ビビオ『マインド・ボケ』(Warp / Beat) 

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bibio.jpg 高度市場原理主義が「大きな子供たち」の遊び場を用意したとしたら、それはウォルト・ディズニーやハリウッド的なメガロマニアな仕掛けが組み入れられた余地ではなく、集合的な自意識の肥大化の果てのグーグル化した何かだったのかもしれない。そこでは、おそらく、ベートーヴェンやモーツァルトの近代的な美しさよりもシューベルトのピアノ・ソナタのようなくだくだしくも、少し曖昧な自由が似合う。「曖昧な自由」とは、ラカンディアンが夢想する「身体的統一性」が確保出来ていない状況との近似・連鎖さえも包含してくる可能性がある。そこで、「大人の大人」は子供の振りをして躍ってみせるのか、「子供の大人」は頭を抱えてみせるのかの二分軸に分かれるとしたならば、その転倒をはかるのが「ダンス」の意味と言える可能性はある。

 ダンス自体が自由を赦す訳ではなく、自由側がダンスを受け入れるとしたならば、BIBIOことスティーヴン・ウィルキンソンが09年の前作『Ambivalence Avenue』におけるフォークトロニカとドープなヒップホップ・ビート、ソウル・ミュージックのガジェット的な意匠を纏ったエクレクティズムからより進んで、一気に多様性を増した今回の『Mind Bokeh』で想定するのは、大きな子供たちの遊び場としてのダンスフロアーなのかもしれないところが興味深い。そして、この音にはヘドニズムや安易なエスケーピズムの要素よりも、もっとノスタルジアの中で音が過去から今に向かって鳴っている気さえする。

 紡がれる不規則と変性を是とするビートと多彩な電子音、そして、カット・インしてくる加工された人間の声を含めた全体が醸す甘美な違和。ワープ直系のセンチメントもフレンチ・エレクトロにも繋がるようなスノビズムもブラジル音楽のリズムを咀嚼したムードに帯びる楽天的な明るさもIDMシーンへの批評眼も、横断するような凛然とした意志に貫かれており、「大きな子供の一人」として自意識の箱庭の音楽として、多くの人を巻き込もうとするしたたかな優しさがこの作品には過去以上に溢れている。"ぼかし"という日本の概念を反映させたとの彼の言葉の通り、サウンド・レイヤーの重なりがより優美になっており、生音の加わり方も淡く、独特の色気も漂う。その色気は、チルウェイヴを牽引するトロ・イ・モワの新作とも繋がるところを感じる。また、70年代のサウンド・メイキング、つまりクリアーでソリッドな透き通った音響工作と、スクリッティ・ポリッティが持っていたようなリズムのバネを援用し、ロマンティックな温度を保ち続けることに成功しているのも特筆すべき点だろう。

 主な曲に触れると、3曲目の「Anything New」ではアヴァランチーズが今、新しい音を出すならこういったものになるかもしれないという嬉しい予感がこもったスムースな雰囲気があり、6曲目の「Take Off Your Shirt」はフランスのジャマイカの曲と言っても不思議ではないだろうギターが響くラウドなものになっていたり、12曲目の「Saint Christopher」にはフォーテット『There Is Love In You』以降のオーガニックなIDMの系譜を更新してゆくようなソフトで幽玄な美しさがある。

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 ここには、「今」に絞られた音が提示されている。タイトルの『Mind Bokeh』というコンセプトも過去に頼らず、未来を予想しない、「永遠なる今」への対峙状態であると言うからして、その周縁の意味をハイデガーのいう存在論的差異を援用してより深く掘り下げて考えてみることは出来るだろうか。「あるもの」(存在者)は、「あること」(存在)によってその存在を可能することができる。「あること」がないのであれば、「あるもの」もあるものであることを、止めざるを得なくなる。だとすると、「あること」と「あるもの」、この両者の差異とはどうなるのか。加え、「あること」と「あるもの」の差異を見ている人間そのものへの視座も要ることになる。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在であり、ハイデガーはこれを「現存在」と呼んだ。

 今回のスティーヴン・ウィルキンソンは「現存在」として、「あること」、「あるもの」の差異をブレイン・ストーミングのように音でリプレゼント(/強調)しようとしており、曖昧な自由の中で、攪拌された結果、この作品は「今」の枠を外れ、過去から今に響くノスタルジアを醸すと同時に、"今という過去に進んだ"感触を残すことになったというのは、面白い。

(松浦達)

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