ギャング・ギャング・ダンス『アイ・コンタクト』(4AD / P-Vine)

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ggd.jpg メキシコの詩人オクタヴィオ・パスに『クロード・レヴィ=ストロース』という本があり、この中で「レヴィ=ストロースを人類学の新しい流れのなかに位置づけようとは思わない」と述べ、その文章にはベルグソンとプルーストとブルトンという異質な3人が棲んでいると指摘をしたとともに、『悲しき熱帯』については、彼の意識とは「同一性」ではなく「類縁性」に向いているということを仄めかす。同一と反復の中で繰り返され、再定義され続ける「芸術」と呼ばれる分野にもそれは介入する。ギャング・ギャング・ダンスは、その名前とは比して、同一性と反復の構造を越えて、答えが出ない「問い」を求めようとする。そこでの「問い」はだからこそ、何かへの連帯を求めるのと同時に、何かから離れてゆく。

 アニマル・コレクティヴ、バトルス、TV・オン・ザ・レディオ辺りの活躍もあり、盛り上がりをみせるニューヨークのシーンの地下水脈沿いに、様々なアイデア、センス、異国情緒をトライバルなダンスとポップネスをフリーキーに折衷させた08年の『Saint Dymphna』は当時、多くの人たちに喝采をもって受け入れられた。何よりもマルチカルチャリスティックで、"ムードとしての"エキゾチズムではなく、ボードレールやヴィクトル・ユーゴの詩群の断片的に宿るロマンティックな馨りと内側から迸るような「静かな混沌」と呼べるものが美しく発火していたのが良かったのかもしれない。クラクソンズやホット・チップなどのアーティストからも称賛を受け、00年代後半のユーフォリアさえ帯びていたニューヨークのブルックリンを中心としたインディ・シーンの重要な存在の一つへとギャング・ギャング・ダンスを引っ張り上げたのは記憶に新しい。

 思えば、前身バンドとなるDEATH & DYINGを経て、01年に結成された彼らは、アニマル・コレクティヴ、ブラック・ダイスと共にブルックリンの雄と称されながらも、比して、ライヴ・パフォーマンスの確かさなども周囲に認められていったものの、如何せんポピュラリティを得るというよりは、独自のコア・ファンによって愛されていき、その輪が拡がってゆくという表現をすればいいのか、ブルックリン・シーンの中でも一際、「異端」の場所に居続けていた気さえするが、前作でのブレイクを踏まえて、この三年間の中で、より洗練を極め、「成熟」した。その結果、アヴァンギャルドとポップネスのバランス感覚の鬩ぎでは、より後者側に傾ぎ、叮嚀なサイケデリアが持ち上がってくるスマートなポップ・レコードを上梓することになったという流れは面白い。

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 今回、4ADとアルバムの契約を交わし、初めてとなるこの新作『Eye Contact』では、ポップ・シーンへの浮上を感じさせる求心性に溢れている。例により、紅一点のリジー・ボウガツァスのボーカルもシャーマニックな響きを含みながらも、縦横無尽に駆け巡り、生演奏のインプロヴィゼーションとエレクトロニクスの混ざり方も非常にクールだ。従来どおりのエキゾチズムも含まれながらも、「攪拌」されたまま、聴き手に預けられる。過去作に溢れていたサウンド・コラージュの妙やフリーキーさは少し後退した分だけ、既存のファンには物足りなく思ってしまう部分も多いかもしれないが、つまり、これは「地下」の音楽としての強度を保持し続け、アンダーグラウンド内の秘たる祝祭的なつながりに身を寄せるのではなく、ニューヨークという混線した都市の真ん中に向けて目を開けて("Eye Contact")、ダイレクトに音の波を掴もうとした意味が大きい印象を受ける。彼らが目指そうとした場所がよりポップなフィールドであり、インタビューで「Adult Goth」という曲はシャーデーに影響を受けた、とリジーが述べていたりするように、巷間のイメージ以上に彼らの音楽は明瞭な拓き方をしていることが分かる。

 11分を越えるスペーシーなシンセが特徴的なトリッピーで壮大な冒頭曲「Glass Jar」から、途程にインタルード的なものも含まれるからか、存外、コンパクトな内容になっているが、それでも、エチオピアン・グルーヴ、インド音階などを巧みに嚥下し、同一と反復を抜けて、何かから離れるための「問い」を出そうとする様は感動的だ。

 その「問い」の中にはグローバリゼーションが世界のあらゆるローカル、民族音楽を「液状化」させた現象に対しての、決然たる<非>たる意志が込められているような気もする。今作によって、ギャング・ギャング・ダンスは、これまで以上に多くの人たちを踊らせることになるだろう。ブルックリン・シーンの充実の一端を感じさせる力作だと思う。

(松浦達)

 

*日本盤は5月25日リリース予定です。【編集部追記】 

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