"20年目"の『スクリーマデリカ』を巡って

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SCREAMADELICA.jpg よりクリアーに世の中を見渡すために、理論武装のカードとして所謂、"ヘッド博士の世界塔"からハウスへの文脈を敷くことがクールな時代があった。日本におけるバブルという、在った筈の時代(僕自身が物心付いたときには、既に残骸しか残っていなかったので、後追いでの動きしか分からない)では、より自意識を<外部>に置けるかどうかに意味が持ち上がってくるような磁場があり、そこには引用と解釈のタグ付けで膨れ上がった思想書を持っておくことで、何らかの護符として役割があった。というのは"逃げ切れなかったであろう"大文字のポストモダニストたちの回顧録だとしても、インディ・ロックがどうにも追い詰められていた瀬において、マイノリティとしての結束が赦された場所はハウス・カルチャーの<内部>にあったのは間違いないとも言える。

 ナイトクラヴィングやフロアーに対して距離がある人や非フロアーの人たちでさえ、90年から91年にかけてリリースされた四枚の12インチ・シングル、「Loaded」の昂揚、「Come Together」の肯定性、「Higher Than The Sun」のサイケデリックな陶酔、「Don't Fight It,Feel It」でのソウルフルな熱量には動かされたものはあったことだろうし、そして、これらの作品にアンドリュー・ウェザーオール、ジ・オーヴ、元PILのジャー・ウォブル、808ステイトのグラハム・マッセイたちが参加していたように、プライマル・スクリームというバンドがネクスト・フェイズに入っていた気配に躍動をおぼえた人も多かっただろう。スコティッシュ・ポップ、アノラックの温度を濃厚に感じさせた瑞瑞しいファースト・アルバム『Sonic Flower Groove』、一転してのガレージ・ロック方面に振れたセカンド『Primal Scream』での軌跡からの軽やかな脱却と、セカンド・サマー・オブ・ラヴ的な全方位性を持ったラヴ・アンド・ピースへの傾倒。その先には、実際のクラブがあったとしても、または、ベッドルームがあったとしても、ロック/ダンスが折衷されたユーフォリアをリプレゼントしたものが91年の『Scremadelica』という怪作だった―。

 というレジュメを敷くにはあまりに拙速過ぎるかもしれない。ストーン・ローゼズ、インスパイラル・カーペッツ、ハッピー・マンデーズらの築きあげた「愛の夏」とはまた違った形の距離と熱を持っていたからこそ、今でも『Screamdelica』の周縁には数えきれないほどのアーバン・ブルーズもロック・スピリットも散らばったままだからだ。

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 例えば、アシッド・ハウスが西欧のドラッグ・カルチャーと密接に結びつきながらも、(暗黙裡に)そういったカルチャーが根付いていない日本で今でも熱烈に愛される『Scremadelica』とは果たして何なのか、と考えると、そう簡単なものではない気がする。

 思い返すに、スーパーカーがシューゲイズから抜けて、大胆な打ち込みを取り入れ、バレアリックな融和点を見出した『Futurama』から「Strobolights」辺りの煌めきや、いまだにクラブでパワースピンされるくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」といった、"何処へでも行ける"という感覚が要請した00年代前後の景色が示唆するものは、タイム・ラグの問題だけではなく、基本、シーンと呼ばれるカテゴライズが無縁化し易い島国のカルチャーの時差と換言出来るかもしれないからだ。"文化が遅れてやってくる(根付く訳ではなく)"、それはもしかしたら包摂と排除の論理からすると、シビアなラヴ・アンド・ピースへの審美眼(とシニシズム)を持っているからこそ、との着地点を探し出せる可能性があったとしても、現在進行形で局地化を余儀なくされた「大きな物語」の中で再生される幾つもの挿話にいまだに胸躍らされているトライヴを居る訳で、そうなると、00年代以降で決定的な「共通言語」としてのロック・ポップが無くなったと憂う「結論を急ぎ過ぎる人たち」(多くは年を取るのを急ぎ過ぎた層に限定される傾向がある)の嘆息と仄かな距離感とも繋がってくる。

"それ"は、個人的には「在った」と思っていたものが「在ったように見せかけられていた」だけだったのだというフィクション感覚に依拠してもくるのが厄介でもあるが、何かがあるように語るとき、その背景には何もないかもしれない、という疑念が同居していないといけないとしたら、今、10年代に入ってロック/ダンスについて正面から語るとき、どのような意味があるのか、または、どこまで斜めからの視野に入れるべきか、悩んでしまう。同時に、ロックへのピュリズムや教条主義がときに同調圧力として働いてしまう動態を引き離すためにダンスという装置性が求められたという事柄も考慮に入れなければならない。この場合、ロック/ダンスは「引き裂かれる」ものではなく、アンビバレントなものであるというのが大事な点になってくる。容易にクリアランスは出来ないこういった難題への一つの処方箋として、今、『Scremadelica』について考えてみる時間は無意味ではないと思う。

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 しかし、僕はリアルタイムで接したものではなかったのもあるが、この作品に対してアップリフティングされたというよりも「なにもないから、ある」という表面から滲み出るプライマル・スクリームというバンドの身軽さとヘナヘナな意志に胸打たれたもので、どう捉えるべきなのか、いまだに分からない部分がある。理論武装して語るハウスや論的な整理をするインディ・ロックでもない場所に佇む、"シングルを集めたコンピレーション集"という体裁を持っていたからこそ、今まで語り尽くされることが無かった作品だからこそ視えないのか、色々と考える。

 勿論、アンダーワールド、ダフト・パンク等の名は挙げるまでもないにしても、ロック/ダンスのフィールドからも、例えば、フランツ・フェルディナンド、ザ・ラプチャー、フレンドリー・ファイアーズ辺りが出てくると直ぐに参照点として挙げられざるを得ないメルクマールであるのだが、今、世界各地で行なわれている再現ライヴの映像を観る分には、もっと理論の枠組やロック/ダンスへの直接的な影響から逸れてゆく何かがある。ノスタルジーでもなく、プログレッシヴでもない、しかし、ゴスペル・コーラス、ブラス・セクションがステージの上で混じって豪奢に『Scremadelica』というメタベタな作品がダイレクトに適度に加齢化して、老若男女入り混じったクラウドの前に提示される光景は感動的としか言いようがなくて、僕がプライマル・スクリームという組織体に持っていたフラットな意識さえも超えてくる。それを感応するために「20年」という歳月があった、と言えるならば、あらゆるものが柔らかく「年をいった」ということなのかもしれないし、"愛の夏"へ近い何らかのフレーズが遅延され続けていた感覚に漸く自分の中の季節が追い付いたとも継ぎ足せる余地もある。

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 今の季節において、アシッド・ハウスが必要かどうか、など勘繰ることは野暮だろう。

 但し、急激な勢いでリヴァイヴァルなのか再発見なのか分からない形で、ディスコやハウスが発掘される引力を「引き剥がす」表層をサーフしてゆく91年の空気を刻み込んだこのリアリティは音楽が元来備えていた筈の「愛に近いムード」を埋める何かを持っていた作品でもあるから不思議にも感じる。そう考えてゆくと、遅れていたのは、(自分を含めた)フロアーや現場に溢れる愛に近い何かや憎悪やアルコールやセックスや倦怠をかき混ぜたその「向こう側」に昨日とは地続きではない違う朝が迎えられると思っていた人たちだったのかもしれない。

 全体性には収斂しなくても、一部として全体性に繋がることが出来るという導線を敷いて、対峙してみる『Screamadelica』は、峻厳な文化状況にある日本のみならず、緩やかに終わりの終わりに向かうグローバリゼーションの急進化の波で、個々の享楽性さえもコロニアル化されてゆく"抑圧"をかわす光がある。だからこそ、アシッド・ハウスに影響を受けた形でも全面的にダンスの持つ全能感のみに触れておらず、セカンド・ライン風のリズムが目立つ「Movin' On Up」にしろ、切ない南部ロック風のバラッド「Damaged」が入ってくることの意味も大きい。天上へと昇る(Higher Than The Sun)ためにはいつ何時、地へ落ちるかもしれない、という憂慮も必然と同居することになる。ここには、まだ日常に連結される形でのパレードの続きはあるということなのだ。

 やはり、『Screamdelica』はまだ誰のものでもなかったのかもしれない(そして、誰のものでもあったのかもしれない)。ゆえに、混沌たる今の時代下で"20年目の『Screamadelica』"は「あなた」が決して戦わず、感じること(Don't Fight It,Feel It)の意味の再定義を静かに求めてくる。今夏は愈よ日本でもサマーソニックでパフォーマンスを観ることができる。

(松浦達)

*プライマル・スクリーム『スクリーマデリカ(20周年アニヴァーサリー・エディション)』通常盤およびDVD付豪華仕様の完全限定生産盤の二種類が発売中。また、COOKIE SCENE MOOK第2弾でもSide AAにて表紙及び特集記事を掲載しています。【編集部追記】 

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