リリーズ・アンド・リメインズ『Transpersonal』(Fifty One)

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lilliesandremains.jpg 共同プロデューサーにMETALMOUSEを招き、初期のゴシック的なニューウェーヴ直系のサウンドから新たな音響の膨らみと実験性を獲得した昨年の力作EP「MERU」を経て、約二年振りとなるセカンド・フル・アルバム『TRANSPERSONAL』が指し示す世界観は面白いことになっている。アルバムのタイトル名は1960年代から起こり始めた心理学における新しい潮流のことを言い、人間性心理学における自己の「トランセンダント(超越性)」という概念に関して更に突き詰めた形のもので、如何せん、昨今、隆盛しているスピリチュアル、ニューエイジ系との共振も感じさせる部分もあるが、自己を越えた何ものかへと「統合」される考えやメソッドを模索、援用するというのは『MERU』で見られたボーカルのKENT氏の三島由紀夫の『豊饒の海』にインスパイアーされながら、傾いだ仏教、東洋思想("天上"という記号性が付随していたりもした)と、その後のインドへの渡航で得た「"人間としての個"を巡る再考」がはかられた結果の必然的な流れともいえるだろう。実際、歌詞内でもマテリアリズムや過度な個人主義社会への警鐘のフレーズなど個の超越に基づいた精神性の奪還を目するものが散見される。

 ただ、その際に存在論的または方法論的に、暗黙の合意を条件付けした上で「意識」を語っていないかどうか、という危惧も同時に生まれてくるのがトランスパーソナル心理学の一側面であるが、そのスピリチュアルな要素(不確かな内面性)の湿度を乾かすようなサウンドのモード(確かな外面性)が巧く活きており、メッセージ性の堅苦しさが先走った印象は受けない。80年代のシンセが押し出されたヒューマン・リーグ、デペッシュ・モード辺りのニューロマンティックス的な華やかなクールネスからポスト・パンクの色がより強まり、ビートへの感覚が更に逞しく強化されたことにより、ストイックな疾走感を得ているという捩れによって、奇妙な説得力を持ったスキームを提示することに成功している。そして、彼らを語る場合に兎角、参照にされがちだったザ・キュアー、バウハウス、ジョイ・ディヴィジョン等に備わっていた暗みも多少は継承されているが、そういった目配せや冠詞自体はもはや疎遠ともいえ、より堂々と彼ら独自の孤高の「シリアスな黒い色香の漂うポップネス」を手にしたようになったのは頼もしい深化だと思う。

「MERU」の時点ではいささか纏まりがなく思えた音像の点も滑らかに改善され、エレクトロニクス要素が良い形でポップなエッセンスとして機能しながら、引き算と抑制されたメロディの下、KAZUYAのエッジのあるギター、KOSUKEのアタック感が強まったドラム、NARA MINORUの静かな熱を帯びるベース、KENTの蠱惑的なボーカルの一体感はなかなか今の日本にはない筋の通った毅然たる美意識を貫く意志を感じさせる。

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 日本のロック・シーン(日本に限られるものでもなく、また、"シーン"というのもあるのか、難しいが)で取り交わされる少なくない数の"大きな言葉の「ロック」"とは、兎角、抽象的に精神論とともに、サウンド、歌詞にしても、その政治性自体の持つ押しの強さであったり、アーティストのパーソナル・ストーリー沿いに作品論まで広い視野の中で攪拌されて語られてしまうきらいがあり、そういった磁場と実際に鳴っている音楽そのものは切り分ける「べき」だと思うのは、どんな音楽であっても、大文字の他者へのアンテナの鈍感さが散見され得る限りは、共通する筈の言語往来の場での「第三者」がスルーされてしまうならば、その受け入れるアティチュードは意味よりも「意味しているもの(シニフィアン的なもの)」を補う可能性を持っていることが好ましい気がするからだ。賛同(または、批判)と意味の「壁」に向かって、投げ掛ける音というのは結果的に自家中毒気味の相互閉塞を待備せしめてしまうときがあり、その際のアーティストのリスナーの「関係性」は密室内での確認作業に堕してしまう。その「確認」という行為とは更新はされてゆくが、刷新される必然を持ち得ない場合がある。それはオルテガの言うように、大衆(聴衆とこの場合、置き換えてもいいかもしれない)とは新しい慣習のようなもので、「大衆とは心理的事実」であるが、この大衆の動きや思考の反映が、それがシーンの選択した「信念」と捉えられてしまうと、難渋な誤配の問題が起こるという事と繋がってもくる。要は、「名もなき意思」が社会に刻印される紙一重のラインには線引きして、音楽は語られるのが健全であると僕は思っている。

 そういう意味でいうと、リリーズ・アンド・リメインズ(LILLIES AND REMAINS)がこの『TRANSPERSONAL』で踏み込んだ(敢えて言うが)深遠なスピリチュアリティと80年代のサウンド・マナーで引き裂かれた、また、地上と地下を鬩ぐ「隙間(crevice)」の境地には、そういった相互確認を迂回するタフさがあり、その分だけ、"共通する言語の磁場での「第三者の個」"へ向けた希いのような何かが込められている気がする。

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 彼らは、一部メディアが言うようなアンダーグラウンド・シーンの中の先鋭などと括られてしまう分かり難いバンドでもないし、日本のバンドらしくない音をクールに鳴らしている、なんて標語よりも、もっとマスへと拓けてゆける反逆精神のポテンシャルを秘めていると個人的に思う。まだまだこれからも「新たに始まってゆく」バンドだろうし、更にフォーカスは絞られてゆく気もする。だからこそ、この作品内で例えば、「Effectual Truth」や「You're Blind」等の曲でときに見せる拓けたポップネスや全体を覆うまろやかな音響工作には初期からのファンは微妙な印象を持ったかもしれなくても、彼らが従来の闇を彷徨し続ける道を択ぶのではなく、マッシヴな形で闇の中を内破していこうという要素が強く視えるという文脈に沿えば、「個を越える」為の変革の企図が「これまでの自分たちを越えてゆこう」とする意欲に繋がったという点を何より評価すべきなのではないだろうか。

(松浦達)

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