『ブルーバレンタイン』映画(クロックワークス)

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b-valentine.jpg サンダンス映画祭やカンヌ国際映画祭など世界各地の映画祭で注目された今作。壊れかけた夫婦には、『ラースと、その彼女』のライアン・ゴズリング、『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズ。10年以上も脚本を練り上げたデレク・シアンフランス監督による、愛が終わる痛みを巧みな演出で紡いだ切ないストーリー。

<ストーリー:結婚7年目を迎え、娘と共に3人で暮らすディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫妻。努力の末に資格を取って忙しく働く妻シンディに対し、夫ディーンの仕事は順調ではない。お互い相手に不満を募らせながらも、平穏な家庭生活を何とか守ろうとする2人だったが、かつては夢中で愛し合った時期があった...。>

 ディーンとシンディとフランキーの家族。庭で飼っていた犬がいなくなる所から物語は始まる。娘のフランキーが犬の名前を呼んで探している。やがて父のディーンを起こし探すがいない。二人は仕事明けで寝ていたシンディを起こし朝食を作ってもらい食べ出す。この娘のフランキーがすごく可愛い。父の陽気さを受け継いでいるように明るい女の子だ。

 やがて犬が道路沿いで死んでいるのをシンディが発見し、ディーンに伝えるが二人は娘には伝えずにで父は「あいつはハンサムだったからハリウッドに映画犬になりに旅立ったんだよ」と伝えるが娘には死んだ事を知らせずに庭に埋葬する。飼い犬を失った哀しみを晴らすために隣町のラブホに行って酒を飲みまくって久しぶりに二人きりになろうと提案するディーン。朝から仕事がある彼女はそれを嫌がった。途中に立ち寄ったスーパーでシンディは大学時代の恋人のボビーとすれ違い、軽く話す。その事を車で夫に話すと彼は不機嫌になってしまう。

 ラブホに着いて食事をしながら会話をしているとやはり口論になってしまう。苦学末に資格を取って働いているシンディには向上欲もなく家族と過ごすのが一番だと思っているペンキ塗りをして満足なディーンが不満だった。シンディは音楽やいろんな才能があった彼に「自分を高めるような仕事をしてほしい」とディーンに言う。ディーンは「父親として、夫としてこれ以上何を求めるんだ」と。彼女へのある種の劣等感で酒を止めれない彼。喧嘩の末にディーンはシンディを求めるが彼女はバスルームにこもってしまう。

 それから二人がどうやって出会ったのか何があったのかが物語られる。現在に続く始まりの時。互いが互いに恋をした時代。ディーンが一目惚れしたシンディに、シンディは彼の飄々さに惹かれた。そして彼らは家族になった。

 過去の描写はフィルムで撮った少し荒々しい映像で現在との対比もありつつも現在は24時間の事だけど過去は数ヶ月を描いている。過去と現在。ラブホで起きたディーンはいなくなったシンディを追いかけて彼女の職場に出向くのだが...。

 冒頭の犬がいなくなるシーンではディーンがシンディに犬小屋の周りの柵になんで鍵をしなかったんだと怒る所がある。映画を観ていて物語が彼と彼女の終わり、月日を重ねて堆積した崩壊への感情や想いを観ていたらなぜ犬が出て行ったのかわかる気がした。彼らの家の庭にいた犬は彼らの愛情のメタファーだったように感じる。犬は逃げ出して道路で死んでしまった。彼らの間には互いへの想いや愛情はあるけども互いに求めるものが違ってしまった。しかもそれはもう話し合っても修正できないものになっていた。だから犬は死んだのだ。家から飛び出して死んでしまった。

 出会い互いに惹かれ合い恋をすることはある、しかし恋をするだけで誰も愛には辿り着けない。なぜなら愛など存在しないからだ。子供ができて家族になったからといって愛だと盲信する。本当の愛を探すものはいつも...という野島伸司脚本『世紀末の詩』の百瀬教授の台詞が浮かんだ。

 この作品は『(500)日のサマー』の思春期のちょいとした別れみたいなほろ苦さみたいなものよりも確実に痛くどうしようもない月日の堆積からの別れを現在と過去を描いているだけに哀しい。両方共に現在と過去を描いている。『(500)日のサマー』は古谷実『シガテラ』に近い気もする。最後でそういう思春期の思い込みなんて時が過ぎればただの思い出になって過ぎて行くんだという皮肉すらある。ほのかに甘く痛い思い出。当時は辛くても時間のみが癒してくれる、あるいは別の誰かが現れたらそれも薄れるという哀しい人間の性。

 主演のライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズは現在32歳ぐらいだが若き頃と現在を演じるために体重を増やしたりとかなり現在と過去で時間が経ったのがわかるほど変わっている。この作品においてミシェル・ウィリアムズがセックスシーンをきちんと演じている部分がこの作品の哀しみが増す要因だと思う。あれがあるからこそ切なさが増しより心に届いてしまう。こういう作品においてきちんと俳優がセックスシーンで絡む部分があると彼らの気持ちが伝わりやすくなると思う。なんかベッドで二人が寝ててやりましたよ的なしょうもない描写は観てる方はさめざめする。

 映画の最後のシーンは独立記念日の日で街中でも花火をあげていてそれがエンディングの映像と重なる。流れるグリズリー・ベアの音楽とエンディングの花火の明かりに照らし出されるかつてのディーンとシンディの美しさが時の残酷さのようだった。

 確かに彼らの思い出は花火のように輝いていた。だからこそその瞬間の瞬きに二人はかつて酔い未来を夢見た。だけど互いに過ごした時間の中で変わってしまったものと変わらないものが交わらなく決定的に二人の中にあった何かを感情をもはや紡ぐ事はできなくなった。

 一人で観に行くのもいい。でも恋人同士や夫婦で観に行ってもいいだろう。彼らはなぜ別れて行ってしまったのかを観たカップルで話し合う事は無駄ではないはずだ。

(碇本学)

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