砂原良徳『liminal』(Ki/oon)

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sunahara_l.jpg 実に01年の『LOVEBEAT』から10年近く経ち、新作『liminal』が届けられることになった。ほぼ10年振りといっても、その間にも07年のベスト『WORK'95-'05』、09年の『No Boys,No Cry』のサントラ、昨年のいしわたり淳治とやくしまるえつことの「神様のいうとおり」もあり、また、agraphの『equal』のマスタリング、コーネリアス『Fantasma』のリマスターを請け負うなど、作り手としての側面以外でもエンジニアとしても彼特有の「音の手触り」には接する機会は近年、ますます増えていたためか、「不在感」はなく、寧ろ、その粒立った電子音と行き交う空間の位相へのオリジナルな視点はより評価は高まっていたと言っても過言ではないだろう。

 取り分け、『LOVEBEAT』が孕んでいた削ぎ落とされた引きの美学とでもいえる音響の美しさと、それを支える屈強な意志と余計なロマンティシズムやエスケーピズムを介入させない強い「音のメッセージ性」は孤高で、いまだ有効であり、色褪せることもなかった。この10年、どこかで常に鳴っていた音のような気もするからだ。

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 振り返るに、今回のアルバムの先行EPでありながらも、全く違った意味を持つことになってしまった「subliminal」における表題曲のPVで社会への警鐘を鳴らすようなメッセージ群やフレーズがカット・アップされ、そこに鋭角的なビートが挟んでくる展開にはマシュー・ハーバートがときに表象するような怜悧な反抗を感じさせるとともに、マーシャル・マクルーハンが流布したような警句とは距離を置き、「メディア」は決して「メッセージではない」、という受け手側の身体性への作用に関して自覚的になっているのが伺えた。マクルーハンが指すメディアは一概にテレビや書物やネットといったものばかりではなく、もっと広汎な装置的な意味を孕む。そうなると、音楽だってメディア「概念」を帯びてくる。その「概念」に意識裡ではないアーティストは無規則な内容面での懐疑より、メタ・ポーズ内での意味への構え、理論武装への解除意識に躍起になってしまう転倒が起きる可能性が出てくる。つまり、社会的に再編成・組み入れられたシステムとしてのメディアのレベルの度を考えると、個の個たる発言も巨大な発言力を持つ機関のステイトメントも均質に「形式化」(形骸化ではなく)されてしまった結果、その波及の幅より原基的な言語自体の作用/非作用に対して"降りてゆく"ことになるからだ。そこでは、クルト・レヴィンやクルト・コフカの残影やゲシュタルト(Gestalt)がアフォードされるだけの可能性を帯びる。今、何かに対して「NO」を言うためには、どこまで「YES」の周辺への思考的な文脈を冷徹に敷けるのか、が問題になってくる。

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 では、「メッセージはメディアに孕まれない」―そんな反転を突き抜けるような作品として『liminal』が孕んだアブストラクトなささくれは、"『LOVEBEAT』以降の沈黙の先に、更に沈黙が残っていた"途中経過を示しているような気もしてくる。幾らソリッドに音をシェイプ、デザイニングしていっても、行間から立ちのぼるメロウネスも彼の魅力だったが、今作に至ってはそういった要素もほぼ排除されており、よりクリアーにハイファイに組み上げられた音の設計図の中で具体的なメロディーやフックのある何かは聴こえ辛くなっており、どことなくダークなトーンが引き延ばされている。しかし、取っ付き難く、分かり辛いという訳でなく、PoleやDeadbeat辺りのジャーマン・エレクトロニカとの相似も感じさせる暗みも感じるし、テックハウス、クリックへの近接も見える。

 前半2曲は、『LOVEBEAT』からの地続きの印象も受けるが、マシン・ビートに不穏なノイズが混じってくる鋭さを持つ3曲目の「Natural」、オブセッシヴな電子音がミニマルに刻まれる4曲目の「Bluelight」、アブストラクトなサウンドが展開される5曲目の「Boiling Point」の流れは今作の肝と言ってもいいだろう電子音が饒舌に現代の景色を縁取るという視角の「新しさ」がある。

 8曲で40分にも満たないというと、奇遇にもレディオヘッドの最新作『The King Of Limbs』とのシンクロも感じさせるが(実際、音響工作の緻密さ・精度で言うと、似ている箇所もある)、あの作品が「語らないことを、語る」意味を孕んでいたとしたら、これは「語るべきことを、語らないでいる」"含み"から滲み出る空間によって、聴き手・受容サイドの判断/認識の留保や前段階を揺さぶり、刺激する。そして、これまでも彼の推進力となっていたストイシズムと美学が、根に宿るパンク精神によって押し出された形で、シリアスな表情が極まった結果、2011年という年におけるビート・ミュージックの一つのメルクマールとして必ず通奏低音になってくるだろう重みを感じ取ることができる。

 インタビューでは、既に「次を作りたいという気持ちが強い。」という言葉を残しているように、この作品の8曲で見渡せる全体像よりも、まだ総てが途中であるという行方の果てが個人的に既に気になってもくる。人間がギリギリ知覚出来るという領域という"liminal"という言葉そのものが示すとおり、ここには喜怒哀楽であったり、感情の機微というものを人間が名称化する前の、または、社会の装置性や要請によって名称化させられてしまう前の、形容できない靄が纏わりつくような情動の何かに向けてフォーカスがあたっている音像のせいか、聴いた人たちがこの作品越しに光が見えるにせよ、暗闇が見えるにせよ、それ自体も感覚のエラーなのかもしれないし、何らかの作為によって成り立っていることなのかもしれない、と"自分の中の何かに名前がつくことで、落ち着いてしまう領域"から逃れさせる。

 だからこそ、逃れた先として、ここからまた始まってゆく言葉や感情があるなら、まだ音楽と呼ばれるものにも未来があるような気もする。

(松浦達)

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