欠如をどう捉えるかによって、評価は分かれるはず。

 個人的には、アクが薄まってしまったのは残念でならない。先程「前作の良さを引き継ぎつつ」と書いたけど、僕にはその引き継ぎが、方向性の転換に近い大きな変化に見えてしまった。様々なサンプリングを多用し、ある曲のフレーズを別の曲で使用したりと、その実験的な姿勢を保ちつつ、開放的で万人性が高いポップ・ソング集に仕上げたのはすごいと思う。しかし行儀が良すぎて、体を揺らすには最適でも、陶酔に近い没入感というのは、まったく得られない。この変化というのは、ライナーノーツにあるエド・マックの発言を引用すれば、「今はブラック・アイド・ピーズやケシャみたいなのが流行ってるから、以前の感じを取り戻したいと思ってるんだよ。今はうんざりさせられるようなエレクトロ・ポップがたくさんあって(中略)でも僕らは、ポップ・ミュージックを違う方向に持って行かなきゃいけないって感じてるんだ」ということ。つまり彼らは、自ら挙げたアーティストを仮想敵に設定し、本作を作った。これは好きな音(ハウス、パンク、シューゲイザーなど)を自己流に解釈し、好き勝手やるという前作とは違うアプローチだ。

 いい曲が詰まったポップ・アルバムとしては素晴らしい出来だが、「飛ぶ」「ハマる」などのトリップ感を失わせることになった、メインストリームとの距離感から生ずる緊張を糧とした創作姿勢は、批評にすら「橋渡し」の役割を求められている現在において、少しばかり退屈に見えてしまう。



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friendly_fires.jpgのサムネール画像
《君が過ごした時間を感じることは無い 僕には君の過去に触れることができない でも僕は 生きてゆく 生きてゆく 生きてゆく 僕は今夜、過ぎ去った日々を生きるんだ》
(「Live Those Days Tonight 」)

 彼らは前作『Friendly Fires』において「Paris」=「ここではないどこか」を志向した。しかし、今作ではそれとはうって変わり、「今、この夜」を生きることをアルバム冒頭の1曲目で歌う。アルバムは全編このステイトメントに忠実に「今、この夜」を生きることを鳴らしている。前述した歌詞を読めばわかるように、彼らは過去が無かったかのようにふるまうわけではなく、過去に最大限の敬意を払いつつ、それと「同じこと」ではなく、「それと異なった形で同じように」、「今夜」を生きようとしている。それが「過ぎ去った日々を生きる」という言葉の意味なのだ。

 震災後、「暗闇」について思いを馳せることが多くなった。それは僕が、地震が引き起こした、大規模で長時間にわたる停電(とは言っても僕のいる地域は復旧まで2日かからなかった)の被害にあったからだ。その停電が引き起こしたのは「長い夜」だった。そこでは本を読むこともできず、ネットを観ることもできず、電池が充電できないため、メールをすることも電話をすることもできなかった。ラジオをつければ被害情報が繰り返され、神経がすり減る。大規模な余震も連発し、3月の中旬であったその頃は、暖房が無ければ凍えてしまうくらいの寒さだった。「この夜を生き延びることができるのか」が冗談ではなく、頭の中で繰り返された。

 日本中で「節電」が叫ばれ、街という街に夜が侵食した。その夜は「暗闇としての夜」であり、明かりを灯すことができない夜だった。「いつもの夜」と「暗闇としての夜」が混在した。「いつもの夜を取り戻せ」という声と今は「暗闇としての夜」が必要なのだという声が混在した。

 この「混在」の情報がメディアから放たれるたびに僕はその「混在した夜」をどう過ごせばよいのかわからなくなった。この「混在した夜」は「日常」を侵食した。そして、「日常」は「非日常」を生み出し、人々の振る舞いにさらなる混乱をもたらした。「日常を取り戻そう」という言葉は否応なく「非日常」を身体に刻みつけ、「力を合わせよう」といったどこにも向いていない「大きな言葉」が宙を飛び交った。

 震災後には様々なチャリティーソングが様々な形で発表されたが、そのほとんどが「暗闇としての夜」と向き合っていないように思えた。時が経ち、現在、「日常」から「非日常」の影は少しずつ取り払われつつあるが、それでもやはり「原発問題」を抱えている我々に「日常」が戻ってきたとは言い難い。「暗闇としての夜」がまた戻ってくるのではないかという恐怖も少しだが、確かにある。

 そしていつしか、僕は音楽を聴くとき、それが「暗闇としての夜」でも堂々と鳴り響くことができるかを考えるようになった。それを聴くことによって「暗闇としての夜」の中でも自分が鼓舞されるかどうかを。

 フレンドリー・ファイアーズのこの新譜はそんな「暗闇としての夜」の中でも、その輝きを失うことは無いように思える。前作にあったDFA周辺のディスコ・パンク色は影を潜め、ブルー・アイド・ソウル、ハウスミュージックなどの影響が前面に出ており、ソフィスティケイテッドなメロディをヴォーカルのエド・マクファーレンがソウルフルに歌い上げる。そして、そこで歌われるのは先ほど述べたように、全ての過去を踏まえ、それを記憶にとどめ続けながらも、今夜、自分たちは生きてゆくんだという揺るぎないメッセージだった。

「ここではないどこか」なんていうファンタジーが容易に通用しなくなった今(これは震災後の日本においてもとても大きな問題でもある)、彼らが「今、ここ」に焦点を当てるのは必然的とさえ言える。しかし、彼らはその「今、ここ」を「サヴァイヴする場所」として提示することをしなかった。「サヴァイヴ」に付随して起こる「バトルロワイヤル」は人々を疲弊させるばかりであるから。彼らはあくまでそこで「踊る」ことをサジェスチョンする。それは「暗闇」に押しつぶされることなく、「暗闇」を引き受けた上でなお、自分たちは踊りつづけるという決意であり、そのようにあって欲しいという「祈り」に満ちた音楽なのではないだろうか。

 僕らは色々なものを「喪失」してしまった。そこには取り戻せないものも数多く存在するし、そのことに心を悩ませ続ける人間も大勢いる。しかし、『パラ』はそんな想いを抱く人々の心にも届くはずだ。なぜなら最初に述べたようにこのアルバムは「昔と異なった形で同じように踊る」ことを歌ったアルバムだからだ。

「喪失」を知ってしまった僕らが「昔と同じように踊る」ことは不可能だ。だが、「今までとは違ったやり方で今夜、踊る」ことができる。


*2011年2月来日公演のときのインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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 ここ数年、ミュージック・シーンで数多く見られる往年の名バンドの再結成。ラーズ、ピクシーズ、ペイヴメントなど90年代のオルタナ勢から、この夏のサマー・ソニックに登場するPiLやポップ・グループなどポスト・パンク期のレジェンドまで。もう「お金のためでしょ?」なんて意地悪な意見はナシ。確かにフェスや"期間限定"ツアーがビジネスとして成立している側面もある。でも、やっぱり彼らのライヴや新譜を耳にしてしまうと...月並みな言葉ではあるけれど、優れた音楽は時代性/ノスタルジアを軽く凌駕する。そして、"今"だからこそはっきりと見える普遍性があるのも事実。僕が見たピクシーズはメンバーの体型とは裏腹にタイトだったし、これからやって来るPiLの存在感は半端じゃないだろう。

 それにしても24年ぶり! カーズがまさかの再始動だ。僕が生まれて初めて買ったレコードはカーズの『Greatest Hits』だった。"ベストヒットUSA"で「Tonight She Comes」のビデオ・クリップを見て、そのレコードを選んだ当時の自分をほめてあげたい。2枚目に買ったレコードはトーキング・ヘッズの『Little Creatures』。この2枚が僕の人生を変えたと言っても過言じゃない。僕は今も、そしてこれから死ぬまでずっとロック/ポップ・ミュージックを聞き続ける。その楽しさを教えてくれたのは、カーズとトーキング・ヘッズだった。その頃は"オルタナ"だなんて、思ってもいなかったけれど。

 80年代に全米チャートをにぎわせるヒットを連発し続けたカーズ。そしてイーノとの邂逅を経て、『Remain In Light』という金字塔を打ち立てたトーキング・ヘッズ。中学生だった僕はモダン・ラヴァーズの1st『The Modern Lovers』を見つけて驚愕した。カーズのドラマー、デヴィッド・ロビンソンとトーキング・ヘッズのマルチ・プレーヤー、ジェリー・ハリスンが同じバンドに在籍していたなんて! しかもプロデュースは元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル。これでバラバラだったイメージがひとつになった。おぼろげながら見えてきたのは、60年代中盤~70年代後半のニュー・ヨークを中心とするアンダーグラウンドの音楽シーン。それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドからテレヴィジョン、ラモーンズにまで受け継がれる反逆と知性の爆発であり、僕に"Do It Yourself"という考え方を教えてくれた。つまり、パンクだった。

 バンド解散後はウィーザーの1st(ザ・ブルー・アルバム)や3rd(ザ・グリーン・アルバム)、ガイデッド・バイ・ヴォイセズの『Do The Collapse』など、プロデューサーとしての活動が目立っていたリーダーのリック・オケイセック。それらのアルバムからカーズや彼のソロ・アルバムを手に取った音楽ファンはどれくらいいるのかな? パワー・ポップが好きな人はもちろん、ストロークスのファンにもこの『Move Like This』を聞いてもらいたいと思う。すぐに覚えられるメロディ、シャープなギター・リフ、キラキラ輝くシンセ、そしてタイトで軽快なドラム。いつまでたっても手の届かない近未来からの「Hello Again」だ。そこで30年も前から鳴らされ続けてきたサウンドが、どれほど多くのバンドや音楽ファンに愛されてきたのかわかるはず。

 プロデュースはR.E.M.やスノウ・パトロールを手掛けてきたジャックナイフ・リーとカーズが半分ずつ。本質は何も変わっていないけれども、バンド編成が変わってしまった。オリジナル・メンバーでベーシスト/ヴォーカリストのベンジャミン・オールが2000年に癌で他界。ジャケットを飾るシルエットも彼を除く4人だ。ベンジャミンは、デビュー曲「Just What I Needed(燃える欲望)」や、今でもFMでよくオン・エアされる「Drive」などで美声をキメていたイケメン。クセのあるリック・オケイセックのヴォーカル(とルックス)との対比もカーズの魅力だった。『Move Like This』なら、「Soon」とか「Take Another Look」がベンにはぴったりかな。ワクワクするようなポップ・ソングとちょっぴり切ないバラードのバランスが気持ち良くて、何度もPLAYボタンを押す。"ポップ"という言葉も"オルタナティヴ"が広く知れ渡った今では、多彩なイメージを帯びるだろう。そこにカーズの軌跡と現在がある。

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lady_gaga.jpg
 時は1991年、ニルヴァーナというバンドがアメリカで全世界的音楽革命を起こした。メジャー・デビュー・アルバム『ネヴァー・マインド』は言わずと知れた歴史に残る一枚となった。その頃、世界中の音楽関係者は「次なるニルヴァーナ」を求め、その結果見いだされたのがティーンエイジ・ファンクラブだった。その音楽はいわゆる「グランジ」ではなかったが、彼らの『バンドワゴネスク』は同じく商業=金を皮肉ったスリーヴでUKからの返答と相成った。

 さて2000年代、これという革命は起こらなかったものの、ニューヨーク出身のザ・ストロークスが一躍脚光を浴び、これまた世界中で人気を博した。そして音楽業界はまた「次なるザ・ストロークス」を探し始めたのである。そこで目に留まったのが同郷ミューヨークで活動するステファニー・ジャーマノッタという一人の女性歌手だった。

 ステファニーはニューヨークという土地において、なかなか皆の注目を集めることが出来ずにいた。ある日いつも通りピンク・フロイドやクイーンのカヴァーを披露することになったステファニーは、下着でステージに上がるという強攻策に打って出た。そのとき初めて皆が注目してくれたのだ。そしてステファニーにとって、これがのちの「露出」の原点となっていく。

 そんなステファニーは、もちろんザ・ストロークスとは音楽性が違っていた。しかし歌唱力と人間的魅力を感じたある関係者が何か別の方法で売り出そうと考え、ステファニーにこんなことを考案した - 「ダンス・ミュージックをやってみないか?」。

 そして、それに見合う新しい名前が決まった。クイーンの曲「レディオ・ガ・ガ」をもじったレディー・ガガという名前だった。

 60年代や70年代という時代には1年に一度程度のペースでアルバムが出されていた。だがしかし、ここ最近はストーン・ローゼズ、ナイン・インチ・ネイルズ、そしてミューまでもが4年半ぶりに新作を出す時代となってしまった。そんな中でレディー・ガガは毎年フル・アルバムをリリースしているのだ。何と凄い逸材が生まれたのだろう! 今回は早くも通算3作目となる新作だ。

 スロー・テンポで始まるこのアルバム冒頭部分は既にその瞬間から直後にやってくる竜巻を予感させる。もちろん期待は裏切らなかった。ガガ旋風の始まりだ。その後もアッパー・チューンが続いていく。これまでと敢えて違う点を挙げるとすれば言わば陰と陽、静と動、強と弱といった波が1曲1曲に感じられることだ。更にエレクトロ音のアプローチもよりハード・デジタルに移行し、新鮮に感じる。それでも尚ポップ・ミュージックという枠に括られるのはひとえにステファニーによる卓越したメロディー・センスとヴォーカリズムにあると思う。皮肉なのは「アメリカーノ」というかつてオフスプリングも使用したベタなアメリカ的タイトル曲が非常に民族的要素に富んでいること。最も現在のアメリカらしくない一曲にガガの才能を感じざるを得ない。

 ステファニーは米インタヴューで「私は女でも男でもない。両性具有だ」という発言をしている。実際、彼女(或いは彼)が本当に男か女かは未だ誰も知らないというのが現実なのだ。ヴィデオ撮影の際に男性器が見せそうになって撮り直したというエピソードまである。そのスタイルは、ゲイ(&レズビアン)・カルチャーに絶大な支持と衝撃をもたらした同郷のシザー・シスターズ、過激なショウでファンの目を釘付けにするヤー・ヤー・ヤーズにも似ている。だがステファニー曰く、ガガのショウは彼らとは一線を画し「ショックアート」と位置づけている。また、ステファニーが設立したファッション・チームは「ハウス・オブ・ガガ」と名付けられ、ハウスというのはドイツの「バウハウス」から拝借されている。

 ロック界やアンディー・ウォーホルの「ライフ」そのものに興味を示したステファニーは、彼らの生活に欠かせないドラッグに手を出すことになる。だがあくまでそれは「興味」と「好奇心」と「体験」への探究心から成るもので、深入りはしなかったという。ドラッグのBGMには必ず大好きなザ・キュアーの曲をかけていたとも言われている。ステファニーの心には幼い頃からロックが刻まれているのであった。初期の曲「ボーイズ・ボーイズ・ボーイズ」はモトリー・クルーの「ガールズ・ガールズ・ガールズ」へのオマージュとも取れよう。

 シュウ・ウエムラの付けまつ毛の目元にジギー時代のデヴィッド・ボウイとそっくりのアイ・メイクを施すなど、ボウイへのリスペクトは今でも続いている。更に音楽と芝居(演劇)を好むステファニーは当初、マイルス・デイヴィス、スティーヴ・ライヒ、チック・コリア、フィリップ・グラスらを排出したジュリアードへ進学する予定もあったという。

 こんな風に様々な音楽が溢れ返るニューヨークで生まれ育った彼女にとって、究極に斬新なものでなければ注目されなかった苦労の日々が、今やトップ・スターダムへとのし上がり、まさに今回のキャッチ・コピーの通り、「レディー・ガガは止まらない」。

 最後に、アメリカ音楽界で同じくトップ・スターダムへと登り詰めたコートニー・ラヴ。彼女は今、レディー・ガガの存在をどう思っているのだろうか?

 
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 世界的な音楽不況が叫ばれるなか、海外だけでなく、ここ日本でもチャートを席巻するほどのセールスを記録するレディ・ガガ。洋楽としては、日本におけるレディ・ガガのブレイクというのは現象と言えるものだし、商業面で張り合えるとしたら、AKB48くらいのものだろう。 

 ただ、レディ・ガガがここまで支持されている背景には、彼女のポップ・スターとしての才能だけではなく、彼女自身が内包する同時代性が関係しているというのは、大方の同意を得られるところだろう。実際彼女は、これまで音楽という枠を越えて様々な批評の対象にされてきたし、語られてきた。そのなかでも、マドンナとの比較は多かったと思うのだけど、『Born This Way』を聴いて興味が向いたのは、アルバム全体に漂う「雑さ」だ。この「雑さ」については、すべてを切り開くようなパワーや勢いと捉えることも可能だけど、『The Fame』『The Monster』にあった隙の無さに驚いた僕にとっては、『Born This Way』の雑な作りに対して疑問を抱いてしまったのだ(蛇足として、この隙の無さが、当時のレディ・ガガがマドンナと比較されてしまった要因のひとつだと思う)。ヒット・チャートに氾濫しすぎて飽和状態となっているエレクトロを、ダサくならず、あくまでスタイリッシュにやっているのは評価できるが、音だけを聴けば、起伏が少ないアルバムだし、「Hair」のようなバラードもアクセントにはなりえていない。 すべてがシングル・カット級の曲ながらも、アルバムというよりもシングル集的な印象が拭えないし、音のみで判断すれば、傑作とは言えない。

 それでも僕が『Born This Way』に強い興味を持ってしまうのは、歌詞が複雑で、それが内省的に吐き出されているからだ。『The Fame』リリース時、PopMattersなどで歌詞を批判されたことを受けてか、現代のアメリカが抱えるトピック、特にアメリカ社会やマイノリティとされる立場の人々をガガなりにピックアップし、それを弁証法など様々な形で歌っているものが多い。しかしその歌詞は、何かに立ち向かう急進的なものだが、同時に単調な曲とは裏腹に、パーソナルな呟きに近い、前述した内省的なものに聞こえる。

 ガガはステファニーと呼ばれることを拒否し、《レディ・ガガ=私》と自分自身を定義した。しかし、『Born This Way』には、ガガが捨て去ったはずのステファニーが戻っている。このステファニーの介入が、現在のレディ・ガガと、アイドル声優などに対するスラングとして使用されるようになった、「2.5次元」という言葉とシンクロしているように思えるから面白い。いままでのレディ・ガガは、ステファニーという器の消滅によって、彼女の歴史と精神を取り込む受け皿となっていた。だからこそ、レディ・ガガは「実在する幻想」でいられたし、リスナーもリアルなものとして受け取ることができた。しかし、『Born This Way』でのレディ・ガガは、アバターとしてステファニーの前に立ちはだかる者として対峙している。それは、シングル「Born This Way」のMVが示唆していたのかもしれない。おおまかに説明すると、まずは冒頭の、海老反りのようになったガガの背後に回ると、クレオパトラを思わせる姿をしたガガが登場し、そのガガが「ガガのようなもの」を次々と生み出していくシーン。僕は、この「ガガのようなもの」を生み出している者がレディ・ガガで、その前の死んだような表情で映し出されるレディ・ガガは、ステファニーではないかと踏んでいるが、このシーンは、レディ・ガガの「新たなレディ・ガガ」を作り出す苦闘を表しているのではないだろうか?このあとは、下着?姿のレディ・ガガ、ゾンビのような骸骨姿になったレディ・ガガ、成長した「ガガのようなもの」、そして「ガガのようなもの」を生み出そうとしたレディ・ガガが、代わるがわる登場する。最後は一筋の涙を流すレディ・ガガの後に、おちょくるかのように風船ガムを膨らますゾンビ・ガガが登場して、MVは幕を閉じる。

 ここで、同MVの冒頭でガガ自身が読み上げたと思われるマニフェストを、長くなるが、僕が直接MVから聞き取ったものを引用させてもらう。

《これは母なるモンスターのマニフェスト。山羊座にある宇宙の中の異空間を支配する政府で、素敵な魔法のような調和が誕生した。その誕生は有限ではなく、無限のものだった。そして母胎の月が満ち、未来の細胞分裂が始まった。この忌まわしい時は、一時的なものではなく、永遠のものだと思われた。こうして、新しい人種が始まった。それは人類に属する人種だが、偏見はなく、裁きも下さない、無限の自由を持つ人種。しかし時を同じくして、永遠の恋人が多元的宇宙を彷徨っていると、もう一つの恐ろしいものが誕生した。『悪』です。彼女は2つに引き裂かれ、2つの究極の力の間でもがき、選択の振り子が揺れはじめた。迷い無く、善の方に引きつけられるでしょう。しかし母は考えた。「どうしたら、こんな完璧なものを守れるか?悪なしで?」》
 
 このマニフェストにおける「こんな完璧なもの」はレディ・ガガであり、そのレディ・ガガを邪魔する存在という意味において、「悪」とはステファニーではないだろうか?つまり、レディ・ガガの中に眠っていたステファニーが目覚めることによって、レディ・ガガという完璧な存在が揺れている。そして彼女自身、レディ・ガガとステファニーの狭間に本当の自分を見出そうとしていて、そこにいるのが、「人類に属する人種だが、偏見はなく裁きも下さない、無限の自由を持つ人種」なのかも知れない。その人種が希望なのか、はたまた絶望なのかは『Born This Way』を聴く限り知ることができないし、そういう意味では「レディー・ガガは正しい」と断言はできないが、少なくとも本作は、彼女がレディ・ガガとステファニーという謂わば完璧な幻想と実在の間にある「ナニカ」を見つめている姿が窺い知れるアルバムだと思うし、その「ナニカ」の正体を知ったとき、彼女がどういったことをするのかは、すごく興味がある。

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