RADWIMPS『絶体絶命』(EMI)

radwimps.jpg「偶景(アンシダン)――偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ...表記のゼロ度、ミニ=テクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの。」(ロラン・バルト)

 君と僕を内包する狭い世界内から内破するように、抽象的でサブライムな「神」という概念に近付こうとした臨界点にして転機となったのが08年の「オーダーメイド」という曲だったのかもしれない。そこでは人間がアダムとイヴに二分化してしまった過程まで遡り、叮嚀な筆致で君と僕は別々だからこそ、繋がり合えるという絆(とその儚さ)を描写したが、そこから、ジョン・ミルトンの『失楽園』での喪失の為の路を探すための過程と『アルトコロニーの定理』という作品の持つ通気孔のなさはリンクしてくるような気もしてこないだろうか。"RADWIMPS"というそれまでのアルバム・タイトルから外れて、"定理"へ向かったときに彼らが手に入れた場所とは何だったのか、よく掴めなかった。つまり、《このなんとでも言える世界なのに この何とも言えない想いはなに このなんとでも言える世界がいやだ こんなに歌唄えちゃう世界がいやだ》(「37458」)で、最後を締めてしまえる感性に彼らの来し方としての、それまで/これからの断絶を感じさえしたからだ。

《おれとお前50になっても同じベッドで寝るの》(「ふたりごと」)と、セカイさえもぶっちぎる「君」への求心と絶対性に心身を委ねつつ、ふと(笑)と皮肉を潜ませる巧みさが彼らのチャーム・ポイントでもあった筈なのに、気が付けば、野田洋次郎を軸としたRADWIMPSというバンドは、非常に生真面目でストイックなバンドになっていった。その後、野田氏は雑誌の企画でインドに行き、死生観をより感じてきたようで、それはどういった形で作品に影響を与えるのか、個人的に興味深かった。

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 2010年6月には、「マニフェスト」と「携帯電話」という二枚のシングルをリリースして、これは肩慣らしのような雰囲気もあったから、どちらかというと、自分たちの手による自分たちの曲のパスティーシュであった要素が強かった。そして、新しいアルバムに向けてギアが入ったのが今年に入ってからの「Dada」であり、「狭心症」だった。前者は「おしゃかしゃま」路線のミクスチャー・ロック、言葉数の多さが巧みにドライヴしながら、駄々を捏ねるように、言葉遊びをするかのように、地団太を踏み何処にも行けない堂々巡りを表す曲であり、後者は過度にヘビーな情感と人類、世界、僕といった大きい言葉が並びながら、自分を攻め立てるような悲痛なムードを帯びていた。《見ちゃいけないなら僕がいけないなら 針と糸すぐほら持ってきてよ 塞いでしまうから 縫ってしまうから 最後にまとめて全部見してよ》(「狭心症」)と切り詰まる。

 自意識の中で膨れ上がったオブセッションが死生観に依拠するものだったのか、それとも、野田氏自身が持つ"人間の失敗作としての自分"という基点に戻って、もう一度表現をしないといけない必然性があったのか、この『絶体絶命』という作品全体が持っている座りの悪さからは見えてこない。また、これまで以上の多くの負性が垣間見えながら、希望や君が唄われる為か、茫漠とした印象をおぼえてしまうところもある。「透明人間18号」、「君と羊と青」、「DUGOUT」のような従来型のギターロックも清々しく響いているし、「π」でのピアノ・ロックでの弾むリズムも新鮮だ。叙情的な側面が強調された「だいだらぼっち」、「ものもらい」も澄んだ空気感がある。「G行為」におけるエミネムを真似たようなライムを披露する様も興味深い。全体的にスケールが拡がり、グル―ヴ感が増し、バンド・サウンドとしての纏まりも非常にダイレクトに響いているというのに、だ。

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 RADWIMPSがこういったスケールの大きい世界観を包含せしめようとする際に、個人的に疑念が生まれるのは、ギデンズの構造化理論のことだったりする。ギデンズによれば、社会学には現象を「意図」(人々が実際に頭の中で考えていること)から説明する主観主義的アプローチと、関係なく客観的に実現している状態(「構造」)から説明する客観主義的アプローチがある。後者は、例えば、私たちは、街中を歩いていて他人とすれ違っても積極的に話しかけたりしない。といえども、完全に無視したりもしない。これをして、「市民的無関心」とも言われている。この市民的無関心は結局、多くの人の都市での生活を可能にしている訳だ。皆が皆に話しかけていたら、都市生活の機能がままならないからだ。しかしながら、人々が「市民的無関心」を持っているのは、なにも都市の生活を可能にするためではなく、だからこそ、これは主観的な意図に還元できない現象ともいえる。この二つのアプローチを結びつけたのが構造化理論だが、「人が主観的に行動するときには、客観的な構造を前提としているし、またそのように行動することで構造を再生産している。」とすると、最近のRADWIMPSは、客観的な構造の前提が欠落したまま、主観主義的アプローチ沿いに、誰彼問わずに「話しかける」アティチュードが可視出来る。他者性に向けて、何でも言えるポジションに居ることができる彼らだからこそ、『絶体絶命』というタイトルで、スキゾなまでに多種多様な音楽のスタイルに挑み、溢れる言葉群を詰め、テンションも高いというのも良いことだとは思う。それでも、同時にこのテンション(緊張)が接点として見出す聴き手(生活者)側のフラットな感度にフィットしてくるのかは見えない。渦巻く熱量が宛先不明のままに、眼前に在る、そのような印象さえ受ける奇妙な作品だと思う。

 最後に、この作品には、過去の彼らの作品では潜んでいた偶景(アンシダン)が殆ど感じられないのが個人的に残念でならない。とともに、彼らのこの音楽は多くのユースの難渋な自意識をサルベージしたとしても、意味世界で生きていない人たちにはどう響くのか、それに少しの憂慮もおぼえてしまう。そして、RADWIMPSはこのテンション(緊張感)を保持したまま、果ての「その先」 を行くのか、複雑な想いにもなる。

《「金輪際 関わんない」「ついに諦めた、万々歳」「だけど最後に、お願いよ 耳澄ましてみて」》(「グラウンドゼロ」)

(松浦達)

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