ザ・バースデイ「なぜか今日は」CDS(Universal Sigma)

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birthday.jpg 80年代、音楽評論家の渋谷陽一氏がバンド・エンドの批判論を展開していたが、それは要約すると、「綺麗事」で完結してしまう中で本当にその善意とメッセージは検討されているのか、ただ、盲目的に信じようとしてしまっていないか、不幸の肯定への懐疑、道徳的な言葉の発信元とはどうなのか、根本的な「解決策」には繋がらないのではないか、という瞬間の絶対性に対してもっと相対的な論理に出発点を置き、共約出来る正義などない場所から表現は始めるべきではないか、というものではあったが、果たしてどうなのだろう。

 今、メタ的にポーズを取ることは容易である分だけ、情緒に流されてしまえる鈍化の状態に「是非」を置くことは禁忌とされている状況でのPRAYやHELPの本質はもう少し違うところにある気がするのは、今は80年代の余裕よりもテンション(緊張)が要求される時代背景に依拠する。

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 僕は、この2011年3月から4月に行き交った数多の善意と優しさに持ち上げられたりもしたが、その行方を辿れない内にオブセッシヴな形でそれらが切り詰まってゆく状況の閉塞も感じた。「連帯」の下に、手と手を繋ぎ合う気分で終わってしまわないのか、頻発するキャッチーな惹句や警句が舞う。しかし、例えば、マルセル・モースは、ドイツ語の「ギフト」には、贈与したものと毒の二義性があることを示したが、贈物をもらうこと、何らかの善意の中に招かれることそのものが、致命的な「毒がまわる」ということの関係因子はもう少し考える為の意味があるかもしれないならば、THE BIRTHDAYの新しいシングル「なぜか今日は」の示すヴィジョンには"明るい暗闇"があって、今ここの瞬間で聴く手をリフト・アップする力があり、頼もしく映る。
 
《なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする でも 裏側には何かがある気がする でも》
(「なぜか今日は」、以下同)

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 バズコックス、アディクツ、ドクター・フィールグッド、ダムド、更にはザ・クラッシュなど、パブ・ロック、パンク・ロック、ガレージ・ロックの影響を受けて、ジ・ミッシェル・ガン・エレファント(以下、TMGE)がタイトなスーツ姿で「ビートニクス」をなぞる初期の格好良さはまるで、「路上(On The Road)」で「裸のランチ(The Naked Lunch)」を食べているような格好良さがあり、銀行強盗風のマスクを被った男がスーパーに立つジャケットが印象的な96年の『High Time』辺りのタイプライターマシーンをハンマーで叩き割って、そこから文字を拾い上げるようなバンドとしてのアティチュードに心底、痺れた。90年代後半のいささかハイなムードの中で、決してオンではなかった直球でスタイリッシュな8ビートはセンスが先行していたきらいもあるが、「世界の終わり」というこれ以上無い程の明確な表現を引っ提げて、シーンに登場してきて、「ロックンロール」という言葉通り、複雑で込み入った時代の中をどこまでも粋に、加え、スマートな知性とエネルギッシュなスタイルでロールしてきて、一ファンとしては、その姿はいつも頼もしくもあり、「日本の」ロック自体がつまらなく思える時など、その存在性はシーンを見渡す時の良い指針になっていた。もっと言うならば、とかく浮つきそうになるロック・シーンにおける一つの重石のような役割としても彼らを観ていたりもした。

 ちなみに、個人的に彼らのライヴには幾度となく行ったが、やはり強烈だったのは「意味」ではなく、「乾いたリリシズム」を備えて野放図に宛先不明の手紙を郵便箱に投函していた時期であり、「起きてくれ、ルーシー」という掛け声には多分、片道切符を切るべきロックンロールの清清しさがあった気が今でもしている。だから、『ギア・ブルーズ』を境目に、より真摯に、鋭角的に「意味」に深く潜り込んでいき、最終的には「太陽」を「つかんでしまった」とドアーズのような境地にいったのは巷間(マス)の要請か、彼ら自身の誠実さ故なのか、分からなかったが、誰かをサルベージするものがロックという大文字ではなく、ロール、スウィングさせる"効き"にこそ、美しい非・予定調和があると思うような自分からすると、その次作『カサノバ・スネイク』からのシリアスな流れにしんどさもおぼえてしまったのとともに、ラスト・ライヴでの「過剰なサービス精神」に少し寂寥も感じもしてしまったのも事実で、「トゥッティ・フルッティ」と口笛を吹かせてくれるような音の行間が欲しかった。その後、アドルノ的なニュアンスでいえば、ポピュラー音楽は様々な手札を用いて聴衆に生じる複雑な思考を阻害し、聴取方法までも「規格化」することで聴衆の自律的思考を阻害するとして、このような聴取の「退行」の下、聴衆の自立性の喪失と狭まったコミュニティへの追加の帰属意識を固めてゆく意味で、その「確認」のために、TMGEというスティグマ(聖痕)に悩まされていた一人としては、まだ的確な言葉で彼らを対象化することが出来ないでもいる。

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 TMGEは03年に解散する。

 ROSSOやRAVEN、THE MIDWEST VIKINGSやMIDNIGHT BANKROBBERS、他バンドへの参加、スカパラへの客演などを経ながら、まるで意味から解き放たれたバンドを求める為に、ボーカル/ギターのチバユウスケはTMGEのドラマーであるクハラカズユキ、元フリクションでROSSOのメンバーとしても参加していたギターのイマイアキノブ、元てるる...のベースのヒライハルキの四人で06年にTHE BIRTHDAYというバンド形式を取り、それがメイン活動になる。THE BIRTHDAYでは、技巧主義に走るよりも「直感的なイメージ」が優先され、ローリング・ストーンズの転がり方のように、なだらかに続いてゆく道を歩む途程で、自然とキャッチーな「アリシア」、「カレンダーガール」、「涙がこぼれそう」、「愛でぬりつぶせ」という佳曲も生まれていった。

 しかし、僕は彼らの無邪気なロックンロールにそこまでアディクト出来ないでいたのは「正し過ぎる」という点に収斂するかもしれない。ブライアン・イーノが『A YEAR』で書いていたように、かつて「美学」には正しい一つの流れがあって、様々な作品はそれとの距離関係を持っているかの、測定作業でもあり、ときにその正しさの再規定の作業でもあった訳だが、今や日本でロックンロールをするにはシーンの"gravity"から無縁であるか、過去のレリックに敬礼をするか、の二項に引き裂かれているきらいもある中、双方への目配せもある彼らの音は「手術台の上で蝙蝠傘とミシンが出会う」予感ではなく、「愛でぬりつぶせ」と歌ってしまう大きさに自分の中の小文字が錯綜してしまうときがあり、"ザ・ブルーハーツ以降の甲本ヒロトの真面目さ"と同位相で、チバユウスケという人がロックへのパースペクティヴが殉教に近いものになっていった感じさえ受けた。ゆえに、THE BIRTHDAYの周辺に行き交う批評や賛辞、揶揄も含めて、総てが気分としての「ロック」という大文字の概念内で行なわれる密室内での共犯にしか思えないことが増えて、そこで僕は何を想えばいいのか、は分からないまま、新作は出たら聴く、でも、殆どライヴに足を運ぶことは減っていった。フィリップ・K・ディックの作品にあるような、「アウトサイダーの優越性」に対してもっとも敏感であった筈のチバユウスケが静かに優しくなってゆく軌跡を観るのは少し切なく、ましてや、TMGE時代の盟友のアベフトシを2009年に亡くし、ますます背負ってゆくものが増えてきたと思えてきた折、この「なぜか今日は」は、会心の作になった気がする。

 2010年9月にイマイアキノブが抜け、存続が危ぶまれたが、新メンバーとしてこれまでTHE BARRETT、MY LITTLE LOVER等数々のバンドで名を馳せてきたギターリストのフジイケンジが加入したのもあり、一気に次のヴィジョンに踏み込んだ手応えと軽快さを感じるシングルになった。バリエーション豊かな3曲が収められている中でも、ギター・リフが牽引する抜けたロック・チューンになった鮮烈な表題曲は特に素晴らしい。「Stupid」辺りの速度感のあるフレーズの羅列と、疾走感、程好い軽さ。その「軽さ」は、ときにTHE BIRTHDAYというバンドに付き纏う周囲のディレンマもあったが、この拓け方と並行して、オルタナティヴなザラッとした質感と緊張感のある詩的な言葉が乱射される様は「綺麗な歪んだ温度」を感じる。

「今日(今、ではなく)」を歌うことが難しい時代になったとは思う。

 希望的なのか絶望的なのか「何か」が待っている明日へ向けての投げ掛けを行なうか、それぞれに「何か」が残っている昨日へのノスタルジーをストロークの広い表現で囲い込めば、リプレゼントできる糊しろは想像の域を越えてくるかもしれないが、《なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする だけど裏側には何かがある気がする でも なんか今日は でも きっと今日は でも なんか今日は でも きっと今日は》の「でも」と「きっと」の狭間に仄かな光が視えるのも確かであり、「デッドエンド」を認識することから始まり、その「デッドエンド」を解明しようと懸命にロックンロールしてきたチバユウスケがこういう<場所>に辿り着き、また新たなメンバーとともに音楽活動をロールさせてゆくという行為性の中にはおそらく、想像し得ないチア/ジャッジが混じってくるのだろう。そうだとしても、ここには「ロック」と区切ってユースの自意識をコロニアル化するような商法で罷り通っている界隈の安心を対象化して捉え直し、はたまた、そこで囲まれざるを得なかった精神的逼迫のコンテクストと一線を引く強かさがある。

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 THE BIRTHDAYは綴る。
 
《シンデレラに羽が生えて 飛び立ってった クツは忘れっぱなし でも 幸せだって》

 そういう幸せの形が"今日"ならば、響く気がしている。私的なセンチメントやリリシズム、そして、綺麗事を越えて、ここにはささやかなもっと大きな何かに繋がる"HELPへのPRAY"がある。

(松浦達)

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