今、アメリカでは渾沌を鳴らすしかないのか?

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americaa.jpg アメリカの国勢調査局の発表によると、09年のアメリカ国内の貧困層人口の割合は過去15年で最悪の14.3%となり、4,360万人となった。これは人口比でいうと、7人に1人という高い割合であり、オバマ政権下の歯止めがきくような気配はない。原因としては依然として高い失業率、教育や社会保障に関連した予算が大幅削減されていることも大きいが、年金や医療制度の崩壊も含めて明確な処方箋が打ち出せていないところに結局は収斂する。更には最近では、3,000万世帯はあるという銀行口座を持たない、或いは殆ど利用しない層に向けての大規模小売店が仕掛ける金融サービスが活況を呈しているという。(ワシントン・ポストUSAより)

 経済的与件でも切り詰まり、公的教育システムも万全に機能しているとは言えない。そんな「不平等性」はより個々の心理次元の中に落ちていき、満遍のない茫漠とした少しの無力感や悲観と交換されてきてもいる表面を滑っている。それを例えば、アレクシス・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』内の「境遇がすべて不平等である時には、どんな不平等も目障りではないが、すべてが斉一な中では最小の差異も衝撃的に見える。完璧に斉一になるにつれて、差異を見ることは耐え難くなる。平等への愛着が平等そのものとともに増大するのはだから当然である。」という言葉に沿うと、最新作でR.E.M.が踏み込んだ一歩の方がとても意義深かったのだとも思う。

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 では、現代のオバマ「以降」のアメリカがときに色濃く見せる沈鬱とした横顔を考えるときに、ルーツや伝統、自国の水脈を掘り下げて、もう一度「新しいアメリカ像」の焦点を結び合わせることこそが迫られているのも自明になってきてしまうが、その自明は"自明でない"形で特に、アーティスト・サイドには「共有」されてもくる。何故ならば、埋もれているルーツの破片を拾い上げて、アメリカという近代が生み出した国家制度によって保守された「自由の別名」に対して、向き合うための導線が必要になってくる気がするからだ。

 例えば、フリート・フォクシーズが新作『Helplessness Blues』で現代のアメリカに対して幻滅の姿勢を取るために、自分たちの中の内省や翳りに接触した結果、トラディショナル・フォーク、ブルーズ、フィル・スペクター的なコーラス・ワークなどをソフィスティケイティッドさせることで明らかに遠心性を持ってしまっていた。また、ブルックリン・シーンと呼ばれていたものの中でのパンダ・ベアの待望されていた『Tom Boy』やギャング・ギャング・ダンス『Eye Contact』の生真面目さや、また、LCDサウンドシステムの終わりとともにでもないが、ドロップされたタイヨンダイ抜きのバトルスの新しい音がどうにも焦点を結ばない様相を呈していたのとともに、今、「在ったはずのアメリカ」に対して、フランツ・カフカ的な"不全としてのアメリカ"の視座を持ち込んだサウンドが増えているのは、明らかにブッシュという仮想敵が居た中での不遇たる連帯の側面ではなく、ポスト・オバマのもたらした市場原理社会の進捗に伴う個の疎外が想像以上に希望的な上昇曲線を描かなかったことに幻滅ではなく、「当惑」したまま、音楽として何を鳴らすか、に向き合わざるを得ない状況になっている証左でもあるような気がする。

 だからなのか、〈ウッディスト〉周辺で"熱狂的に微睡む"(Siesta)方法を模索する流れや4年振りの新作『C'mon』でなだらかな音の波の中にルーツ的なアメリカン・ロックへの敬慕の念を込めたスローコア、サッドコアの第一人者のロウの佇まい、そして、ファースト・フルアルバム『Perch Patchwork』でサウンド・ヴァリエーションが豊潤になり、ヴァイオリンやフルートが絡みながらもパーカッションが強く打ち出され、リズム・パターンは多彩になるとともに、チェンバー・ポップ、モダン・サイケデリックな要素やトラディショナル・フォーク・マナーに沿った曲まで「跨ぐ」地力が備えたマップス・アンド・アトラスィス(Maps & Atlases)辺りに個人的に、軽やかさを感じたのもぼんやりと理由が浮かぶ。

 そして、既に、チルウェイヴ/グロファイの回収先も見えてきてさえいるUSインディ・ロックの先には、凛然としたアメリカーナ音楽が亡霊のように浮かび上がってきているのは、ディセンバリスツの「再認識」をして、そして、ハードコア精神の循環は、ビースティー・ボーイズの「若返り」辺りの動きを見ても、気付くところはあるかもしれない。未来に回帰するためには、過去に進まないといけないということなのだろうか。"メイク・サム・ノイズ"を掲げる際の「ノイズ」の中に今のアメリカの不全状態がぼんやりと揺蕩う幻影が見えるときがある。

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「私が言っているのは、これから先は芸術に形式などなくなるということではありません。新しい形式が生まれるだろう、そして、その形式は、混沌を認める、混沌を何か別のものにはすり替えないとはしないものになるだろう、ということです。」
(トム・ドライヴァーによるサミュエル・ベケットへのインタビュー、『コロンビア大学フォーラム』1961年夏号)

 このベケットの言葉に沿うならば、今のアメリカの音楽シーンにおけるゴドーとは何で、「何を待たないといけない」のか緩やかに持ち上がってくる。エルネスト・ルナンの言に沿うと、総ての個々が国としての多くを共有していて、それをお互いすっかり「忘れてしまっている」現況を更に忘れさせようとするのではなく、ふと思い出させるような何かが求められることになるだろうということで、例えば、ポップ・アイコンたるブリトニー・スピアーズがラスコと「共振」したり、ジェームズ・ブレイクがピッチフォーク以外でも着実に持て囃されるような、緩やかな(ダブ)ステップを踏みながら、近付いている距離感をして、はかることは出来る。そういう意味では、今はアメリカは「欠けている」ことに対して「欠けている」。トクヴィル的に言えば、アメリカとして束ねられていた「統治性」としてのシステムがベネフィット優先ではなく、リスクの優先されたヘッジに向いている中で、だからこそ、ヘッジ優先された音楽は「老成」せざるを得ないというわけだ。その文脈に沿うと、ザ・ナショナルやブライト・アイズなどのストイシズムも分かる気がするし、アーケイド・ファイアの目指した郊外にはグローバリゼーション≒アメリカ化ではないという意地も見えたのも繋がってくる。

 愈よ、アメリカにおいて、スタンダールが『赤と黒』の巻末に捧げた"To the happy few"の「few」が試されるフェイズに入ってきたと言えるのかもしれない。果たして、現代アメリカで弾かれてしまう人たち(few)に届けられるような毅然とした耀きがある、何かが新しく始まる予感の音楽は生まれてゆくのか、その答えを「待つ」のではなく、「追いかけたい」。先には、今年のある種の象徴にもなるだろうフル・アルバムを控えたウォッシュド・アウトのバンド名の意味そのもののような形にならないことを希う。

(松浦達)

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