Third Summer Of Loveは起きるのか?

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コントリビューターとして当サイトでもいつもがんばってくれている近藤真弥さんから原稿が届きました。きわめてド直球なタイトルですが、実体験を通じてのおもしろい仮説であり、今から近い将来にいたるまでのリスニング・スタイルについての興味深い考察になっています。

多くの音楽ファンにとっては今さらすぎるかもしれませんが、サマー・オブ・ラブのファーストセカンドについてもしご存知でなかったら、先にぜひそれぞれのリンク先をご参照ください(って、ウィキペディアですいません)。ヒッピーからパーティー・ピープルときて、次はやっぱりナードやニートの時代なのか。はたまた...。

(公式発表はまだですが)5月末~6月頭くらいに刊行予定のクッキーシーン・ムック第2弾には、この原稿に伊藤さんがインスパイアされたことで実現した特集ページも掲載予定。そういえば、ご本人も少し前にこんなことをツイートしていますね。というわけで、こちらもお楽しみにー。

(小熊俊哉)



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  古い話になるが、3月24日にドミューンで行われたデリック・メイのプレイは素晴らしかった。自分のブログでも書かせてもらったが、僕は東京に帰って、3月11日にドミューンで行われるラリー・ハードのプレイを堪能するはずだった。しかし、東北地方太平洋沖地震の影響で数日間宇都宮に閉じ込められてしまった。そういった経緯もあって、僕はデリック・メイがドミューンでプレイをすると知ってすぐ、ドミューンに予約メールを送ったわけだ。「今度こそ!」という思いを込めて。そして無事に予約は完了し、こうして原稿を書くに至るくらいの体験をすることになる。

 だが、記事タイトルにもあるように、これは「サード・サマー・オブ・ラブは起きるのか?」ということについて書いていくものだ。何度も言うようにデリック・メイのプレイは素晴らしかったが、そのプレイ自体に深く言及するものではない。この記事は、僕がドミューンの中に入って感じたことを綴ったものだ。まず結論から言うと、サード・サマー・オブ・ラブは起きていない。だが、起きる可能性が高まっているのは確かだろう。そこでまずは、セカンド・サマー・オブ・ラブについて書いていきたいと思う。

「セカンド・サマー・オブ・ラブは、資本主義に取り込まれ消費されて終わった」

 それはその通りかも知れないが、現実は踊り狂う人々がいなくなったわけではないし、クラブがなくなったわけでもない。国家による取り締まりも厳しくなってはいるが、アンダーグラウンドに潜って熱狂を生み出しているパーティーはたくさんある。こうして続いてきたからこそ、ダフステップやジュークだってあるのではないだろうか?

 ジュークは世界的に見ても高い認知度があるわけではないが、ダブステップはマグネティックマン『Magnetic Man』やスクリーム『Outside The Box』などのリリースでアンダーグラウンドを抜け出した。現在のダブステップには人が集まっているし、パーティーも大きくなっていくだろう。こんな形で大きくなっていくことに対して、「アンダーグラウンドのエッジは失われ、商業主義に取り込まれてしまう」と嘆く人もいるのだろうか? たしかにそれも一理あるが、僕はパーティーというのはデカければデカいほどいいと思っている。ラヴ・パレードを体験した者としては、大人数と音楽を共有するということを一概に否定できないし、簡単に無視できるものではないからだ(無視できるのであれば、CJBは可決されなかった)。もちろんこうした巨大なパーティーだけでは、音楽的豊穣は望めないし、そこで必要となってくるのがアンダーグラウンドなパーティーだ。ジェフ・ミルズをロンドンに紹介した「Lost」や、外灯もない田舎の山奥でやっているような完全DIYパーティー。この両方があって、そのどちらも行き来できたからこそ、セカンド・サマー・オブ・ラブ期に生まれた音楽や文化は、未だに多くの者達を惹きつけるだけの魅力を育むことができたのではないだろうか?

 2011年、あの二度目の愛の夏から23年目の年だ。23年も経てば、様々な変化が起きている。世界はより複雑になり、細分化が進んだ結果、選択肢が膨大に増えどこへでも行ける世界になった。しかし、世界は狭くなったのに、人々が集まって大きなバズか起きることは少ない。それは、みんな「ひとり」で済ませているからだろう。音楽を聴くときも、映画を観る時も、何をするにも「ひとり」で済んでしまう世界になったのだから、それは時の流れによる必然でもある。

 3月24日、ドミューンのスタジオ。観客は僕を含めて50人。デリック・メイによる世界屈指のプレイをあんな濃密な空間で体験できたことは、すごく不思議な体験として僕の心に残っている。50人の中で踊っていると、ミラーボールの下でというよりも、暗闇のなか一心不乱に踊り狂う孤独な没入感というのがまとわりつくんだけど、不思議とそうした感覚は感じられなかった。あのときに感じた感覚はまるで、「remix」の2009年9月号に描かれている、ヘッドフォンをして音楽に聴き入ってるスマイルの脳内ヴィジョンのようだった(このアートも宇川直宏によるものだ。本当に素晴らしいので、この文章を読んでいる人にも見てほしい)。頭の中で様々なイメージが交錯し、そこでは僕が踊っていて、周りにも数えきれないほどのクラウドがいる。

 まあ、そうしたヴィジョンが頭の中を支配したのは、ドミューンのスタジオに設置してあるUst画面を映したモニターの影響もあるだろうし、そこに表示されている数字を見る限り、何千人という人達がデリック・メイのプレイを観ていたからだろう。しかし僕は、ドミューンのスタジオと、その何千人と観ている人達の場所を行き来したのだ。もちろん体はドミューンのスタジオで踊っていたわけだから、意識だけが行き来したのであって、それはあくまで幻想であり、想像力の産物であるのは否定できない。Ustでドミューンの配信を観ているときも感じていた感覚ではあるが、現場でも同じような感覚を体験すると、それは言葉で表現できない今まで体験したことがないものになっていた。正直に告白すると、それは「サード・サマー・オブ・ラブの萌芽では?」と思ったのだ。

 僕は、幻想や想像力の産物を一笑に伏すことはできない。というのも、セカンド・サマー・オブ・ラブはそうした幻想や想像力が起こしたものだと思っているからだ。そのセカンド・サマー・オブ・ラブは、文化や人々のライフスタイルを変えてしまった。そして僕は、そんな文化やライフスタイルを変えてしまった力に、縮小していくこの世界を打破する希望を見出している。

 ドミューンは、大きなパーティー(Ust配信)と、スタジオでのアンダーグラウンド性が高い空間を同時に生み出し、それらを混ぜ合わせ、今までにない場所を生み出してしまった。スタジオは、目に見える50人という存在がある。しかし、Ust配信というのは、頭の中に踊っている人達がいる。それは幻想に近い現実、「2.5次元」と言える場所かも知れない。それだけでも十分凄いと僕は思うのだが、もしそれらの場所で踊っている人達が現実で踊りだしたら、あるいは自分で始めてみたりしたら、本当に凄い誰も無視できないことが起きると思うのは僕だけだろうか?

 そしてこれは僕の推測だが、ドミューンが週末は現場へ行くようにアジテートするのは、「誰も無視できないこと」を起こそうとしているからだと思う。デトロイトもマンチェスターもファンタジーで変わったように(もしくは変えようとした)、幻想や想像力というのは、人々を動かす力がある。ドミューンはもちろんのこと、マルチネや、ネット上で当初は「本物のKLF?」と噂されたMU Limited Corporationusなど、自分達でやろうと立ち上がって面白い音楽を提供している存在は増えている。皆さんもこの楽しい「今」の音楽で踊ってみませんか? というか、ぜひ参加してほしい。そうしたら、もしかすると...。

 おっと、想像力が暴走したようだ。しかし、僕は想像をやめない。想像力は現実を超越する。

(近藤真弥)

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