March 2011アーカイブ

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 渋谷シネマライズの跡地に出来たライヴハウスWWWにて、東日本大震災復興支援イベント「WWW presents #restart」が開催された。「日常を再起動して復興を支援するプロジェクト」というコンセプトの下、26日(土)と27日(日)の2回に分けて行なわれた当イベントは、いずれも15時から18時半までというイレギュラーな時間帯。これは東京電力発表の「電力使用状況グラフ」に基づき、電力使用のピーク時間を避けて設定したものだという。なお、チケットの売上から諸経費を除いた収益の全額は、災害義援金として日本赤十字社に寄付する方式を取っており、会場、出演アーティスト、そしてオーディエンスの3者が共同で被災地を支援する形となる。
 
 この呼びかけに賛同し駆けつけたアーティストは、土曜日がCaravan、ジム・オルーク、前野健太とDAVID BOWIEたち、Predawn。日曜日がoutside yoshino(イースタン・ユース)、小田晃生、口口口、渋谷慶一郎。筆者は土曜日の回の(時間の関係でCaravanを除く)3アーティスト(+飛び入りゲスト)を観ることが出来た。

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 トラファルガー広場やバッキンガム宮殿など、ロンドンの中でも特に有名な観光スポットが存在するウェンストミンスター。その最寄りの駅であり、ロンドン中心部の鉄道ターミナル、チャリング・クロスの高架下にあるのが「HEAVEN」だ。ここはロンドンでも最も有名なゲイ・クラブで、曜日によってはノンケでも入場できる。最近は名所化し、普通のライヴも行なわれているのでアブナイ雰囲気は皆無。階段を下りて地下の入口を抜けると、恵比寿リキッド・ルームほどの広さのフロアに、すでに満員近いオーディエンスがひきしめあっていた。天井はとても高く、左右にぶら下げられた巨大なスピーカーからは下腹部を突くような低音がドーン、ドーンと鳴り響いている。サウンド・クオリティは申し分ないので、かなりの爆音だったが耳に障るような周波数はほとんど出ていなかった。

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strokes_a.jpg 結論からいうと、とても評価の難しい作品になったと思う。

 先行のシングル「Under Cover Of Darkness」はキュリアスな音響工作とある種、彼らのトレードマークの一つであるシャッフル・ビートのセンスの活きた佳曲だったが、その延長線にあるとは言い難い多彩なサウンド・ヴァリエーションと些かスキゾに引き裂かれた10曲には、これまでよりクリアーでハイファイな録音で、レゲエ、ニューウェーヴ、ポスト・パンク、シンセ・ポップ、レイドバック気味のロックンロール、ハードコアなどが混然と収められている。そして、メンバーの独自色がこれまでよりも色濃くあらわれるようになった。緩急、アップダウンを行き来し、より表情が豊かになったジュリアンのボーカル、実験的なフレーズが増えたアルバートとニックのツイン・ギター、ニューウェーヴ風のニコライのストイックなベース、リズムに対してより厳格になったファブのドラム、と、いつかのガレージ・ロック・リヴァイバルの先陣を切っていたバンドの音とは思えない大胆な舵取りが為されている。

 00年代に入り、ハイファイに振れ気味であったロック・シーンに低熱の「ローファイ」な「倦怠」で切り込んだときの彼らの現れ方は鮮やかでもあったが、佇まいとクールネスとは比して、その後の軌跡は決してスマートとは言い難いものも含まれていた。

 例えば、ベーシックな意味で「ザ・ストロークスの新しさ」とはTHISをITと言い換えるための知性であり、同時にクエスチョン・マーク(?)を投げ掛けたこと(Is This It?)だと推察することもできるが、その「THIS」とは90年代以降のオルタナティヴ・シーンが自家中毒的な状態に陥り、ロック・ポップスの持つ手続きが必要な形式よりも、よりダイレクトな機能を持つヒップホップや先鋭的なR&Bにイニティアティヴを奪われ、エレクトロニカやポスト・ロックといったものが積極的に多くのリスナーの耳の鋭さを鍛え上げ、ダンス・ミュージックがユースのウィークエンドをスイングさせるようになった90年代後半から00年代に差し掛かる状況論ともリンクしていたとしたならば、彼らの「IT?」という一言はニューヨークという場所に根付くアンダーグラウンド性とパンク・スピリット、そして、アート・ロックのシェイプを再定義させるまさしくオルタナティヴ、代案としての美しさがあった。勿論、彼らの"優等生的なガレージ・ロック"にはハイプと紙一重の危うさもあり、様々な毀誉褒貶も纏わることになったものの、セカンドの『Room On Fire』以降、急速に自己対象化とフリーキーなエクスペリメンタルな模索の入り口を潜り、並行して各々ソロ活動が盛んになっていくにつれ、実際、ザ・ストロークスが背負ったシーンからの過剰な役割期待というのは、奇妙な形で分散したような一面もあり、前作からここまでの「5年間の沈黙」と合わせて、どうにも彼らの混沌は「停滞」に近似するのではないか、という周囲の危惧や憂慮によって縛られてしまっていた節もあった。

 09年初頭から入った今作のレコーディングでは、曲作りの難航、ジョー・シカレリをプロデューサーに招いて進めた音源のボツ、バンドとしてのレコーディングにジュリアンが立ち合わない、といった紆余曲折が目立ち、機能不全のままバンドが進んでいる感じさえ受けた人たちも多かったことだろうし、元来、ジュリアンがコントロール・フリーク振りを発揮していた旧来の場所から離れて、アルバート、ニック、ニコライ、ファブといった四人が率先してアイデアを持ち寄り、そこにジュリアンが「参加」する形というこれまでと違う民主主義的連帯の中で各々のイメージやアイデアが詰め込まれた分だけ、より捉え辛いザ・ストロークス像が立ちあがってきてしまった点もあるかもしれない。

 なお、歌詞世界はビートニクのようなものから、形式的にラブソングと言えるものや"We"(異性や人間関係のメタファーと言えるだろうか)を象徴として含んだものまでシンプルながら多重のイメージを喚起させる。軍隊に入る男が、様々な人間関係に別れを告げなければいけない切なさを含んだ「Under Cover Of Darkness」を筆頭に、《Living in an empty world(からっぽの世界で生きているんだ)》(「Games」)、《Waiting time is to blame(非難を負うべき時間を待っている)》(「Call Me Back」)、《We talk about ourselves in hell to forget the love we never felt(僕たちが決して感じたことのない愛を忘れるために 地獄で僕たちは僕たち自身について話そう)》(「Life Is Simple In The Moonlight」)など不全や内省にこんがらがっている感じのフレーズの断片が特に刺さってくる。

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 現今、チルウェイヴ/グロファイの波は緩やかにまだ続き、USインディーシーンの対岸では「正統なるアメリカーナ音楽」が亡霊のように浮かび上がってきている折、ディセンバリスツが改めて発見されたり、アリエル・ピンクみたく未来に回帰するための過去に進んだノスタルジックな音がオンになり、ローファイがじわじわと染み入る中、この表層を滑ってゆくようなサウンドの呈示は分が悪いかもしれなく、カーズ、ポリス辺りに繋がる80年代風のサウンド・メイクにも是非が問われるところだとは思う。

 それでも―。僕はこの作品に距離を置く気持ちにならないでいるのは、これまでの一挙手一投足に過大なバイアスと熱狂が常に付き纏っていた彼らがもっとフラットに愛すべきロック・バンドになったという文脈に準拠する。そして、何よりライヴで例えば、「Hard To Explain」や「Last Nite」などの旧曲とともに、これらの曲が混じってくることを考えると、自然と昂揚するものがあるというのが大きい。

『Angles』とは、2011年のザ・ストロークスの純然たる新しいフェイズというよりも、手探りのままで過程をなぞる作品の意味を抜け、あくまで"バンドとして"続いてゆくための未来への橋渡しをする大事なものになったのではないか、という気がする。

《Trying to find the perfect life(完璧な生き方を探すために挑んでいるんだよ)》(「Metabolism」)

(松浦達)

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salyusalyu.jpg 3.11の影響でリリース日が遅れたのもあるが、後出しジャンケンになってしまった感は否めないので、好き勝手に書かせてもらおうと思います。Salyu本人が(それまでほとんど放置状態だった)ツイッターで夜中にアナウンスした途端、すさまじいバズを巻き起こした新プロジェクト、その名もSalyu×Salyu(サリュ・バイ・サリュ)。本人いわく、2年以上前から水面下で動いていたプロジェクトらしいが、あのコーネリアス=小山田圭吾が全面プロデュースということで、今まで彼女の存在を無視してきた音楽評論家やメディアが、手のひらを返したように人物像や過去作品を調べていましたね。おせーんだよ。

 振り返れば、2010年のSalyuはリミッターが外れたように働きまくっていた。まず、小林武史の黄金律をスロットル全開にした名曲「新しいYES」と、3年ぶりのオリジナル・アルバム『MAIDEN VOYAGE』のリリース。夏には鮮やかなポップ・シフトを見せた新曲「Life」で大衆音楽に接近し、フル・バンドまたはコンボ編成による2度の全国ツアーをやり遂げ、夏フェスをはじめとする様々なイベントへ出演。七尾旅人やMiss Mondayの作品へのゲスト参加、バラエティー番組を含む多数のメディア露出、そして、いまだにカルト的信者を多く持つリリィ・シュシュを新曲と共に"再生"させ、中野サンプラザにて一夜限りのコンサートを開催。あまりのワーカホリックぶりに、彼女のベクトルが一体どこに向かっているのか理解できなかったほどだ。

 しかし、その"神出鬼没"なフットワーク、あるいはアグレッシブな"身体性"は、本作『s(o)un(d)beams』で見事に昇華されたと言えるだろう。かねてから「自分の声は楽器だ」と語ってきたSalyuだが、まさに面目躍如。鍵盤の8鍵すべてを押さえることで生じる不協和音を、人間の声に置き換える「クロッシング・ハーモニー」なる理論に端を発し、Salyu自ら小山田にアプローチを仕掛けたという。ドイツのエレクトロ・バンド、ラリ・プナ(Lali Puna)のカヴァーである「Hostile To Me」を除く全編で小山田が作曲を手がけているが、歌詞を寄せた面々が興味深い。坂本慎太郎(元ゆらゆら帝国)、七尾旅人、国府達矢、いとうせいこう...いずれも曲者ぞろいであるが、国府はSalyuの過去作品でも小林武史とは違った前衛性を常に提示してきた才人なので、相性は文句なし。坂本の予期せずして震災をイメージさせる言葉が並んだと話題の最終曲「続きを」は、すでにアンセムの風格さえ漂わせている。

 小山田の手によって、記号的にカットアップされたSalyuの声たち。4人のSalyuによる輪唱とハンドクラップがピアノとリズミカルに絡む「ただのともだち」を筆頭とし、"航海"をキーワードに『MAIDEN VOYAGE』との連続性を窺わせる「Sailing Days」、プレフューズ73のようなヴォーカル・チョップ手法の「歌いましょう」、トロピカル・テイストにキュートな言葉遊びが映える「奴隷」、クラシック&ボサノヴァ調の「レインブーツで踊りましょう」、スラップ・ベースとヴォーカルの掛け合いがたまらない「Mirror Neurotic」など、収録された楽曲はどれも"声"が主役だが、エクスペリメンタル一辺倒に振り切るのではなく、きわめて楽しげなポップ・ソングに仕上がっているのが特長。"歌いましょう"や"踊りましょう"といった、能動的なアクションを促すタイトルもSalyuには珍しい。"声"にフォーカスした楽曲---というと、やはり『MAIDEN VOYAGE』のラストを飾った「VOYAGE CALL」を思い出す。歌詞こそ存在しないが、伸びやかな高音ヴォイスと溢れんばかりの開放感が押し寄せるあのナンバーは、シンガーとしてのSalyuが別次元のレヴェルに到達してしまったことを何よりも物語っていた。そうして「声の実験」に流れ着いた本作は、またもや初期のファンからは賛否両論だと聞くが、彼女の飽くなき探究心とチャレンジングな姿勢は、メインストリームで活躍する多くのアーティストも見習うべきだ。

 ただ...。いや、もちろん手放しで絶賛できる傑作ではあるが、周囲が大騒ぎするほどの「斬新さ」は感じられなかった。つまり本作は、Salyuにとっての『メダラ』に当たるアルバムなんじゃないかと。これまで何度もビョークからの影響を公言してきた彼女だけに、"声"にフォーカスし、ヒューマン・ビートボックス(Salyuも近年興味を持っているらしい)を大々的に取り入れた『メダラ』は、人間としての表現の可能性/身体性の限界という面でも大きなヒントになったんじゃないかと思う。となると、音のマエストロ=小山田圭吾の立ち位置はマシュー・バーニーか? デビュー当時より「和製ビョーク」と呼ばれ続けてきたSalyuが、もはや本家にも匹敵する(何度も言うが)"身体性"を獲得した『s(o)un(d)beams』は、この稀有な才能における新たな"自我"の目覚めなのである。

<続きを/もっと見たい>。

(上野功平)

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salyusalyu.jpg 声に惹かれて震える。そんな経験があなたにはあっただろうか? 僕にはあった。それがSalyuだった。Salyuが一般的に(世間に知られ始めたという意味で)認知されたのはプロデューサーである小林武史とミスチルの桜井和寿を中心とした「ap bank」の活動資金や融資金を集めるために結成されたバンド「Bank Band」の曲『to U』からだと思う。

 今から十年前のゼロ年代初頭に小林武史の盟友とも言える映像作家・岩井俊二監督作『リリイ・シュシュのすべて』において物語のキーパーソンとしての歌手「リリイ・シュシュ」としてSalyuは世に出る形になった。作中では映画内のプロモーションビデオに現れる形のみだった。三十代半ばから二十代後半の世代は九十年代に思春期を過ごし、今やある種のジャーゴン的な使われ方にすらなって今の二十代前半や下の世代に全く通じなくなったミニシアター系や単館系映画を多感な頃に観た世代にとって映像作家・岩井俊二は非常に影響を受けたクリエイターだったことは言っておきたい。

 その後、Salyu名義として彼女は小林武史プロデュースでデビューする。僕は正直彼女がSalyuとしてデビューしたことを知らなかった。COUNTDOWN JAPAN 04/05でなにげなく彼女のステージを観た。Salyuはまだシングルを二枚ぐらいしか出してなくその次の年に発売される曲になった『彗星』を聴いて僕は虜に、その声に一気に持って行かれた。彼女が「リリイ・シュシュ」だとわかったのは曲数がなくて普通に「リリイ・シュシュ」の曲を歌っていたからだった。

 僕はあまり女性ボーカルに惹かれたりすごく追いかけたりしたことがなかった。ただ『彗星』という曲がきっかけだったが彼女の天性の声に惹かれてしまった。それから彼女のライブやツアーはできるだけ観に行くようになった。当初は新宿ロフトでのスプリットライブ等にも小林武史はキーボードとして必ずいるような感じで彼がsalyuに対しての期待も凄いのだと感じていた。Salyu自体の人気も『to U』以後には確実に出てきたのだけどファーストアルバムツアーの後のアコースティックツアーの辺りから少しずつだが人気が出ているのを肌に感じるようにはなっていた。Bank Band『to U』の前から彼女のツアーのラストではSalyu ver.『to U』で締めていた。小林武史とのクリエイションの中で彼女はさらにボーカリストとしてアーティストとして成長し、自分の考えをいかに表現するかを体現しながら楽曲を発表していく。一度は小林以外のプロデューサーと組んだりしながらも去年の終わりには『リリイ・シュシュ』プロジェクトが再始動もしたりしている。

 Salyuとしてではなく自らをププロデュースする形でのsalyu×salyuとして音楽プロデューサーにコーネリアスを、作詞には元ゆらゆら帝国の坂本慎太郎に七尾旅人にいとうせいこうという布陣でリリースされるのが、すいません前フリが長過ぎましたがSalyu×Salyu『s(o)un(d)beams』 という新しいアルバムです。

 Salyuの公式サイトでのコーネリアスとの対談インタビューによるとこのプロジェクト自体は二年以上前から始まっていた。Salyuが4年くらい前に出会った"クロッシング・ハーモニー"に感銘を受けた事が始まっているそうだ。一曲のカバー曲以外はコーネリアスが曲を。この二人が組むと声と音がこんなにも実験的でありながらもポップでしかもSalyuの声が非常に意識的に声の強さを出す事に成功している。引き出せているように聴いていて感じる。Salyuの声を「日本のビョーク」というミュージシャンの人もいるぐらいなのだが、コーネリアスの楽曲と自身の声に非常に意識して展開させたこのアルバムはその発言に頷けるものとなっていると思う。小林武史というプロデューサーに見出され世に出たSalyuは自らをプロデュースしたSalyu×Salyuプロジェクトは彼女を新しい次元にステップに見事に立たせたのだと思う。このプロジェクトは続けて欲しいし、小林武史とまたsalyuとしての楽曲作りにも期待が高まる。

 一曲目『ただのともだち』(詞・坂本慎太郎)、六曲目『奴隷』(詞・坂本慎太郎)、七曲目『レインブーツで踊りましょう』(詞・七尾旅人)、九曲目『Mirror Neurotic』(詞・いとうせいこう)がオススメな楽曲ですが、トータルの楽曲をコーネリアスがしているのでアルバムとしての完成度も非常に高いものになっています。

 これをライブでぜひ観たいと思うそんな素晴らしいアルバムです。

(碇本学)

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human_league.jpg イアン・クレイグ・マーシュとマーティン・ウェアという二人のコンピューター技師と、当時整形外科病院に働いていたフィル・オーキーの3人で始まったヒューマン・リーグ。それが1977年のことだから、今年で34年目になるわけだけど、変わってない。なんというか、「ヒューマン・リーグ」という言葉を聞いて思い浮かべる音がそのまんま鳴っている。確かに、昔の美しい姿と厚化粧はもうない。フィル・オーキーは海老蔵みたいな丸坊主になっているし、スーザンとジョアンヌも若作りに勤しんでいるおばさんに見えなくもない。でも、『Credo』にはあの声がある。フィルの女を口説くような歌声と、お世辞にも上手とは言えない女性コーラス。それだけで僕は、『Credo』というアルバムを好きにならずにはいられない。

 内容としては、これぞヒューマン・リーグというエレ・ポップが詰まったものとなっている。既に数多くのリミックスが作られている「Night People」や「Never Let Me Go」も良いが、個人的にはTB-303風の音が鳴っているアシッド・ディスコ・ソング「Electric Shock」が最高だ。初期のような実験的エレ・ポップもありながら、ここまでアグレッシヴなアルバムを作ってくるとは、正直想像できなかった。前述したように、34年目になる大ベテランがここまでエネルギーに溢れているとは...。やはりそれは、自分達がエレ・ポップの先駆者であるという自信が源になっているのだと思う。自分達のキャリアに誇りを持ち、それをまざまざと見せつけてくるような迫力がある。

 ヒューマン・リーグというのは、一種の芸だ。クラフトワークもそうだけど、ステージに4人立っている姿も含めてクラフトワークなのであって、ヒューマン・リーグもフィルだけでは駄目なのだ。横には必ず微妙な踊りをするスーザンとジョアンヌが必要で、その踊りすらもヒューマン・リーグたらしめているのだ。そうしたヴィジュアルも音楽としたコンセプトは今も見受けられるし、それは現在もヒューマン・リーグという芸は有効であることを証明している。もっと言えば、今あるすべてのポップ・ミュージックは、ヒューマン・リーグの影響下にあるということだ。だからこそ、昔から変わらないヒューマン・リーグの『Credo(信条)』が、ここまで心に響くのかも知れない。そして、キャッチーなエレ・ポップとコンセプトを貫き通す力強さと度胸があるヒューマン・リーグ。そんなヒューマン・リーグが、僕は大好きだ。

(近藤真弥)

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bertoia.jpg 2007年の結成から3年経って発表されたベルトイア(Bertoia)のデビューアルバム『Modern Synthesis』は極めて正しく「シューゲイザ―」と呼称されるそのジャンルの歴史を踏まえた上で作られている。ここにはラッシュがあり、マイ・ブラッディー・バレンタインがあり、ペイル・セインツがあり、ギャラクシー500があり、スロウダイブがあり、チャプターハウスがあり...とその音楽的記憶が豊かに反映され、我々が「シューゲイザ―」という言葉を聴いた時に存在していて欲しい旋律、アレンジ、ハーモニーが存在している。これらが美しく折り重なるよう緻密な配慮が行き届いた音像が、豊潤なハーモニーを生み出している。無論、これは予想通りのものがそこにあると言う意味ではなく、むしろこうあって欲しいという集合的無意識が見る夢がその音像に奇跡的に反映されているということだ。

 昨今の欧米のポップミュージックシーンにおいてシューゲイザ―の影響下におかれたバンドが乱立していることは周知の通りだ。最近ではアソビ・セクス、ザ・ペインズ・オブ・オブ・ビーイング・ピュア・ハートなどのアクトが素晴らしい作品を上梓したが、多くのシューゲイズ・バンドにマンネリ感が漂っていることは否めず、個人的には去年の暮あたりから食傷気味であった。そんなときに届けられたのがこのベルトイアである。シューゲイザ―という歴史が堆積させてきたデータベースから抽出してきたそのファクターを巧みに配置させ作り上げられたそのサウンドは先ほども述べたように由緒正しいシューゲイザ―であり、それは僕を食傷気味にさせるどころか、その出会いを心から喜ばしく思うような作品であった。

 その理由はなんだろうか。まず確認しておきたいのは多くのシューゲイズサウンドが逃避主義的と言われる理由はそれが「ここではないどこか」という超越性を志向し、リスナーをその次元にトリップさせるという力学が働いているからである。それに対して、ベルトイアのシューゲイズはそのような「外在する超越性」ではなく、日常のワンシーンに思いがけなく、物静かに刻み込まれているような「内在する超越性」にリスナーを「気付かせる」働きを持っているように思える。これがベルトイアが多くのシューゲイズバンドとの間に横たわっている大きな差異である。ベルトイアの音楽がいつだってどこか優しく寄り添っていてくれるようなサウンドであるのはそのおかげである。

 ここで少しその「超越性」=「理想」という言葉について纏めてみる。プラトンにおいては「本来の世界」であるイデア界はその不完全な写しである現象界よりも上位に位置している。つまり我々が知覚している現象界にとって本来の世界であるイデア界は「ここではないどこか」に存在しており、この2つの関係はイデア界が「上」、現象界が「下」の上下の関係として捉える事ができる。しかし、これでは近代科学を考えることはできないと考えたデカルトは「理想」を上ではなく、「私」という存在の「内」に「観念」として読み変え、それは完全な存在としてあるとした(上下から内外へ)。だが、その「観念」は不完全な「私」から生み出されたものなので必然的に完全な存在の観念を産めないのである。「私の意識のうちにあるものは、いわば、ものの像であって、これにのみ、本来、観念という名は当てはまる」という『省察』内での彼の言葉はそのように受け止められるべきである。彼にとって「内」は「精神」であり、「外」は「物体」であるとされ、その2つを繋げることによって近代科学を成立させるという夢を持っていた。

 このように「理想」が「観念」に変化したものの、それはなお、「理想」を維持し続けている。であるから、僕らがベルトイアの音楽を聴いてその時に内在する己の「理想」を日常になんらかの形で投影することも可能ではないだろうか。

 話を変えて、もう少しその音楽性について見てゆこう。前述したようにここにあるのはあまりにも優秀なシューゲイズサウンドだ。だが、それを説明しただけでは彼らの音楽性を描写したことにはならない。なぜならヴォーカル&ギターを担当しているmurmurはギターポップ・ソロユニットmurmur、打ち込みや音響を担当している根岸たくみはフォークトロニカ・ユニット、swimmingpoo1としても活動しており、この2人の音楽性がこのアルバムに置いてスパイスとして効いており、それがベルトイアの独自性をより確固たるものにしている。

 murmurのメロディセンスはシューゲイザ―を聴いているだけでは培えないものであり、そこには彼女が影響として挙げているようなトッド・ラングレンや、デスキャブ・フォー・キューティーなどが―無論、直接的な影響としては感じられないが―遠く反響しているのかもしれない。ソロユニットmurmurは参照点は数多くあるが、何よりも思わず渋谷系を想起してしまう爽やかな音楽を奏でていて、時折見せるそよ風のような安らぎがベルトイアに物静かな気品をもたらしている。そして、ベルトイアにおける音響、音のレイヤーの構築の秀逸さは根岸たくみによるところが大きいのではないだろうか。彼のswimmingpoo1(日本のボーズ・オブ・カナダとつい言いたくなってしまう素晴らしいユニット)における世界観が直接反映されているわけではないものの、その躁にも鬱にも振り切れない独特のドリーミングな音像はこのベルトイアにも盛り込まれているのは確かだ。また、ベースの歌うようなラインはややもするとギターノイズばかりが先行し、単調になってしまうシューゲイズサウンドに彩りをもたらしているし、ドラムの安定感はしっかりとベルトイアの世界観を底から支えている。このリズム隊あってこそのベルトイアであろう。そして、個人的にはギターにはいたく感動させられた。いわゆるシューゲイズ的なギターサウンドだけではなく、時にダイナソーJr.における掻き毟るような切ないギターが鳴り響く瞬間があり、これには驚かされた。

 少々語り過ぎてしまったが、まだまだ彼らの魅力を伝えきれた気がしない。いくら言葉を紡いでも追いつくことは無いだろう。彼らが産声を上げる瞬間を目の当たりにできたことを心から嬉しく思う。彼らはシューゲイザ―のネクストステージだ。

(八木皓平)

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dodos.jpg 並外れたテクニックで1曲1曲に膨大な量の情報を詰め込み、その一方で耳にすんなりしみこむメロディが鳴っている。混沌と素朴の同居――00年代中期より活動しているフォーク・デュオ、ザ・ドードースの魅力はそこにあると僕は感じている。

 その点において、08年の2nd『Visiter』で彼らはひとつの頂点を極めた。だが、翌年早くもリリースされた『Time To Die』で失速。ザ・シンズやバンド・オブ・ホーセズを手がけたフィル・エクをプロデューサーに迎え、聴きやすさとメロディを徹底的に磨き上げ、ヴィブラフォン奏者をメンバーに加えて音の厚みを増してみたものの、お行儀良く型にはまったサウンドは彼らの魅力を殺してしまっていた。
 
 それから3年。スタジオセッションを繰り返し、『Visiter』のプロデューサー(ジョン・アスキュー)と再びタッグを組み、ニーコ・ケースがコーラスで前面参加した『No Color』は快哉を叫ぶべき作品となった。

 叩きつけるような力強さで刻む西アフリカ風のビートが徐々に加速していくオープニングの「Black Night」から一部の隙もないアルバムの完成度が伺える。ニーコのコーラスと流麗なヴァイオリンが彩りを添える「Sleep」や、アンセミックなリフを備えた「Don't Try And Hide It」など、続くトラックも充実している。この2人には洗練なんかいらない。生のダイナミズムが必要だったのだ。『Time To Die』を経て辿り着いたこの作品でしみじみそう思う。シーンなんか気にせず、スタイルを貫いて欲しい。彼らが拠点とするサンフランシスコは、グレイトフル・デッドの時代からガールズが活躍する現在まで、独自のスタンスを持つバンドを育んできた地なのだから。

(角田仁志)

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led.jpg 日本のインストミュージックの流れそのものを修正する気概に溢れた、圧倒的に想像力豊かでエモーショナルな音。2000年に結成された7人組のインストバンド、L.E.D.のセカンドアルバムは規格外の唯一無二っぷり。エレクトロニカ、アンビエントからジャズ、ファンク、ヒップホップまで様々な要素を追い求め、独自のフィルターを通して再構築、オリジナルな位置に辿り着いている。インストバンドだから歌詞はない(今作には原田郁子をフィーチャーしたバンド初のヴォーカルトラックがあるんだけど、これが本当に素晴らしい!!!)けど、バンドが今どういう感情なのか、それをどういう音にして、そこからL.E.D.の世界観をどう表すのか、という彼らの集中力からは強いポジティビティーを感じる。

 世間一般にメッセージ性の強いロックが上で、インストミュージックが低く見られることが多いけど、フォーマットではなく、聴き方が重要なんだと思う。あらゆる要素を飲み込んで、ステイタスのあるものをドレスダウンさせる。彼らの音楽に和やかさだけではないエッジがあるのはその為。

(粂田直子)

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mew.jpg とにかくミューというバンドは何て器用なんだろう。今までに5枚のアルバムをリリースし(日本ではサード以降の3枚)、メンバー脱退もありながら徐々にまた順調に成長してきたミュー。14年間の総括となる。これは一つの区切りでもあるだろう。常に違う色のアルバムを出してきた彼らだが、これがまたよく上手くまとめられている。4枚目のアルバムだけは全体が繋がっている為あまり選曲に入っていないものの、フォースはそれだけで素晴らしいので併せて聴いてほしい(今作では別れて入っているのが惜しい!)。それ以外の部分となると、このアルバムに顕著な通り実験性の強いポップ・バンドであり、個々それぞれが主役になれるバンドだ。日本未発表と新曲で3曲また新しいミューが聴ける上、これまでの曲たちもまるでライヴを体験しているかのように、セットリストとあまり変わらないセレクトが成されている。これだけで一つのアルバムとしての完成度が非常に高いという点は、驚かされるばかりだ。新曲は「イントロデューシング・パレス・プレイヤーズ」に近いギターの効いた曲に仕上がっている。最初に「アム・アイ・ライ?・ノー」、最後に「コンフォーティング・サウンズ」というところも、ミューの原点が『フレンジャーズ』にあることを感じさせられた。

 一方DVDの方はというと、これはこれで幼い頃の古い貴重な映像や手の込んだ最近の映像まで、お気に入りの黒い服装で存分に楽しめる一品。動物好きな彼らならではの見所もあればアニメに強い彼らの見所もある。国内盤のみでリリースされた曲もあり、また「パンダ」や「ミカ」などの映像はここでしか見られないだろう。総括的に言えばこれも一つの軌跡である。例えばデンマークでベスト・シンガー賞を受賞した直後に作ったヴィデオが「ザ・ズーキーパーズ・ボーイ」。シンガーとして、バンドとしての一面を前面に出している。顔をフィーチャーしたフォース・アルバムからは「ホワイ・アー・ユー・ルッキング・グレイヴ?」が収録。表情から見て取れる彼らがわかるだろう。そんな風にベスト盤CDもDVDも付いた大きな作品。ここからまた次の彼らが待っている。

(吉川裕里子)

2011年3月23日

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2011年3月23日更新分レヴューです。

ビビオ『マインド・ボケ』
2011年3月23日 更新
ザ・クルックス『チェイシング・アフター・ゴースツ』
2011年3月23日 更新
LA SERA『La Sera』
2011年3月23日 更新
クリスタル・ファイターズ『スター・オブ・ラブ』
2011年3月23日 更新
キリングボーイ『Killing Boy』
2011年3月23日 更新
VARIOUS ARTISTS『部屋、音楽が溶けて』
2011年3月23日 更新
RADWIMPS『絶体絶命』
2011年3月23日 更新

2011年3月20日

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先ほどカヴァーを更新しました。今回フィーチャーされたのはR.E.M.。彼らのニュー・アルバムに関するインタヴュー記事は、こちら

「DLすると1500pixel角」となる画像がアップされています。ダウンロードすれば、あなたのPCやiPad、iPhoneの壁紙に使えるかも(ちなみに弊記者はiPhoneのロック画面壁紙に使おうかな...と思ってます。時間があれば、ですが...:笑)!

2011年3月19日0時51分 (HI)

R.E.M.

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R.E.M.

伝えたかったのは"困難な変化が訪れても怖れないで
自分のプラスに変えよう"ってこと


R.E.M.の通算15作目『Collapse Into Now』は、90年代初頭、誰もが彼らを世界一のロック・バンドとして認識していた頃の自信と輝きを取り戻したような一枚だ。プロデューサーには前作に続いてジャックナイフ・リー(U2、スノウ・パトロール、エディターズほか)を迎え、パティ・スミスやレニー・ケイ、エディ・ヴェダー(パール・ジャム)にピーチズという胸躍るゲストが参加。レコーディングは、ポートランド、ニューオーリンズ、ナッシュビルのほか、デヴィッド・ボウイの『Low』やイギー・ポップの『The Idiot』、U2の『Achtung Baby』などの名作を生み出したベルリンのハンザ・スタジオでも行われた。

1996年にビル・ベリー(ds)が脱退して以降のR.E.M.にどこか物足りなさを感じていたリスナーも少なくないだろう。しかし、ポップなメロディと癖のあるサウンド・アプローチの融合を聴かせ、パンキッシュでエッジの効いたギター・サウンドとマンドリンやストリングスを織り交ぜた抒情性とのバランスを巧みに保った本作は、彼らの本領発揮と言えるいい意味でいかにもR.E.M.らしい作品となった。リスナーの心に希望を灯すような聴後感は、92年の名盤『Automatic For The People』を彷彿させる部分もあり、間違いなく彼らの最高傑作のひとつである。

ベースとバック・ヴォーカルを担当し、エディ・ヴェダー言うところの"R.E.M.の秘密兵器"であるマイク・ミルズに、厳寒のニュー・ヨークで話を聞いた。

REM_201101_A1.jpg

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FRIENDLY FIRES

どんな状況でも前向きでいたいと思っている

フレンドリー・ファイアーズのファースト・アルバムには現実逃避の先にある甘美な夢がそこかしこに散りばめられていた。それは踊りながら脳みそが溶けていく瞬間のフィーリングが完璧にパッキングされた大傑作に違いはなかったが、5月にはリリースされる予定の彼らのセカンドがファーストを余裕で上回る出来であることは、おそらく間違いないだろう。何たって先行で試聴できた4曲が「Paris」と「Jump In The Pool」と「Lovesick」のそれぞれ優れたポイントをすべてより集めたような、信じ難いアンセム揃いだから。ファーストからのファンの期待は一ミリも裏切らず、もはや貫禄さえ漂う。早くも傑作揃いの2011年で、この「Pala」と名づけられた新作はどんな特別な輝きを放つのか。

去る2月に東京のみでおこなわれた一夜限りの来日公演前日、ワインと長旅の疲れで良い感じにヘロヘロになったメンバーに話を訊いた。

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HANNE VATNOEY

私は旅行しているような気分でプレイしたいの

去年、個人的にもっとも強く心に残ったアルバムはハンネ・ヴァトネの『Me And My Piano』だった。レヴューのほうでも書かせていただいたが、自分がポップ・ミュージックに求めるもののほとんどすべてが凝縮されたすばらしい作品だと思う(ちなみに彼女に強く影響を受けたアーティストを訊いたら、イモージェン・ヒープ、ケイト・ブッシュ、スザンヌ・アンド・ザ・マジカル・オーケストラの名を挙げて、妙に納得した)。このアルバムはリリースから数カ月が経った今日現在でも日本でしか発売されておらず、変に埋もれてしまうのは惜しすぎる才能である。彼女自身 "Colorful Spring"と称するその音楽は、これからの暖かくなってくる季節に聴くのにもぴったりだ。 

詳しくはインタヴュー本文を参照してほしいが、彼女の豊かなバック・グラウンドには驚かされるばかりだし、話を聞いているとノルウェーとは(文化事業的な意味において)なんてすばらしい国なのだろうと思わされる。以下は自身二度目の来日となった昨年11月に取材させていただいたもの(本当に遅くなってすいません...)。彼女はシャイでとても礼儀正しかったが、随所に見せるおてんばっぷりがいい味を出している。この取材のあとにライブもお邪魔させていただいたが、ノルウェーの若手技巧派ジャズ・ミュージシャンを従えてのパフォーマンスは活き活きとした楽曲も合間って迫力満点。チャーミングな面もつぎつぎ飛び出す微笑ましいひとときだった(ちなみに、そのときのようすはYouTubeなどでも観ることができる)。終演後、多くの手作り雑貨といっしょにハンネ・チョコと名付けられたキャラメル(!)を自ら物販していたのも印象的。音楽同様、頭からつま先までガーリッシュすぎる彼女の振る舞いを目にして、改めて虜にさせられたのであった。

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british_sea_power.jpg 断言しよう。いまのところ2011年に、この作品に匹敵する傑作はリリースされていない。何かの呪縛から逃れたあとのようなサウンドの自由なフィーリングも、矢面に立たされながらでも、ときには疑心暗鬼になりながらでも、自分の感情を正直に吐露したリリックも、「Living is so easy」での《全部簡単だっていうけどさ...》なんていう諦めも、すべてがあまりに素晴らしい。多くの現代に生きる「オールライトじゃない」人たちは、この作品を聴いて身震いするか、あるいは哀しみとも喜びとも表現できないような涙を流すに違いない。たとえば「We Are Sound」では《僕らこそがサウンドだ。僕らこそが光なんだ。真っ暗闇の夜に入っていこう。》と歌われている。こんな力強い彼らの宣言に、喝采を挙げずにはいられないだろう。最近までイギリスではバンドが立たされている状況は悪化の一途を辿っていて、もはやチャートの上位に入る希望など持てるわけがなかった。もちろん、「バンド」という形態以外でも素晴らしい音楽はいくらでもあるし、現実に「ノー!」を突きつけることだけが良いというわけでもない。ただ、そんな状況で、非現実の世界に想いを馳せたり、自分たちの音楽をいまのトレンドにすり寄せたりすることは一切せずに、ファンが待ち望んでいた姿で彼らは見事にシーンに戻ってきてくれた。
 
 前作のチャート・アクションは散々たるものだった。それでも彼らはけっして希望を捨てようとはしないし、「誰がコントロールされているのかは分からないけれど、どっちでもいいなんて、言わないでくれ!」と叫ぶ。マニックスの最新作が出たときのクッキーシーンのインタビューでも、ジェームスは「すべてに醒めて嘲笑うような風潮に憤りを感じる。」と話していた。さらに印象的だったのはポール・ウェラーが「いまの若者は立ち上がって闘うべきだ。」と言ったことに対して、フランキー・アンド・ザ・ハートストリングスのメンバーが「そんなこと言ってるから、ポール・ウェラーは若者とコネクトできないんだ。」と某誌のインタビューで話していたこと。もちろんこれでBSPがポール・ウェラー側だ、とか、フランキーはけしからんとか(実際にわたしは彼らのアルバム・レヴューも書いている。大好きだし。)いうつもりは毛頭ない。あるいはそこまで現実は単純ではないのかもしれない。だからこそ、このアルバムは《僕たちは見当違いのところにいる》というフレーズがある「Heavy Water」という曲で締めくくられる。そして忘れてはならないのが、同曲で唯一の救いが「君」だということ。《今度また君に会えたらどんなにうれしいだろう 水が激しく落ちてくるのを見たかい? 加重超過の空から 天国から そして君の瞳から》。世界と対峙した先にあるのは、いつも2人をつなぐ愛だ。

(長畑宏明)

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one_am_radio.jpg インド系アメリカ人のリシケシュ・ヒアウェイによるプロジェクト、ワン・エーエム・レディオ(The One AM Radio)による07年の彼自身三作目となる『This Too Will Pass』は物哀しいレコードだった。燃えたぎる家屋を背景に「これもまた過ぎ去るだろう」と無執着を宣言したジャケット。内省的なラップトップ・フォークはストリングスやホーンと絡みながら美しく淡々と綴られる。真夜中に古ぼけた蓄音機から流れてくる冷静ながらもやりきれない独白を耳にするような、不思議な感覚にとらわれていく。"午前一時のラジオ"という名のとおり、これまでの彼はさしずめ夜の使者だった。

 それから4年の月日を経て届けられた最新作『Heaven Is Attached By A Slender Thread』が声も失うほどすばらしい。みずからの可能性を決めつけなかったリシケシュは、この作品において自分の持ち味を殺すことなく、大きく息を吸いながら真の自由を獲得したようだ。

 前作がニック・ドレイクの系譜に連なるSSW然としたものだとすると、本作の肝は奔放なビート・メイキングにある。ミニマルな躍動感が楽曲に陽性の生命力をもたらしている。これはそれまでライブのサポート担当だったメンバーを正式に加入して"バンド"として生まれ変わったこと、そして名プロデューサーであるトニー・ホッファーの貢献が大だろう。トニーの辣腕ぶりは挙げていくとキリがないので彼のページを参照していただくとして、ベルセバの近作やベックからフェニックス、ジャック・ペニャーテ、果てはフィッシャースプーナーまで、関連作品のいずれにも通じるのは(各アーティストのキャラを活かしつつの)独特のリズム構成と音の抜けのよさ。この作品でもドラム・マシーンの一音一音が気持ちよくビシバシ決まって、中毒性たるや半端ない。またゲストとして、昨年おおいに話題をさらった小デブでナードな革命児バス(Baths)と、同じくアンチコン所属のエイリアスがイイ仕事を聴かせ、さらにデヴィックス(Devics)のヴォーカルであるサラ・ラヴも可憐な歌声で華を添えている(余談だけど、デヴィックスの『The Stars Of Saint Andrea』や『Push The Heart』も夜に聴きたくなるダークで気だるいレコードだ。マジー・スター好きは必聴。昔、本当にお世話になりました...)。

 かといって、ヤケッパチのごとくバカ騒ぎするような作品では決してなく、本来の持ち味だったジェントルな憂鬱ぶりは健在だ。彼独自のメランコリックでひねくれた旋律はここでも冴えわたり、アンビエンタルな音づくりにストリングスもうまい具合に配置されているし、リシケシュの歌声も変わらず柔らかい。気高さを保ったまま甘酸っぱいポップな大衆性を獲得したこの作品を2010年代仕様のAORとも位置づけられるし、昨今のトロピカル風味なバンドの愛好者や、辛抱強くポスタル・サーヴィスの新作を待ち望んでいるような人たちにもきっと歓迎されるだろう(日本盤のボーナス・トラックには"片割れ"のディンテルと、Boy In Staticによるリミックスも収録)。

 活動拠点であるロサンジェルスの空虚な夜をテーマにしたという本作には、幾多のドラマとともに希望と絶望のムードがそれぞれ同居している。讃美歌のような冒頭のエレポップ「Sunrise」では再起の象徴である朝日が登るのを待つひとについてうたわれているが、この曲を題材にした写真コンテストも開催中で、投稿作をズラっと眺めることができる。こうして太陽の写真を連続して見つめていると、月並みすぎるが明けない夜はないのだと考えずにはいられない。マルチネ・レコーズによる『MP3 Killed The CD Star?』には「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」なんて曲が収録されているが、このアルバムも音や境遇や主義主張は違えど、同じ視座に立っているように思える。

(小熊俊哉)

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we_are_enfant_terrible.jpg 皆さんつまみフェチですか? 唐突で申し訳ないですが、僕はつまみフェチです。例えば、TB-303という機材をいじっているとき。レゾナンスをかけて音をビキビキさせていくときの高揚感はたまりません。それからDJをやるときも、デリック・メイになりきりEQを大胆に使って音を変化させるのも大好き。ジェフ・ミルズのように繊細なタッチで微調整していくのもストイックでカッコいいけど、僕はつまみをひねった瞬間にエフェクトがかかって、お客さんが「ウォー!」と歓声を上げる場面を見ると、どうしてもニンマリしてしまう。つまみだけじゃなく、楽器に触れたことがある人なら誰もが経験しているあの興奮。適当にギターを弾いていたら、偶然カッコいいリフが弾けて「俺天才!」みたいな。これを「初期衝動」という人もいるけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルのデビューアルバム『Explicit Pictures』には、そんな瑞々しい姿が刻まれている。

「我々は恐るべき子供」と名乗るこのフランス発の3ピースバンドは、ガレージや8ビットにニュー・エレクトロ、引き合いに出せるバンドとしては、ザ・ラプチャーやヤー・ヤー・ヤーズだろうか? そしてその名の通り、ウィー・アー・エンファント・テリブルが出す音は子供じみている。もちろんこれは褒め言葉だ。人にもよるだろうけど、子供というのは基本的に暴れたくて仕方がないものだ。それは「大人になる」という過程で植えつけられる抑圧などが行き届いていないからだと思うけど、このバンドはかなり奔放な存在感を放っている。ライブではゲームボーイを使って生演奏してみたり、ドラムにいたっては座って演奏することがほとんどない。抑え切れない衝動に突き動かされるように、だんだん腰が浮いていく様子は観ていて笑えたし、なぜか痛快ですらあった。

『Explicit Pictures』の前には3枚のEPがリリースされているが、『Explicit Pictures』とEP群に大きな変化の差はない。まあ、多少は幅広さが備わっているが、ジャンクな感覚で好きなことを混ぜ合わせたごった煮ロックである。正直、演奏が上手いわけでもないし、フランスといえばフェニックスを思い浮かべる人もいるだろうけど、彼等と違ってウィー・アー・エンファント・テリブルは、野蛮でスマートとは言えない。じゃあ、ウィー・アー・エンファント・テリブルの魅力は何なのかというと、それはアティチュードとしてのロックンロールをやっていることだ。

 音としては、「ロックンロール」と聞いて大半の人が思い浮かべるような、ギターがガンガン鳴っているようなものではない。しかし、「楽しいからやっている」という感覚と共に、意味がないようでいて皮肉が効いている歌詞(特に「Filthy Love」は意外とキツい内容に思える)から覗かせる鋭い視点は、現代の本質を射抜くかのようだ。僕にとってのロックンロールは意識的か否かは問わず、いかに時代を見抜いているかが重要だったりするけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルは、現代の本質に近いところで音を鳴らしているのは確かだと思う。

 一聴した感じはチャカポコとしたヘンテコな音だが、騙されてはいけない。彼らにとってのファーストアルバム『Explicit Pictures』には、恐るべき子供の本性が隠されている。

(近藤真弥)

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sunahara_l.jpg 実に01年の『LOVEBEAT』から10年近く経ち、新作『liminal』が届けられることになった。ほぼ10年振りといっても、その間にも07年のベスト『WORK'95-'05』、09年の『No Boys,No Cry』のサントラ、昨年のいしわたり淳治とやくしまるえつことの「神様のいうとおり」もあり、また、agraphの『equal』のマスタリング、コーネリアス『Fantasma』のリマスターを請け負うなど、作り手としての側面以外でもエンジニアとしても彼特有の「音の手触り」には接する機会は近年、ますます増えていたためか、「不在感」はなく、寧ろ、その粒立った電子音と行き交う空間の位相へのオリジナルな視点はより評価は高まっていたと言っても過言ではないだろう。

 取り分け、『LOVEBEAT』が孕んでいた削ぎ落とされた引きの美学とでもいえる音響の美しさと、それを支える屈強な意志と余計なロマンティシズムやエスケーピズムを介入させない強い「音のメッセージ性」は孤高で、いまだ有効であり、色褪せることもなかった。この10年、どこかで常に鳴っていた音のような気もするからだ。

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 振り返るに、今回のアルバムの先行EPでありながらも、全く違った意味を持つことになってしまった「subliminal」における表題曲のPVで社会への警鐘を鳴らすようなメッセージ群やフレーズがカット・アップされ、そこに鋭角的なビートが挟んでくる展開にはマシュー・ハーバートがときに表象するような怜悧な反抗を感じさせるとともに、マーシャル・マクルーハンが流布したような警句とは距離を置き、「メディア」は決して「メッセージではない」、という受け手側の身体性への作用に関して自覚的になっているのが伺えた。マクルーハンが指すメディアは一概にテレビや書物やネットといったものばかりではなく、もっと広汎な装置的な意味を孕む。そうなると、音楽だってメディア「概念」を帯びてくる。その「概念」に意識裡ではないアーティストは無規則な内容面での懐疑より、メタ・ポーズ内での意味への構え、理論武装への解除意識に躍起になってしまう転倒が起きる可能性が出てくる。つまり、社会的に再編成・組み入れられたシステムとしてのメディアのレベルの度を考えると、個の個たる発言も巨大な発言力を持つ機関のステイトメントも均質に「形式化」(形骸化ではなく)されてしまった結果、その波及の幅より原基的な言語自体の作用/非作用に対して"降りてゆく"ことになるからだ。そこでは、クルト・レヴィンやクルト・コフカの残影やゲシュタルト(Gestalt)がアフォードされるだけの可能性を帯びる。今、何かに対して「NO」を言うためには、どこまで「YES」の周辺への思考的な文脈を冷徹に敷けるのか、が問題になってくる。

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 では、「メッセージはメディアに孕まれない」―そんな反転を突き抜けるような作品として『liminal』が孕んだアブストラクトなささくれは、"『LOVEBEAT』以降の沈黙の先に、更に沈黙が残っていた"途中経過を示しているような気もしてくる。幾らソリッドに音をシェイプ、デザイニングしていっても、行間から立ちのぼるメロウネスも彼の魅力だったが、今作に至ってはそういった要素もほぼ排除されており、よりクリアーにハイファイに組み上げられた音の設計図の中で具体的なメロディーやフックのある何かは聴こえ辛くなっており、どことなくダークなトーンが引き延ばされている。しかし、取っ付き難く、分かり辛いという訳でなく、PoleやDeadbeat辺りのジャーマン・エレクトロニカとの相似も感じさせる暗みも感じるし、テックハウス、クリックへの近接も見える。

 前半2曲は、『LOVEBEAT』からの地続きの印象も受けるが、マシン・ビートに不穏なノイズが混じってくる鋭さを持つ3曲目の「Natural」、オブセッシヴな電子音がミニマルに刻まれる4曲目の「Bluelight」、アブストラクトなサウンドが展開される5曲目の「Boiling Point」の流れは今作の肝と言ってもいいだろう電子音が饒舌に現代の景色を縁取るという視角の「新しさ」がある。

 8曲で40分にも満たないというと、奇遇にもレディオヘッドの最新作『The King Of Limbs』とのシンクロも感じさせるが(実際、音響工作の緻密さ・精度で言うと、似ている箇所もある)、あの作品が「語らないことを、語る」意味を孕んでいたとしたら、これは「語るべきことを、語らないでいる」"含み"から滲み出る空間によって、聴き手・受容サイドの判断/認識の留保や前段階を揺さぶり、刺激する。そして、これまでも彼の推進力となっていたストイシズムと美学が、根に宿るパンク精神によって押し出された形で、シリアスな表情が極まった結果、2011年という年におけるビート・ミュージックの一つのメルクマールとして必ず通奏低音になってくるだろう重みを感じ取ることができる。

 インタビューでは、既に「次を作りたいという気持ちが強い。」という言葉を残しているように、この作品の8曲で見渡せる全体像よりも、まだ総てが途中であるという行方の果てが個人的に既に気になってもくる。人間がギリギリ知覚出来るという領域という"liminal"という言葉そのものが示すとおり、ここには喜怒哀楽であったり、感情の機微というものを人間が名称化する前の、または、社会の装置性や要請によって名称化させられてしまう前の、形容できない靄が纏わりつくような情動の何かに向けてフォーカスがあたっている音像のせいか、聴いた人たちがこの作品越しに光が見えるにせよ、暗闇が見えるにせよ、それ自体も感覚のエラーなのかもしれないし、何らかの作為によって成り立っていることなのかもしれない、と"自分の中の何かに名前がつくことで、落ち着いてしまう領域"から逃れさせる。

 だからこそ、逃れた先として、ここからまた始まってゆく言葉や感情があるなら、まだ音楽と呼ばれるものにも未来があるような気もする。

(松浦達)

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noah.jpg 08年の1st『Peaceful,The World Lays Me Down』は、レディオヘッドの『Pablo Honey』のようなものじゃないか、としみじみ思う。

 デビューから間もないころのノア・アンド・ザ・ホエールはUKアンタイ・フォークの中心としてメディアにかつぎ上げられた。しかし、バンドの中心人物チャーリー・フィンクは恋人ローラ・マーリングとの別れで悲しみの底へ深く沈みこむ。傷心の結果作られたのが、09年の2nd『First Days Of Spring』だ。そこで鳴らされていたのは力なき独白と洗練されたメロディ。以前の面影を一切残さない音楽性の変化と格段のクオリティの向上にただただ驚いた。

 その後、絶望の向こうに彼らは何を描くことが出来るのか? その答えがこのアルバムだ。『地球最後の夜』――。SF映画を思わせる仰々しいタイトルだが、このアルバムのテーマは何度も繰り返される「LIFE」。前作とは打って変わりはつらつとした歌声と、気高いゴスペルのコーラス、エレクトロやグロッケンシュピールにヴァイオリンなどを導入し清涼感のあるサウンド、ロックを取り込み獲得したダイナミズムと力強さ・・・。フォークバンドだったころの面影は微塵もない。リスナーが感じるのは、たくましい生命力だ。このアルバムの制作に当たって影響を受けたとチャーリー・フィンクが公言するのは、トム・ウェイツやトム・ペティ、ジェネシスなど。複雑ながら独自のスタンスで生き抜いてきた先達の音楽に触れ、チャーリーが選んだのは、生きることだったのだろう。

 フジでの初来日が決定したが、今の彼ら以上に、地震で落ち込んでいる日本に生命の息吹を吹き込むのに相応しいアクトはいないはずだ。どのようなステージになるのか、今から楽しみでならない。

(角田仁志)

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lykke_li.jpg リッキ・リーの名前、もしくは声を初めて聞いたのはいつだろうか。私はプライマル・スクリーム『Beautiful Future』の「uptown」「the glory of love」におけるバッキング・ボーカルでその声を初めて聴いた。次はロイクソップ『Junior』での「Miss It So Much」と「Were You Ever Wanted」における客演であった。このように彼女の声に初めて触れたのが本人の音源ではなく、アーティストの客演や、リミックスであったという人は多いのではないだろうか。他にも彼女が客演している曲、リミックスされたものを挙げると、カニエ・ウエスト、N.A.S.A.、サンティゴールドなどと供に「ギフテッド」を収録、TV オン・ザ・レディオの中心人物デイヴ・シーテックは彼女の「I Follow Revers」をリミックスし、「Little Bit」のドレイクによるリミックスなどもある。また、フレンドリー・ファイアーズは彼女の「I'm Good, I'm Gone」をカヴァーしていて、彼女の才能が非常に大きな規模で受け入れられていることがわかる。また、彼女自身、他アーティストの曲のカヴァーもおこなっていて、カヴァー曲にはキングス・オブ・レオン「Knocked Up」、ア・トライブ・コールド・クエスト「Can I Kick It?」、リル・ウェイン「A Milli」、ヴァンパイア・ウィークエンド「Cape Cod Kwassa Kwassa」などがあり、彼女の音楽的関心もまたジャンルレスであることが窺われる。

 そんな彼女は1986年にミュージシャンの親の元に生まれ、世界の様々な場所を転々と引っ越しを繰り返し、越境を繰り返した。ニューヨークに流れ着いた彼女は、そこで2008年にデビューアルバム『Youth Novels』をリリースした。まずは少しだけこのアルバムの音楽性について言及しようと思う。しかしその前にいささか唐突ではあるが、あるギタリストの発言の引用をする。

「彼はミニマリストなんだ。ギターのオーヴァーダブとかドラムスの音をいろいろいじったりすることを嫌う。かつビートにこだわるんだ。それと、ベース。その2つが決まればかなり満足するんだ、俺たち。例えば他のプロデューサーだったら何百と音を入れるようなところに、彼は2つ3つを入れる程度。それが良いんだな。それにユーモアのセンスが最高さ。スウェーデン風の不思議なユーモア、俺たちそれが特に気にいったんだ」

 これはプライマル・スクリームのギタリストであるアンドリュー・イネスが、彼らのアルバム『Beautiful Future』の一部の曲をプロデュースしたビョ―ン・イットリングについて言及したものであり、イネスの言葉はビョ―ンのプロデュースについての特徴を巧みに言い表している。実はリッキ・リーがリリースしてきた2枚のスタジオアルバムも彼のプロデュースであり、イネスによるビョ―ンのプロデューサーとしての特徴についての言及は彼女の2枚の作品においても的を得ている。

『Youth Novels』は清楚でガーリーな、それでいてどこか小悪魔チックなところもある彼女のボーカルがビョ―ン・イットリングによるダンサブルでミニマルなアレンジの上で踊る良盤である。この作品は当時、21歳だった彼女の赤裸々な想いを書き連ねた、まさしく「青春小説」である。しかし、それは思春期特有の甘酸っぱさとはかけ離れており、どこか物寂しげで、時に暗く沈む。

 冒頭で《愛はハーモニー 欲望は鍵 愛はメロディー 今、私とともにそれを歌う》(「Melodies & Desires」)とテルミン、シンセサイザー、ピアノ、アコースティックギターがごく控えめに奏でる陰鬱なサウンドの中、彼女は呟く。アルバムの幕開けとして最適なナンバーであり、この曲がアルバムの雰囲気を完全に決定している。 続く「Dance Dance Dance」はダンサブルなベースが孤独に響き続ける中、「ダンス」という言葉から連想する楽しさなどは微塵も感じられず、誰もいない部屋の中で一人ぼっちでダンスしている彼女の姿を思わず連想してしまう。「Let It Fall」のように失意の中、わずかにドリーミーな瞬間が差し挟まれる曲もあるのだが、その「ドリーミー」はどこか夢想することへの諦念のようなものを含んでいる。60sにおけるガールズ・ポップを彷彿とするナンバー「My love」では彼女が付き合ってきたであろう男性たちに《どこに行ったの?》と問いかけ、《私の愛する人はきっとやってくる》と歌う。「Tonight」では《私の瞳よ、乾いて》と歌い、「Little Bit」では《私はあなたを少しだけ愛してる、あなたが私を少しだけ愛してくれるならね》と歌う。「Everybody But Me」にでは《みんな踊っているけど私は踊らないわ》と自分以外の人間と自分との間に広がる絶望的なまでの差異に戸惑っている。そしてそれほどまでに辛い思いをしてでも彼女は、静かなピアノの音色にか細い、今にも千切れてしまいそうなウィスパリングボイスを優しく乗せ、《私は青春を失いたくない》と「Time Flies」で歌う。

 今回はこのアルバムのレビューではないのでいくつかの曲をざっと紹介するにとどめて置くが、それだけでも十二分に彼女の1stアルバムにおいて基調となっている雰囲気を読みとってもらえたと思う。このアルバムの全てのナンバーが青春は喪失や寂寥感のそれであると囁き続けていた。

 ここで、このレビューで紹介する『Wounded Rhymes』について説明しようと思うのだが、その前に少しだけ彼女がこのアルバムを発売する前に発表されたモーゼズ・バークソンが撮ったショートフィルム『Solarium』について触れなければいけない。なぜなら彼女はこの映画の出演者であり、この映画は『Wounded Rhymes』製作に大きな影響を与えているからである。彼女は失恋、それに加えて度重なるツアーへの疲れから、友人とともにキャメラを携えて砂漠へ向かった。そこにある大きな太陽と鏡が(映画内には多くの鏡が出てくる)、「自分自信のエゴ、思想、期待、取り除くのが困難な様々な想い」を可視化する助けになったらしい。ジャック・ラカンを引くまでもなく、いつの時代も人々は鏡に想像的な己を映し出すのだ。このモノクロームのショートフィルムにおけるリッキ・リーは『Young Novels』において我々が想像したキュートでガーリーな彼女は存在せず、エロティックに体を揺れ動かし、艶めかしく鏡に摺りつけ、なにか怨念めいたものを体中から噴出させている彼女がそこにはいた。そして、この彼女の変化は『Wounded Rhymes』においても継続しているのだ。このアルバムにおいてまず印象的なのは前作におけるセンチメンタルなシンセ・サウンド、ロリータ・ヴォーカルはそのままだが、際立って鼓膜を刺激するのはビョークさえ想起させる野性味溢れるブードゥーでダンサブルなドラムであった。このダークで躍動的なビートが本作におけるトーンを形作っている。

 彼女は前作を《愛はハーモニー 欲望は鍵 愛はメロディー 今、私とともにそれを歌う》という言葉とともに始めたが、彼女はこのアルバムを雄々しく打ち鳴らされるドラムに乗せて《私は若者は知らないと言った 若者は痛みが無いことを知っている》と始めた。ここでも彼女が歌うのは前作と同じ、「若者」についてである。そしてそれは「痛み」についての物語であると彼女は歌う。続く「I Follow Rever」では《海の底まであなたについてゆくわ》と歌い、「Love Out Of Lust」では《あなたの腕で死んだ方がマシ》と歌う。前作よりもラウドで強靭になったビートに比べ、歌詞においては前作よりも相手の男性に依存してゆくようなものが多く見られるのは興味深いところだ。続く「Unrequested Love」ではムードが一転してカントリー風の歌唱が柔らかに爪弾かれるギターとともに緩やかな雰囲気に満たされる。60sのガールズ・ポップ風味のバックコーラスが聴こえるのもムード演出に一役買っている。しかしそこで歌われるのは「報われない恋」についてである。5曲目はリード・シングル「Get Some」。肉体的でダンサブルなビートに乗せてリッキ・リーが言葉にメロディを纏わせず、ぶつきりのまま、その想いをストレートにぶちまけるなんともアグレッシヴなナンバーである。これは村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』に触発されて書かれた曲であることが知られているが、歌詞のほうはかなりダイレクトにイヤラシイことになっている。本人曰く「みんなエロいっていうけど、これはパワーについての曲なのよ!」らしいが、やっぱりどう読んでもこの歌詞はエロい。でも彼女は私のような論者に対しては「女が何かするとすぐに神経質にセックスのことだと言ってくるのよね」と言っているらしい。本当にごめんなさい。両方とも英新聞『ガーディアン』からの引用です。

「Rich Kids Blues」はハモンドオルガンが鳴り響く中、リッキがどこか粘着質な歌唱法で《私は金持ちの坊やたちのブルースを得た あなたには関係ないけどね》と歌う。続く「Sadness Is A Blessing」はこのアルバムのタイトル『Wounded Rhymes』というワードをその歌詞に含む曲であり、フィル・スペクターを彷彿とさせるアレンジがその物悲しい歌詞に静かに優しく寄り添う。この曲は彼女の失恋についての曲である。《毎晩 私はわめきちらし、求め、乞う。彼に行かないでくれと》そして、彼女はここで彼女にとっての「成長」を歌う。《悲しみは祝福 悲しみは真珠 悲しみはボーイフレンド ああ悲しみよ 私はあなたの女よ》。そう、その「成長」とは悲しみを受け入れることであった。1stアルバムから長い道のりを経て彼女はこの答えを見出した。大袈裟な物言いであることは十分に承知しているが、それでも1人の女性として、リッキがこの想いを吐き出したことに僕は静かな感動を覚えた。その答えに辿り着いた彼女は次の曲「I Know Places」でどこか達観したように《私は私たちのゆける場所がわかるの》と静かに、溜め息を吐くように歌い、「Jerome」ではジェロームに向かって《今、あなたは私のもの もう一度私のものになったの 誓いなさい あなたは決して私のもとを離れないと》と、その身勝手な想いのたけを口にする。最終曲「Silent My Song」。彼女はこのアルバムが「痛み」についての物語であるということを1曲目で宣言したと私は書いた。この最後の曲では彼女はやはり「痛み」について歌う。《背中の中に針が入っていて 私の血管と魂を切り開き そのことが私をリラックスさせる》。このマゾヒスティックな表現から読みとることができるのは彼女が青春、もしくは若さというものが徹頭徹尾、痛みや悲しみによって貫かれていると考えているということである。

 無論、彼女がこのアルバムで辿り着いた答えは何の目新しさも無い。しかし、ポップ・ミュージックが恋愛を語るときにダイナミズムを帯びるのは、決まって「愛」を得る時よりも、それを失った時である。少なくとも私はそう思っている。リッキ・リーは「失われた愛」を「傷ついた韻」で歌った。この事実はポップ・ミュージックにおいて一人の才能あふれる歌姫が誕生したことを告げる。

(八木皓平)

*日本盤は4月20日リリース予定です。【編集部追記】

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rem_.jpg 今でも大好きなバンド、大切なアルバムがたくさんある。いつ、どこで、どんなふうに出会ったのか、僕はそのひとつひとつを思い出せる。ちっぽけとは言いたくないけれど、壮大とも言い切れない人生の中で出会うべくして出会った音楽。今そばにいてくれる誰かのように、今すぐ思い浮かぶ誰かのように、それはかけがえのないものだ。一度でも音楽に心を奪われたことがある人には、わかってもらえるはず。今、そんなことを考えながらR.E.M.にとって15作目となる『コラプス・イントゥ・ナウ』を聞いている。

 僕はR.E.M.の音楽を聴きながら育った。軽快なビートを刻むスネアと早口言葉みたいな歌。「レナード・バーンスタイン!」でのブレイク。少年が廃屋でスケボーしながら、犬と遊んでいた。ナイーヴすぎると思うけれど、自分に似ている気がした。「It's The End Of The World」だなんて、最高じゃないか! 1987年、僕はそんなふうにR.E.M.と出会った。それは今、全然笑えない皮肉かもしれない。でも、曲のパワーは初めて聞いたあの時のまま。相変わらずカッコいい。やっぱり"I Feel Fine!"って叫びたくなる。

 テレビを消して、ジャケットを眺めながら『コラプス・イントゥ・ナウ』を聞く。そこにはオリジナル・アルバムとして初めて3人の姿が写っている。腕を大きく振り上げたマイケルがいつになく頼もしい。「Discoverer(発見者)」「All The Best」「Every Day Is Yours To Win」など、ポジティヴなタイトルの曲が並ぶ。『New Adventures In Hi-Fi』以降、モノクロームや淡い色彩をイメージさせる曲調が多かったけれど、ここではすべてがカラフルだ。力強いマイケル・スタイプの歌声。ピーター・バックは、繊細なアルペジオと豪快なフィードバックを自由に操る。マイク・ミルズのコーラスと発想豊かなベース・ラインが優しく彩りを添える。躍動感、そして鮮やかな生命力。「Uberlin」でマイケルは歌う。

《I know I know I know what I am chasing / I know I know I know that this is changing me》

 インタビューでも言及されているとおり、"Change"という言葉が今、いくつもの意味を持って響く。そして現在進行形の描写が、現実と重なり合う。僕たちが追い求めているもの。この先に待ち受けている変化。一曲一曲が投げかける問いに、まだ答えは見つからない。不安を声に出してもいい。可能性に耳を傾けてもいい。2011年3月、僕はこのアルバムと出会った。"Remember Every Moment"という言葉を胸に刻む。そのことをいつまでも忘れないように。

(犬飼一郎)

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morning_teleportation.jpg 震災が起きてからは多くの方たちと同様に心落ち着かない日々がつづき、音楽なんてとても聴く気にならない時間を過ごしたあと、ちょっと持ち直してからよく耳にしたのがR.E.M.で(こういう人は結構多かったのでは?)、それからティーンエイジ・ファンクラブの『Grand Prix』、あとはモデスト・マウスの「Float On」をYouTubeで繰り返しずっと聴いていた。『バッド・ニュースを好む人へのグッド・ニュース』は紛れもなくすばらしいアルバムだが、アルバム全体を聴き通すのはそのときどうにも億劫で、何度もリピートしながら、力強く躍動するリズムと《Alright, don't worry, we'll all float on.》というフレーズをぼんやりしながら頭に浴びせた。昨年、海外の音楽ブログを賑わせた23歳の俊英、ブラックバード・ブラックバード(今年に入ってアルバム『Summer Heart』が日本国内でもCD化もされた)の手によるこの曲のチルウェイヴ・ヴァージョンがこれまた出色の出来で、次々と流れていく悲惨なニュースやデマやヒステリックへのほどよい緩衝材として機能してくれた。

 個人的な話は一区切りするとして、文人肌でありながら獰猛で無骨なモデスト・マウスのリーダー、アイザック・ブロックはすばらしきミュージシャンであると同時に敏腕A&Rマンであり、これまでにもいくつかの才能を掘りあててきた。その代表格といえるのはウルフ・パレードだ。アイザックもプロデュースを務めた05年の『Apologies to the Queen Mary』は破格の傑作だったし、彼らはいまやカナダのインディー界隈とサブポップを代表するバンドまで成長した。アイザックは2005年に自身のレーベルGlacial Paceを設立。 Love As Laughter、Mimicking Birdsといった良質なバンドが籍を置いている。ポートランドで活動する5人組、Morning Teleportationによるこのデビュー作『Expanding Anyway』も同レーベルからのリリースで、バンドはモデスト・マウスのツアーで前座を務め、プロデュースもやはりアイザックが担当...まさしく秘蔵っ子である。

 一聴して印象的なのが、初期のモデスト・マウスを彷彿させるゴリゴリとしたギター・カッティングに、爆発と収束を繰り返す極端な転調で、異様なハイテンションはアルバムの最後までずっと続く。さまざまな楽器を持ち替えながらオーガニックに絡む演奏はローカル・ネイティヴスらに通ずる現代的なマナーに則っているが、音の方はもっと野蛮で、ジャム・バンド化したビルド・トゥ・スピルとでもいうべき野放図なスケールに到達している。

 ヒッピーライクで悪趣味なPVも一見の価値ありなタイトル曲「Expanding Anyway」に顕著な、扇情的かつベタベタにメロディアスなギターの響きと威勢のよい掛け声がアルバムの主成分だが、かたや9分超えの「Whole Hearted Drifting Sense of Inertia」ではシンセが跳ねたり宇宙的に拡散したり、「Banjo Disco」ではバンジョーを駆使してディスコ・ロックしてみたり(まんまだ)、目まぐるしく変わる光景を追いかけているうち頭が痛くなるほどの暴れん坊っぷり。腹を抱えて笑うアイザックの顔が目に浮かぶようだ。悪く言えば足し算しか知らない子どもによる音楽だが、右へ倣えの世の中でここまでブチ切れていれば、少なくとも僕は文句ない。90'sオルタナ好きにもフジロッカーにも積極的に推薦したい痛快な一枚。ぜひもっと注目を浴びてほしい。

(小熊俊哉)

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brave_irene.jpg ローズ・メルバーグの声を、私は「可愛い女の子が頬杖をつきながら、けだるそうに唄うような声」と(勝手ながら)表現している。特別キャッチーに唄っているわけではないのだが、彼女の声は不思議とすぐに判別できる。ソフティーズの音源を初めて聞いた時も、すぐに「ローズ・メルバーグ相変わらずいいなぁ」と、疑いなく絶賛し、ソロ作品の時も瞬時に頭が理解した。彼女の唄うメロディが共通して、爽やかでありながらどこかセンチメンタルに響くものばかりだから、というのも起因しているかもしれない。
 
 ブレイブ・アイリーンは、タイガー・トラップ、ゴー・セイラー、ソフティーズなど様々なポップ・プロジェクトを作り上げたローズ・メルバーグがメインとなる、ガールズ・インディー・ポップバンド。ソフティーズやソロ名義の時代には、それまでのバンド編成とは異なり、アコースティックでソフトな作品ばかりをリリースしていた。本盤は久しぶりのバンド編成にて、ジャングリーなギターが鳴っている。彼女自身もこれまでの経験を経て(というか齢を重ねて)、バンドの音こそ活動初期に似通っているが、けだるい唄い方はソフティーズの頃のそれである。また、ローファイな音色で終始唸るオルガンが、今までのプロジェクトにはない味を出している。
 
 パンクの要素はなくなり、純粋かつトラディショナルなC-86直系のインディー・ポップへと昇華しているが、テンポは遅くなりながらも爽快感は増している。女の子を象徴するようなローズ・メルバーグの声を聴くと、無性に旅に出たくなる。

(楓屋)

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serge_gainsbourg_ex.jpg今年の3月2日でのセルジュ・ゲンスブール没後20年を受けて、にわかに彼の周辺が盛り上がっている。日本でもジョアン・スファールの初監督作品の評伝映画『ゲンスブールと女たち』も公開されることになったり(そのサントラもゴンザレスやPHILIPPE KATRINE等が参加した充実の内容になっている。)、音楽家としてのキャリアを纏めた20枚組ボックス・セット『Integrale 20ieme Anni』も出るなど、俄かに世界的に賑やかしくもなってきているが、その中の一つ、このブラッド・スコットとその仲間からなる6人組の英仏の混成バンドTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEは外せない。リーダーの英国人であるブラッド・スコットはアラン・バシュング、ジャック・イジュラン、アルチュールH他でのバッキング・ベーシストなどで活躍し、また、マルチ・アーティストの面からも名を馳せた、生粋のセルジュ・フリークでもある。実際、彼はセルジュの60歳前後の晩年期にテレビ局の楽屋裏で会い、話をしたという逸話も残っている。

 セルジュ・ゲンスブールの曲を「カバー」するというのは容赦なくそのアーティストの才覚が試される。何故ならば、シャンソン、ジャズ、スウィンギン・ロンドン、アフロ・パーカッション、オーケストレーション、ロック、ポエトリー・リーディング、レゲエ、ニューウェーヴ、ヒップホップと多様な音楽様式を表層的にドライヴしてきた彼には都度の「断線」があるからだ。それを繋いだのは、あの気怠い声であり、沈み込むような詩情と、時に軽やかな言葉遊びのリズムだったと言える。それは、セルジュの認証印が押されてこそ成立するものだったからと言えるならば、周縁をなぞるだけでは、より実質から遠くなってしまうというイロニーがあった。稀代のトリックスターであり、ノマド精神を持った彼の残影を「追いかける」にはどんな形にしても、容易ではない。その中で、今回のTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEはある程度の緩さも含めて、的確な形での「近接」を果たしていると言ってもいいかもしれない。近接しているからこそ、濃厚な彼自体へ遠心力を持ち、もはや耳馴染みの曲でも新しく感応出来るのは嬉しい。

 バンド名があまりに"そのまま"過ぎて、シニカルな視点を持ってしまう人もいるかもしれないが、演奏スタイルはガレージ・バンドのようなラフでファストなものに終始しており、全く衒いがなく、近年、溢れるセルジュのカバーの中でも比較的、ストレートな"抜けた"ものになっている。女声ボーカルを受け持つセリエ・スコットの声もブリジッド・バルドーやジェーン・バーキンが持っていたアンニュイさとは程遠く、至って朴訥と健全に絡んでくるのも面白い。そこで、どのような曲が選ばれているかというと、1968年の『INITIAL B.B.』から「Comic Strip」、「Initials B.B.」、「Bonny and Clyde」、1961年の『L'Étonnant Serge Gainsbourg』内の「Chanson de Prévert」といったメジャーな曲から、やはり外せないオーケストレーションとポップの折衷で雄大な高みを極めた1971年の『Histoire de Melody Nelson』から「Valse de Melody」、「La Ballade de Melody Nelson」という二曲。また、1962年の『No.4』の 「Requieme pour un twister」、1967年の『Rock Around The Bunker』の「SS in Urguay」といったマニアックな曲など、巷間のトリビュートとは一線を隔したセンスが貫かれているのは流石だともいえる。

 中でも、特筆すべき曲としては、アコーディオンを取り入れた軽快なロック・テイストに生まれ変わった「Chanson de Prévert」、原曲への愛慕に溢れたダークな空気感が纏うダウンビート「La Ballade de Melody Nelson」になるだろうか。06年の『Monsieur Gainsbourg revisited』というトリビュート・アルバムでのジャーヴィス・コッカ―による「Je suis venu te dire que je m'en vais」の英語版「I just came to tell you I'm going」のカバーで、タメのきいたリズムにブラッドの声がこもったトーンで映えているのにも印象深い。近年、リミックス、ダブ、エレクトロニカ、ロック方面など多種多様なアプローチが彼の数多の曲に関しては為されてきたが、それでは掬えない部分がここではフォローされているような感じさえあり、寧ろセルジュ・ゲンスブールという巨像(虚像)に対してはこれくらいの正攻法でこそ新たな意味が生まれてくるような気がする内容になっている。

 フランスの社会学者ガブリエル・タリドの『模倣の法則』に沿えば、「社会とは、模倣によって、あるいは反対模倣によって生み出されたさまざまな類似点を、互いに提示し合っている人々の集合」と言え、セルジュ・ゲンスブールという人は社会への挑発とカメレオンのように多くの要素を取り込み、模倣体としての在り方を繰り返した結果、社会の〈内〉に閉じ込められるようになってしまった悲劇の人物でもあった。「すべてに成功したが、人生に失敗した」と彼が言うのは、結局は「逃げ切ることができなかった」自分へ向けての絶望にも近い何かであったのかもしれないと思う。そうすると、彼の模倣であれ、反対模倣であれ、様々な類似点を互いに提出し合うことで、より彼の思想の模倣は表現の模倣に先行し、目的の模倣が手段の模倣に先行してしまうという危惧を孕んでくる。それに対して、このTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEが対象として置くものは、模倣が人間の内側に留まるものではなく、外部へと開放の為の導線を仕掛けてゆくものであるということの証明をしようとするものである気もする。皆の内側に根付いた、セルジュ・ゲンスブールという幻像を引っ張り出し、現代性の文脈下でリアルに額縁におさめたという点は評価できる佳作だと思う。

(松浦達)

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大変、残念かつ申し訳ないお知らせです。

明日12日(土)深夜から翌日早朝にかけて開催が予定されていたラウンジ・クッキーシーン第2回ですが、こんな状態になってしまったため(もちろん地震/津波のことです...)、「みんなで底抜けに楽しもう!」という気にどうしてもなれません。

来ていただけるつもりだったみなさんも、多かれ少なかれ同様と思います。

いろいろ悩みましたが、上記のような理由で「中止」とさせていただきます。楽しみにしてくださっていたみなさん、本当に申し訳ありません m(_ _)m

なお、今回は、「レディオ・クッキーシーン」の「準備放送」として、ユーストリーム配信もおこなう予定で、それは本日「発表」するはずでした。

「準備放送」のほうは(発表前に:汗)中止となってしまいましたが、DJイヴェントと合体させた「レディオ・クッキーシーン」公開生放送は4月から、月1回づつおこなっていく予定です。

詳細は、また当サイトで発表させていただきます。

そんなことより、なにより、ご本人もしくはご家族もしくはお知り合いが地震/津波の被害に遭われた方々のことが気がかりです...。こんなふうに言うことしかできず、本当に心苦しいですが、そして本当に大変とは思いますが、どうか、がんばってください...!

2011年3月11日23時33分(HI)

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bibio.jpg 高度市場原理主義が「大きな子供たち」の遊び場を用意したとしたら、それはウォルト・ディズニーやハリウッド的なメガロマニアな仕掛けが組み入れられた余地ではなく、集合的な自意識の肥大化の果てのグーグル化した何かだったのかもしれない。そこでは、おそらく、ベートーヴェンやモーツァルトの近代的な美しさよりもシューベルトのピアノ・ソナタのようなくだくだしくも、少し曖昧な自由が似合う。「曖昧な自由」とは、ラカンディアンが夢想する「身体的統一性」が確保出来ていない状況との近似・連鎖さえも包含してくる可能性がある。そこで、「大人の大人」は子供の振りをして躍ってみせるのか、「子供の大人」は頭を抱えてみせるのかの二分軸に分かれるとしたならば、その転倒をはかるのが「ダンス」の意味と言える可能性はある。

 ダンス自体が自由を赦す訳ではなく、自由側がダンスを受け入れるとしたならば、BIBIOことスティーヴン・ウィルキンソンが09年の前作『Ambivalence Avenue』におけるフォークトロニカとドープなヒップホップ・ビート、ソウル・ミュージックのガジェット的な意匠を纏ったエクレクティズムからより進んで、一気に多様性を増した今回の『Mind Bokeh』で想定するのは、大きな子供たちの遊び場としてのダンスフロアーなのかもしれないところが興味深い。そして、この音にはヘドニズムや安易なエスケーピズムの要素よりも、もっとノスタルジアの中で音が過去から今に向かって鳴っている気さえする。

 紡がれる不規則と変性を是とするビートと多彩な電子音、そして、カット・インしてくる加工された人間の声を含めた全体が醸す甘美な違和。ワープ直系のセンチメントもフレンチ・エレクトロにも繋がるようなスノビズムもブラジル音楽のリズムを咀嚼したムードに帯びる楽天的な明るさもIDMシーンへの批評眼も、横断するような凛然とした意志に貫かれており、「大きな子供の一人」として自意識の箱庭の音楽として、多くの人を巻き込もうとするしたたかな優しさがこの作品には過去以上に溢れている。"ぼかし"という日本の概念を反映させたとの彼の言葉の通り、サウンド・レイヤーの重なりがより優美になっており、生音の加わり方も淡く、独特の色気も漂う。その色気は、チルウェイヴを牽引するトロ・イ・モワの新作とも繋がるところを感じる。また、70年代のサウンド・メイキング、つまりクリアーでソリッドな透き通った音響工作と、スクリッティ・ポリッティが持っていたようなリズムのバネを援用し、ロマンティックな温度を保ち続けることに成功しているのも特筆すべき点だろう。

 主な曲に触れると、3曲目の「Anything New」ではアヴァランチーズが今、新しい音を出すならこういったものになるかもしれないという嬉しい予感がこもったスムースな雰囲気があり、6曲目の「Take Off Your Shirt」はフランスのジャマイカの曲と言っても不思議ではないだろうギターが響くラウドなものになっていたり、12曲目の「Saint Christopher」にはフォーテット『There Is Love In You』以降のオーガニックなIDMの系譜を更新してゆくようなソフトで幽玄な美しさがある。

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 ここには、「今」に絞られた音が提示されている。タイトルの『Mind Bokeh』というコンセプトも過去に頼らず、未来を予想しない、「永遠なる今」への対峙状態であると言うからして、その周縁の意味をハイデガーのいう存在論的差異を援用してより深く掘り下げて考えてみることは出来るだろうか。「あるもの」(存在者)は、「あること」(存在)によってその存在を可能することができる。「あること」がないのであれば、「あるもの」もあるものであることを、止めざるを得なくなる。だとすると、「あること」と「あるもの」、この両者の差異とはどうなるのか。加え、「あること」と「あるもの」の差異を見ている人間そのものへの視座も要ることになる。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在であり、ハイデガーはこれを「現存在」と呼んだ。

 今回のスティーヴン・ウィルキンソンは「現存在」として、「あること」、「あるもの」の差異をブレイン・ストーミングのように音でリプレゼント(/強調)しようとしており、曖昧な自由の中で、攪拌された結果、この作品は「今」の枠を外れ、過去から今に響くノスタルジアを醸すと同時に、"今という過去に進んだ"感触を残すことになったというのは、面白い。

(松浦達)

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crookes.jpg 昨年くらいからイギリスではギター・バンド復権の動きが着々と見え出してきているが、多くのバンドが溢れんばかりに愛や青春(に伴う痛み)をレイトバック気味なロマンティシズム全開で高らかに歌い上げるのは、かの国の伝統なのだろうか。シェフィールドで08年に結成された新進気鋭の4人組、ザ・クルックス(The Crookes)も文学的で情緒豊かなうたを聴かせるギターポップ・バンド。メンバー各自の髪のサイドの刈り上げっぷりやシャツの着こなしなど、総じて爽やかなルックスからもそれは見てとれるし、実際に図書館をまわるライブ・ツアーも過去に敢行しているみたいだ。

 そんな彼らの公式ページにはフレーズの引用がふたつ掲載されていて、これがバンドのキャラを掴みやすくしている。ひとつは『西部戦線異常なし』で知られるドイツの作家、レマルクの言葉。"青春の風景を初めて歩を進めるようにさまよい、ぼくらは迷子になっている"とでも訳そうか(この句はアルバム封入のブックレット裏表紙にも掲載されている)。もうひとつはZachary Condonなる人物によるもので、お気づきの方もいるかもしれないがベイルートという名義で彼は有名だ。彼にとっての代表曲「Elephant Gun」の歌詞からの抜粋で、内容そのものもそうだし、若きベイルートが東欧の音楽・文化に惚れこんで自身の幻想を膨らませていった姿にザ・クルックスがシンパシーを抱くのもとてもよく理解できる。ベイルートがそうしたように、彼らは50~60年代のオールド・ポップスやC86世代ポップ・バンドへの偏愛をみずからの音楽に強く反映させている。

 すでにリリースされていたシングルやEPで日本も含めた音楽ファンの注目を集めていた彼らの、待望となるフル・アルバムが本作『Chasing After Ghosts』だ。MySpaceの「影響を受けた音楽」欄にもアズテック・カメラやアイシクル・ワークスなどの名前が堂々と載っているが、ネオアコ系ギターロックの流れを大きく汲んだ軽快でジャングリーな演奏と抑揚の効いたドラマチックな歌唱法が特徴的で、ハウスマーティンズをバックにモリッシーが朗々と歌う図が脳裏に浮かんでくる。余計な重ね録りに極力頼らないライブ感のあるバンドサウンドも小気味よい。二曲目の「Chorus Of Fools」に顕著な、キラキラしたギター・カッティングを軸に据えた骨太かつ柔軟なアンサンブルが持ち味で、疾走感を前面に押し出してくるかと思いきや、スミスの「I Know It's Over」を彷彿とさせる陰鬱ぎみで大仰な曲が出てきたりと(「The Crookes Laundry Murder,1922」)引き出しも多いうえに、むせ返るほどおセンチで胸焦がさずにいられない瞬間の連続だ。朗らかなコーラスにカウペルの音まで聴こえてくる躍動感タップリな「Bloodshot Days」が本作のハイライトだろうか。バウンシーなリズムやトロピカルなムードに乗せて《"ひざまずいてくれ"と彼は言う/ああ降りかかってきた血のにじむような日々》なんて言葉をリフレインさせるあたり、けっこうシャレがきいていると思う(PVのアニメーションも凝っていてイイ感じ)。
 
 瑞々しくメロディアスな曲の数々にノエル兄さんが熱を上げるのも納得で、シェフィールドの大先輩である元ロングピッグス(懐っ!)のリチャード・ハーレイとも交流があったり、我が道を歩みながら支持を大きく拡大しているザ・クルックス。個性という点ではまだ若干弱い印象も否めないが、これからさらにおもしろい方向に転がりそうな将来性もあると思う(関係ないけど、自分たちのファンを"Bright Young Things"と呼ぶセンスはすごく好きだ)。個人的にはそれこそモリッシーばりにもっとアクが強くなることを勝手に期待しつつ、英国産インディ・ギターポップのアルバムとしては処女作にして満点に近い内容と熱烈にプッシュしたい。あ、有志によるツイッターのこのアカウントも同時に推しておきます。こういう動きは最高に支持。

*@TheCrookesJPはバンドの呼びかけでできた公認アカウントで、他にブラジル、スコットランド、カナダ、USA、ドイツ、オランダ版がそれぞれ存在する...とのことです。情報ありがとうございます!【3/25 筆者追記】

(小熊俊哉)

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la_sera.jpg 本稿の主人公ケイティ・グッドマン(a.k.a Kickball Katy)は、09年に東名阪の来日ツアーも成功させたブルックリン発のガールズ・トリオ、ヴィヴィアン・ガールズでベース&コーラスを担当しているUSインディー界きっての別嬪さんだ。

 彼女はヴィヴィアン・ガールズの他に、2つのサイド・プロジェクトを抱えている。一つはキャット・パワーのツアー・バンド=ダーティー・デルタ・ブルーズの一員としても有名なグレッグ・フォアマン(ザ・デルタ72)と結成したAll Saints Day(オール・セインツ・デイ)。そちらはセルフ・タイトルのEPをリリース以来、目立った動きは見られない。そしてもう一つが、純然たるソロ・ユニットのLa・sera(ラ・セラ)である。オール・セインツ・デイがニューゲイザー&ネオ・サーフを鮮やかにマッシュアップしたような、良い意味で息抜き的な作風だったのに対し、本作『La Sera』では60'sフレーバーたっぷりのオールディーズやカントリー・ソングに到達。しかしそれは痛いほどに誠実で、「ルーツ回帰」の一言では片付けられない複雑な憧憬と、照れ隠しにも似たもどかしさを孕んでいる。

 インディー・ミュージック・マガジン『Under The Radar』に掲載された、Frank Valishによるインタビュー記事を読むと、ラ・セラはかなり突発的に立ち上がったプロジェクトのようだ(以下、発言部分は同誌のテキストを意訳)。昨年の冬、ツアーの合間に2週間のオフを取ったケイティは、ニュージャージーの実家に帰省。ところが、あまりにもヒマを持て余した彼女は、地元で100ドルのギターと、小さなオレンジのアンプを購入し、連日ソング・ライティングに励む。帰省中に書きためた楽曲は、いつの間にやら膨大な量に。「これ、アルバムが作れるんじゃないの?」---- そう閃いたケイティは、友人のBrady Hall(本職はフィルム・メーカーながら、ライターや音楽家としての顔も持つマルチ・アーティスト。ヴィヴィアン・ガールズのMVも撮影した)にデモ・テープを送り、最後の仕上げを依頼。バンドとの差別化として、「ファズの一切無い、きわめてクリーンなレコードを作りたかった」とのことで、プロデュースには概ね満足だったそう。

 全12曲で30分未満。Brady Hallが監督した、激スプラッターなビデオも最高に可笑しい「Never Come Around」や、「Devils Hearts Grow Gold」といった先行でリリースされていたシングル曲にも顕著だったが、狂おしいほどに美しく、ちょっぴり猟奇的で、ノスタルジック。ラストの「Lift Off」などドゥワップ調のナンバーもあるが、ギミックや新しさはほとんど感じられない。アコースティックな楽器の響きよりも、ヴィヴィアン・ガールズでもお馴染みの透き通ったコーラスのダブ&ループを駆使した白昼夢のようなサウンドスケープ。しかし、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ぶには少しチープで、60年代のラジオ・ヒット曲にも似た味わい深さがある。先日、念願叶ってLAに引っ越したケイティは、最近スタートしたばかりのラ・セラのライヴで、必ず「カリフォルニアから来たラ・セラです」と挨拶しているらしい。そう、「夢のカリフォルニア」------  すなわち、彼女は憧れのママス&パパスの世界に近づきたかったのだ。

 先述のインタビューによると、学校中がグリーン・デイに熱狂している傍らで、ママス&パパスの「Dream A Little Dream Of Me」をNo.1フェイバリット・ソングに挙げ、アーカンソー州出身のフォーク&カントリー・シンガーであるアイリス・ディメントを愛聴...という渋いティーン時代を過ごしていたらしく、おそらく音楽的な引き出しは多いはず。だが、今までそれを発揮するチャンスがなかっただけなのかもしれない。我々の想像以上に、ヴィヴィアン・ガールズにおいての主導権はキャシー・ラモーン(彼女もまた、昨年来日したWoodsのメンバーとThe Babiesなるサイド・プロジェクトを始めている)にあったのだろう。そんなケイティの青春時代に接近したアルバム誕生のきっかけが、久しぶりにホームタウンで過ごした日々だったのだから、音楽は面白い。それに、レーベルやメディアからのプレッシャーに気を病む必要もないので、『La Sera』がここまで正直でフラットな作品になったのだともいえる。そしてリリックは、恋愛真っ最中というより、もう終わってしまった恋についての言葉が目立つ。どうやら元カレについて歌った曲もあるそうで、そのご本人をオーディエンスの中に見つけた時は、相当気まずい思いをしたとか。とすると、「Never Come Around」のMVで男どもを血祭りにあげたのは、彼女なりの「恨み節」だったんじゃないか...? うーむ、やっぱり、もどかしい。今春リリースされる、母体ヴィヴィアン・ガールズの3rdアルバム『Share the Joy』(ディアフーフも移籍したポリヴァイナルから!)におけるフィードバックにも期待大。

 最後に。ケイティ・グッドマンは、その両腕にびっしりと掘られたタトゥーからは考えもつかないが、大学院で物理学の博士号を取得したほどの秀才でもある。それは決してバンドが売れなかった時の保険ではないだろうが、ミュージシャンとしての人生がそう長くないであろうこともほのめかしている。いや、ひょっとしたらショーン・マーシャルのように、ジャニス・ジョプリンやジョニ・ミッチェルのカヴァーなんかを披露しながら、マイペースで音楽活動を続けていくかもしれないけれど...。ラ・セラが、もしもスペイン語の「Que sera sera(ケ・セラ・セラ)」から拝借されているのならば、「なるようになる」 。とにかく今は、この刹那的な瞬間をリアルタイムでシェアできることが嬉しい。

(上野功平)

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crystal_fighters.jpg 突然ですが、皆さんにとって「ポップ・ミュージック」とはなんですか?

 人によっていろんな意見があるとは思うけど、僕はポップ・ミュージックを「自由で実験的な試みも可能な音楽」と捉えている。実はハーツのセオにインタビューをさせてもらってから、ポップ・ミュージックについて考えることが多かった。セオは「ポップ・ミュージックはふたつある。ひとつは、万人が楽しめて盛り上がれるポップ・ミュージック。もうひとつはオルタナティヴなポップ・ミュージック」と言っていたけど、「その両方を実現することも可能なんじゃない?」と、話を聞きながら思ったりもした(まあ、そのときは議論ではなくインタビューをしに行ったので、話を引き出すため聞き役に徹しましたが)。もちろんセオの話もポップ・ミュージックとしては全然アリだし、すごく頷ける面白い意見もたくさん語ってくれた(実際同意できる話がほとんどだったし)。とにかく、音楽から歴史性が失われてフラット化した現在においては、「それぞれの音楽」というのがますます増えてきて面白いと思った次第です。

 このスペイン出身のクリスタル・ファイターズというバンドは、現代におけるポップ・ミュージックを鳴らしている。「シンセサイザーとバスク音楽の民族楽器を、歌とテンポの良いダンスビートと融合させたような音楽」とメンバーは語っているが、ベースにはダブステップの強い影響が窺えるし、トロピカル系と呼ばれる音楽の要素もある。「In The Summer」という曲ではフリー・フォークをダンス・ミュージックに上手く落とし込んでいるし、サイケデリックでもある。先程引用した発言にもある通り、ダンスビートを基本としながら、そこにありとあらゆる音楽を組み合わせて曲に仕上げたようなものが多い。だからといって散漫としたアルバムにはなっていないし、BBCが「クラクソンズのセカンド・アルバムが目指して辿り着けなかったような大ヒット作だ」と絶賛したくなる気持ちも分かる。聴き込むほど音楽的な面白さが出てくると同時に、片手間に聴きながらでも楽しい飽きないアルバムとなっている。

 それと冒頭のポップ・ミュージックの話とも重なるんだけど、クリスタル・ファイターズはすごくオルタナティブで実験をしているバンドだと思う。アルバムを聴いていて強く感じるのは、それを無意識にやっている感覚。つまり天然なのだ。だから堅苦しいストイックな空気はないし、それが良い意味での「軽さ」となり親しみやすさにも繋がっているから、結果的に「万人が楽しめるオルタナティブなポップ・ミュージック」となっている。この「軽さ」が伝統や歴史を重んじる評論家から批判の対象になっているようだけど、『Star Of Love』は「今」が生み出した素晴らしいアルバムであるのは間違いないし、僕のように異なるものが交わり融合していく瞬間に興奮を覚える人にとって、『Star Of Love』は絶対に聴くべきアルバムだ。

(近藤真弥)

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Killing_boy.jpg アートスクールのフロントマン、木下理樹と2003年末にバンドを離れた日向秀和(現:ストレイテナー、ナッシング・カーヴド・イン・ストーンetc、元:ザゼン・ボーイズ)が再び手を組んだ。2010年半ば頃からTwitter上にて木下が「ソロ活動をしたい」と呟いたところ、日向が「是非バックで弾かせてほしい」との旨のリプライを送ったことにより胎動を始めた、このキリング・ボーイ(余談ではあるが、このバンド名は、木下がアートスクールのサイト上でのブログ「狂人日記」において、日向がバンドを離れる前後、「好きな(映画)作品BEST50」として挙げた作品の一つでもあるカルト・ムービー、『キリング・ゾーイ』を思わせる)は、日向がナッシング・カーヴド・イン・ストーンから大喜多崇規を、木下が旧友の元スパルタ・ローカルズ、現ヒントの伊東真一を誘い、彼らをレギュラー・サポート・メンバーとして迎えて結成される。2010年末に、年越しライヴ・イベントで、そのベールを脱いだ彼らがこの度リリースするのが、パーカッションとして現ヴォラ・アンド・ジ・オリエンタル・マシーン、元ザゼン・ボーイズならびにナンバー・ガールのアヒト・イナザワ、エンジニアとしてメレンゲのクボケンジといった顔ぶれの豪華なゲストも目立つ、デビュー盤だ。

 先のTwitter上の日向のリプライに対して、木下が「初期のデス・キャブ(・フォー・キューティー)みたいな暗いのをやろうよ」と返していたのが印象的だったが、キリング・ボーイとして彼が鳴らすのは、デス・キャブの色は薄く、ゴスやポストパンクといった80'sのUKからの影響が色濃く感じられるニューウェイヴ・ソングだ。木下は同じくTwitter上で「このプロジェクトはリズム、ループ感、グルーブに重点を置いている。それはアフリカ音楽の概念を理解し探求していく作業でもある。(中略)その反復するリズムに俺はシューゲイズの感覚も残したい」とも呟いているが、そのツイートが示すように、トーキング・ヘッズやヴァンパイア・ウィークエンドといったバンドを思わせるアフロリズムに、度々繰り返される抑制されたループで構成されるグルーブが強烈だ。これは木下と日向とが共通する各々のルーツに、プリンスがいることが非常に大きいだろう。また最近のバンドの共通のフェイバリットとして、フランスのフェニックスやジャマイカも挙げている。ここまで書くと、心地良いダンス・サウンドを想起させるかも知れないが、木下は、キリング・ボーイのメロディについて、「ダークなのにポップな」、ザ・キュアーのそれを意識したことも強調する。少なくとも木下は、日向が在籍していた頃から、特に最新のアートスクールのアルバムにおいてもキュアーの感触を前面に押し出しているが、ここで感じられるのは、それとは少し違い、あくまでグルーヴィーなプリンスのサウンドと暗澹たるポップさを保ったキュアーのサウンドを融合させるという試みの野心だ。
 
 この融合は、抑圧されて内省的な一面も見せる木下と躍動感溢れる日向という対照的な二人の邂逅においても、完全に功を奏している。木下は日向と再びプレイすることを決めた際に、昨年末にフジ・ロックで繰り広げられたアトムズ・フォー・ピースの名演を思い出したと言う。アトムズと言えば、言わずと知れたレディオヘッドのフロントマン、トム・ヨークとレッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリーなどによるトムのソロ作をライヴで再現することから始まった異色バンドだが、どこか似ていないだろうか、このキリング・ボーイの成り立ち、構成と。ここでのトムは木下、フリーは日向だと言うと、やや大袈裟だけれど、邦楽ロック界をそれぞれの手法で牽引する彼らを見ていると、それほどのポテンシャルをどこかに垣間見てしまうのも事実だ。木下は活動当初、日向にスパークルホースの魅力を伝えたとも語っているが、マーク・リンカスが鳴らした、虚無や憂鬱も同時に色付けることにも、ニューゲイズやチルウェイブ、グローファイといったインディ・シーンの時流を取り入れることにも成功している。
 
 かくして、生まれたキリング・ボーイのサウンドは邦楽界に新しい風を巻き込む、「暗く閉じているのに踊れる」ダンス・ロックである。

 歌詞の面も注目したい。≪僕の愛は死んで≫(「cold blue swan」)、≪注射針を抜く時/固くなった傷跡≫(「xu」)、≪死にたい時そんなことを考えたりするよ≫(「Confusion」)など、明らかにアートスクールのそれよりも、直接的な言葉を用いて堕ちている。最終曲「Sweet Sixteen」(タイトルは、映画「SWEET SIXTEEN」を思わせる)に至っては、一節目から≪月曜は死にたいと思った≫であり、キュアーの「Friday I'm In Love」を思わせるように、曜日順に感情を歌っているが、全ての日がどれも病んでいる。キリング・ボーイは、木下の陰鬱な感性を更に曝け出すようだ。
 
 この歌詞は、インディだからこそ出せたと木下は語るが、このアルバム自体も、木下の自主レーベルであり、日向が脱退してからメジャーに移籍するまでのアートスクールの作品をリリースしていた、VeryApe Records(ニルヴァーナを敬愛する木下らしいネーミング・センスだ)からのリリースである。原盤制作費も自らが負担するなど、こだわった発売形態はこの規模の邦楽のバンドでは、珍しいほどの感じられるインディとしての意志が感じられて素晴らしい。

 キリング・ボーイは、実直なほどに海外的なエッセンスを取り入れたサウンド、自身の闇あるいは病んだ精神を晒す無防備さ、自主レーベルからの徹底的に突き詰めたリリース形態などで、邦楽シーンに新たなスタンスを提示する。それは、何よりも音楽が大好きな人間だけで構成される愛をもった現代に対するささやかなアンチテーゼのようだ。この規模のバンドのこんな活動スタイルが広く認められるようになれば、邦楽ロック界も、更に大きな可能性がどんどん芽生えるのではないだろうか。このアルバムがキッズ達にどう聴かれるかが発売早々、楽しみでならない。

(青野圭祐)

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heya.jpg 本盤は、西荻窪に実店舗を構えるセレクトCDショップ『雨と休日』の店主、寺田俊彦氏の選曲によるコンピレーション・アルバムである。『雨と休日』の名前は、Twitterでも、近頃見かけるようになりつつある。実店舗の端的な詳細を記しておくと、「穏やかな音楽」というコンセプトを掲げており、ビル・エヴァンスやステファン・グラッペリなどのジャズに始まり、ゴールドムンドなどのポスト・クラシカル、小瀬村晶などの日本のエレクトロニカ、ブリティッシュ・フォーク、聞いたこともないアンビエントのアーティスト...、文字通り、ジャンルレスに良盤が集められている(先日レヴューされていたインドネシアのアーティスト、アディティア・ソフィアンのアルバムもあったはず)。箱庭のような内装が実に素敵で、独占欲に似た「好きすぎて、あまり人に知られて欲しくない」という衝動に駆られてしまう。
 
 店主の解説曰く「中低音域をメインに使った曲」のみを集めたアルバムだそうで、全曲インストで成り立っており、中心となる楽器はアコースティック・ギターとピアノ。アーティストは、坂ノ下典正、青木隼人、paniyolo、Balmorheaなどの木漏れ日フォーク勢、小瀬村晶、haruka nakamura、Brian McBride(ドローン系のユニット、Stars of the Lidの一人)、Peter Broderickなどのアンビエントやエレクトロニカ勢、Dakota SuiteやOlafur Arnaldsなどのエクスペリメンタル勢など、ふり幅は大きいが、確かに似た音域の音楽が集められただけあり、不思議な統一感がある。おすすめはイノセンス・ミッションのギタリスト、ドン・ペリスのソロ名義での曲。
 
 部屋でアルバムを最初から通して聴くと、音楽が部屋に馴染み始め、鳴っている感覚が失われ、そこで初めて「部屋が溶ける」というフレーズが生まれたのだと言う。日常に音楽が密接しているようで、凄くいい。

(楓屋)

*3月24日リリース予定です。【編集部追記】

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radwimps.jpg「偶景(アンシダン)――偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ...表記のゼロ度、ミニ=テクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの。」(ロラン・バルト)

 君と僕を内包する狭い世界内から内破するように、抽象的でサブライムな「神」という概念に近付こうとした臨界点にして転機となったのが08年の「オーダーメイド」という曲だったのかもしれない。そこでは人間がアダムとイヴに二分化してしまった過程まで遡り、叮嚀な筆致で君と僕は別々だからこそ、繋がり合えるという絆(とその儚さ)を描写したが、そこから、ジョン・ミルトンの『失楽園』での喪失の為の路を探すための過程と『アルトコロニーの定理』という作品の持つ通気孔のなさはリンクしてくるような気もしてこないだろうか。"RADWIMPS"というそれまでのアルバム・タイトルから外れて、"定理"へ向かったときに彼らが手に入れた場所とは何だったのか、よく掴めなかった。つまり、《このなんとでも言える世界なのに この何とも言えない想いはなに このなんとでも言える世界がいやだ こんなに歌唄えちゃう世界がいやだ》(「37458」)で、最後を締めてしまえる感性に彼らの来し方としての、それまで/これからの断絶を感じさえしたからだ。

《おれとお前50になっても同じベッドで寝るの》(「ふたりごと」)と、セカイさえもぶっちぎる「君」への求心と絶対性に心身を委ねつつ、ふと(笑)と皮肉を潜ませる巧みさが彼らのチャーム・ポイントでもあった筈なのに、気が付けば、野田洋次郎を軸としたRADWIMPSというバンドは、非常に生真面目でストイックなバンドになっていった。その後、野田氏は雑誌の企画でインドに行き、死生観をより感じてきたようで、それはどういった形で作品に影響を与えるのか、個人的に興味深かった。

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 2010年6月には、「マニフェスト」と「携帯電話」という二枚のシングルをリリースして、これは肩慣らしのような雰囲気もあったから、どちらかというと、自分たちの手による自分たちの曲のパスティーシュであった要素が強かった。そして、新しいアルバムに向けてギアが入ったのが今年に入ってからの「Dada」であり、「狭心症」だった。前者は「おしゃかしゃま」路線のミクスチャー・ロック、言葉数の多さが巧みにドライヴしながら、駄々を捏ねるように、言葉遊びをするかのように、地団太を踏み何処にも行けない堂々巡りを表す曲であり、後者は過度にヘビーな情感と人類、世界、僕といった大きい言葉が並びながら、自分を攻め立てるような悲痛なムードを帯びていた。《見ちゃいけないなら僕がいけないなら 針と糸すぐほら持ってきてよ 塞いでしまうから 縫ってしまうから 最後にまとめて全部見してよ》(「狭心症」)と切り詰まる。

 自意識の中で膨れ上がったオブセッションが死生観に依拠するものだったのか、それとも、野田氏自身が持つ"人間の失敗作としての自分"という基点に戻って、もう一度表現をしないといけない必然性があったのか、この『絶体絶命』という作品全体が持っている座りの悪さからは見えてこない。また、これまで以上の多くの負性が垣間見えながら、希望や君が唄われる為か、茫漠とした印象をおぼえてしまうところもある。「透明人間18号」、「君と羊と青」、「DUGOUT」のような従来型のギターロックも清々しく響いているし、「π」でのピアノ・ロックでの弾むリズムも新鮮だ。叙情的な側面が強調された「だいだらぼっち」、「ものもらい」も澄んだ空気感がある。「G行為」におけるエミネムを真似たようなライムを披露する様も興味深い。全体的にスケールが拡がり、グル―ヴ感が増し、バンド・サウンドとしての纏まりも非常にダイレクトに響いているというのに、だ。

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 RADWIMPSがこういったスケールの大きい世界観を包含せしめようとする際に、個人的に疑念が生まれるのは、ギデンズの構造化理論のことだったりする。ギデンズによれば、社会学には現象を「意図」(人々が実際に頭の中で考えていること)から説明する主観主義的アプローチと、関係なく客観的に実現している状態(「構造」)から説明する客観主義的アプローチがある。後者は、例えば、私たちは、街中を歩いていて他人とすれ違っても積極的に話しかけたりしない。といえども、完全に無視したりもしない。これをして、「市民的無関心」とも言われている。この市民的無関心は結局、多くの人の都市での生活を可能にしている訳だ。皆が皆に話しかけていたら、都市生活の機能がままならないからだ。しかしながら、人々が「市民的無関心」を持っているのは、なにも都市の生活を可能にするためではなく、だからこそ、これは主観的な意図に還元できない現象ともいえる。この二つのアプローチを結びつけたのが構造化理論だが、「人が主観的に行動するときには、客観的な構造を前提としているし、またそのように行動することで構造を再生産している。」とすると、最近のRADWIMPSは、客観的な構造の前提が欠落したまま、主観主義的アプローチ沿いに、誰彼問わずに「話しかける」アティチュードが可視出来る。他者性に向けて、何でも言えるポジションに居ることができる彼らだからこそ、『絶体絶命』というタイトルで、スキゾなまでに多種多様な音楽のスタイルに挑み、溢れる言葉群を詰め、テンションも高いというのも良いことだとは思う。それでも、同時にこのテンション(緊張)が接点として見出す聴き手(生活者)側のフラットな感度にフィットしてくるのかは見えない。渦巻く熱量が宛先不明のままに、眼前に在る、そのような印象さえ受ける奇妙な作品だと思う。

 最後に、この作品には、過去の彼らの作品では潜んでいた偶景(アンシダン)が殆ど感じられないのが個人的に残念でならない。とともに、彼らのこの音楽は多くのユースの難渋な自意識をサルベージしたとしても、意味世界で生きていない人たちにはどう響くのか、それに少しの憂慮もおぼえてしまう。そして、RADWIMPSはこのテンション(緊張感)を保持したまま、果ての「その先」 を行くのか、複雑な想いにもなる。

《「金輪際 関わんない」「ついに諦めた、万々歳」「だけど最後に、お願いよ 耳澄ましてみて」》(「グラウンドゼロ」)

(松浦達)

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tpobpah.jpg 以前のシアトルでのライヴレポートの際にも書いたが、ザ・ペインズ・オブ・オブ・ビーイング・ピュア・ハートは、セルフタイトルを冠したファースト・アルバムから、着実に進化を遂げている。「Higher Than The Stars」EPにおいて、表題曲でプライマル・スクリームを意識したというシンセサイザーを前面に押し出したダンス・サウンドへ歩み寄る試みはもちろん、「Say No To Love」や「Heart In Your Heartbreak」といったシングルをリリースする度に、貪欲に新しいカラーを取り入れてきた彼らだけあって、セカンド・アルバムが今春発表されるという報は、今まで以上に多くのリスナーの期待を高めずにはいられないものだっただろう。しかも、プロデュースにスマシング・パンプキンズ、ナイン・インチ・ネイルズ、シガー・ロス、ジーザス・アンド・メリー・チェインなどを手がけてきたフラッド、ミックスに同じくスマパンやNINやジザメリに加えて、デス・キャブ・フォー・キューティー、ブロンド・レッドヘッド、果てにはマイ・ブラッディ・バレンタインやライドといったシューゲイズの雄たちを手がけてきたアラン・モウルダーを迎えて制作されたという事実だけで、インディー・ミュージック・ファンにとっては垂涎ものではないだろうか。スマパンの『Siamese Dream』を共通のフェイバリットの内の一枚として掲げているだけあって、バンド側も、このアルバムを発表するまでは死んでも死に切れないくらいの思いがあったことだろう。

 さて、満を持してリリースされるこの『Belong』は、端的に言うと、「Say No To Love」以降のシングルのジャケットのアートワークが象徴するように、ファースト・アルバムよりも、格段にカラフルな世界を見せてくれる豊満なサウンドだ。ファーストで彼らが示してくれた、モノクローム、あるいは淡い単色の薄こけてただれたような世界(それはジャケットだけでなく、彼らのアーティスト写真やPVでも確認することができる)に、徐々に彩りが増し、平面的なきらいも否めなかった(もちろん、この平坦さはファーストの大きな魅力の一つでもあるのだが)サウンドは、遂には、抑揚を身につけ、広がりを身につけ、何よりも確かな温かみを身につけた。例えるなら、それは、秋の始まりを感じさせるように紅く染まりゆく街路樹を通り雨が過ぎ去り、木々の先に残った滴が雨上がりの陽の光を反射して、きらきらと光る並木道のようだ、と書いてみるといいだろうか。

 僕はこのアルバムの国内盤のリリースが発表されると同時に、最初に聴いた時、思わずスーパーカーやアートスクールといった日本のオルタナティヴ・バンドのサウンドの広がりの遍歴を思い出さずにはいられなかった。デビュー・アルバム『スリーアウトチェンジ』をリリースしたスーパーカーが以降、新作を発表する度に、深淵を感じさせるまでに奥行きを増していったように、アートスクールが『Flora』をリリースし、それまでの彼らの描いた薄れゆく君と壊れゆく僕を包んだ轟音の世界にシンセサイザーの軽快なポップ・センスが加わって、より豊満な世界を垣間見ることができたように、この『Belong』もまた、一辺倒なカラーが昇華され、元の絵の具と新しい絵の具を混ぜ合わせたような、「次の世界」を見せてくれる。
 
 少し余談だが、日本のオルタナティヴ・バンドと比較を試みた上で、もう少し、加文させて頂くと、日本のオルタナ・バンドで世界観として彼らに近いのはスピッツであると僕は感じているのであるが、今作はスピッツ・ファンにもお薦めさせて頂きたいものでもある。彼らが歌う、「純粋さを保ち続けること」。そのためには歪んでもペインズ(複数の傷跡)を背負っても構わない、ただただその先のきらきら光る世界を切望し、それだけが見てみたいのだという無垢な衝動はスピッツのそれと、とても似通っているように思える。

 絵の具の先の新しい色は1曲目であり、シングルとしてもリリースされ、アルバムの表題曲でもある「Belong」を聴いてすぐに手に取るように感じることができるだろう。横に揺れるクリーンなアルペジオとタイトなドラムが軽快に鳴り、ローファイな轟音が襲ったかと思うと、すぐにクリーンとダーティな2つのギターは絡み合い、今までの彼らとは決定的に違うカラフルなノイズを響かせる。そこで、ファーストから何倍も温かみを増したキップ・ベルマンのボーカルが乗った時点で、あなたの目の前の景色は既に甘い暖色のトーンに変わっているだろう。ジーザス・アンド・メリー・チェインのような残虐な曲やアソビ・セクスを思わせる幻想的でキュートな曲もあれば、先のアートスクールが『14 SOULS』などで鳴らした清冽なまでのきらめきを保ちながら沈みゆくサウンドを想起させるような曲もあるが、どの曲もドリーム・ポップ、もっと言えば、オルタナティヴなポップ・エッセンスに包まれているから、素晴らしい。彼らがこれまでみるみる内に躍進し続けていく様を見届けていたリスナーからは驚きと同時に、「やっぱり彼らはやってくれた」というような確信の声すら聞こえてきそうだが、まさかここまでとは思えただろうか。それほどまでに、このアルバムは彼らを確実に新たなステージへ導き、多くのリスナーに彩りをもたらすようなポップ・センスに満ちている。
 
 たった一つ個人的に残念に思わずにはいられないのが、「Higher Than The Stars」EPの後にリリースされ、それまでの彼らとの決定的な差異を見せつけたシングル「Say No To Love」が収録されていない(残念ながら、国内盤のボーナス・トラックにも収録されなかった)ことであるが、それを補ってもこの『Belong』が、世界中の多くのリスナーの2010年上半期のベスト・オブ・インディー・ポップ・アルバムに選出され得るのは、まず間違いないだろう。「カラフルなペインズなんてにわかに信じ難くてアルバムにすぐには入るのは少し抵抗が...」なんてあなたには、是非、今作の前に「Say No To Love」を聴くことをお薦めさせて頂きたい。

 最後に、もう一度だけ書いておこう。『Belong』には彼らの新しい世界が詰まっている。それは、彼ら自身を新しい世界に進ませるだけでなく、インディー・ミュージック・シーンをもよりカラフルに染めてくれるだろう。僕は以前、クッキーシーンのムック誌に「彼らは00年代後半で最もホットだったシーンの一つ、ブルックリンの街角から出てき、それまでのこんがらがったニューゲイズ論争を一蹴した」といったような事を書かせて頂いたのだが、今作を聴くと、より彼らをニューゲイズという狭い枠組み一つで捉えることは不可能なのであると再認識させられるだろう。

 あなたが純粋さを保ち続ける上で、幾つもこしらえるだろう多くの傷跡に、この優しく甘いノイズが染み渡りますように。

(青野圭祐)

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nicolas_jaar.jpg ニコラス・ジャーと僕は似ている(実際、ライナーノーツにも僕が登場します)。ニコラス・ジャーは常に身近にピアノがあり、それを即興的に弾きこなしていたそうだ。そして、テクノに目覚めたキッカケが14歳のときに聴いたティガのミックスCDで、その年のクリスマスプレゼントにお父さんからルオモのアルバムとリカルド・ヴィラロボス『The Au Harem d'Archimede』を貰い、「今まで聴いたなかで一番セクシーな音楽だなと思ったよ」とぬかすニコラス・ジャー。 詳しくはライナーノーツに載っているので、買って読んでください。かなり面白いです。

 ちなみに僕も、音楽は常に身近にあった。クッキーシーンで書かせてもらった原稿でも何回か触れたけど、僕の親父とお袋は小さい頃からいろんな音楽(主にポストパンクやダンス・ミュージック)を聴かせてくれた。これは僕の友達のなかでも賛否がある話なんだけど、僕は87年に『ハシエンダ』でDJペドロのプレイ聴いた! まず、DJペドロとはロラン・ガルニエが『ハシエンダ』でDJを始めたときのDJネームだ。そして、なぜ僕がDJペドロのDJを聴いたと言えるのか? それは、僕が胎児としてお袋のお腹にいるとき、親父とお袋は『ハシエンダ』に行ってるからだ。よく胎内にいるときでも外の音は聞こえると言われているが、もしそれが本当なら、僕は『ハシエンダ』の音を胎児として体験していることになる。ただ残念なことに、そのときの記憶は一切ないのだが...。

 こうして書いていくと、ニコラス・ジャーと僕は共に音楽の英才教育を受けていると言えなくもないし、共通点も少なくない。ただ、ニコラス・ジャーにはその英才教育の成果を、音楽という形で表現できる才能がある。一方の僕は、ニコラス・ジャーみたいに音楽として成果を表現できる才能がなく、それでも好きな音楽に関わりたいがために、こうして「不誠実な寄生虫」として文章を書いている。そんな僕からすれば、この『Space Is Only Noise』は、嫉妬にも近い賞賛をしたくなるようなアルバムだ。

『Space Is Only Noise』は、Circus Companyというレーベルからリリースされている。昨年のDop『Greatest Hits』リリースで注目を集めたレーベルで、次にプッシュするのがニコラス・ジャーというわけだ。そのニコラス・ジャーのデビュー・アルバムは、実験的なポップ・ミュージックであると同時に、ダンス・ミュージックでもある。『Time For Us EP』や『Love You Gotta Lose Again EP』のように「トラック」として機能させようとした意識はなく、自由に様々な音楽を楽しんでいる様子が見て取れる。前衛的なインタールード曲「Sunflower」、美しいピアノとヴォイス・サンプルに鋭いヒップホップ・ビートが交わる「Specters Of The Future」、スーパーピッチャー『Kilimanjaro』を思わせる「Too Many Kids Finding Rain In The Dust」や「Keep Me There」など、アルバム全体としては今までのリリースで見せてきたダンス・ミュージック色に加え、ジャズやアフリカ音楽というニコラス・ジャーが幼少の頃から聴いてきた音楽の要素が色濃く出ている。そのためフロア直結型ではないが、映画のサウンドトラックのように全体としての世界観はより強固なものとなっている。そして、『Space Is Only Noise』の音は歌っている。わかりやすいヴォーカル曲があるわけではないが、音のひとつひとつに言葉と風景が刻まれていて、それらが一斉に歌っているかのように聞こえるのだ。それは時折SSWアルバムと錯覚させるほど。そういう意味では、ジェームズ・ブレイクの『James Blake』に近いと言えるかも知れない。ただ、『Space Is Only Noise』のほうがより強い主張があるし、『James Blake』にある孤独さというのは感じられない。メランコリックではあるものの、より豊かな感情表現がある。

 そして、この豊かな感情表現と主張の強さの理由は、ニコラス・ジャーのこんな発言からも垣間見える思想によるものかも知れない。

「90年代を通して、ダンス・ミュージックはスピードをあげたかもしれないけど、一方で表現する幅は狭くなった」(ライナーノーツから引用。発言元はガーディアンのインタビュー)

 このあとは「とても一面的で、現実逃避のサウンドトラックになってしまった」と続くが、この話には同意できる。というのも、The Kink Controversyで現在のダンス・ミュージックについて書かせてもらったことと一致する部分もあるからだ。ニコラス・ジャーは、ダンスフロアに感情の幅広さと「自己」を呼び戻したと思う。上手く表現できる言葉が見つからないが、ニコラス・ジャーの音楽がダンスフロアで鳴り響いた瞬間、そこにいる人々は私小説を披露することが許される。そして、それぞれが自分を表現することによって「人は皆違う」と理解し、その点においてその場に居る人達が「共有」できる何かが生まれる。それは、無理して大衆となり息苦しい思いをしている人や、無理して大衆になれないがために疎外感を抱いている人。そうした人々も許容される場ではないだろうか? 美しい緊張感とメランコリックに溢れながらも、自由でリラックスとした雰囲気すら感じる『Space Is Only Noise』を聴いていると、そんなダンスフロアの新たな風景が見えてくる。

(近藤真弥)

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bo-ningen.jpg BO-NINGEN(棒人間)。我々人間が自らを「人間」とすると、なぜかドキリとする。それとも、この「棒」という単語が曲者で、無機質な「棒」という単語と、血肉が通ってこそ生きている「人間」という考えから、相反するそれが並ぶ事で「死」を連想してしまったりして、ドキリとしてしまうのだろうか。

 いずれにしても、BO-NINGEN(棒人間)と名乗る、この日本人の四人組は、活動の拠点をUKに持ち、ザ・ホラーズのお気に入りであったり、各地で精力的なライブをこなす事で話題を振りまき、このデビューアルバムが届くまでには、ここ日本よりも海外での認知度を高めていったようだ(それにしても、海外で人気の日本人バンドとは日本での認知度は低いというのは、世の常だろうか。)
 
 その見た目は1970年代から飛び出してきたような時代錯誤(失礼承知で言うならば)な長髪とファッションというのは、ヴィジュアル系がウケてると聞く海外の好みから言えば少なからず要素の一つだろう。海外を拠点にしながらも、詩の99%を日本語で歌う事はその場所で活動を続ける彼らを特徴付ける要素でもあるだろし、そんな日本語を楽しんでいるようにも思える。彼らは、「koroshitai kimochi」と曲のタイトルにつけ、「殺したい気持ち」という殺伐とし気分をアルファベットを並べて中和しているようだ。また、そんな言葉をはきだす歌い方も特徴的で、(急にこんな事を言えば的外れかもしれないが)僕は、「北斗の拳」を思い出してしまう。ケンシロウが一子相伝の北斗神拳をもって、アベシ! と言わせるあれだ。「あたたたた!」と北斗百列拳を繰り出すケンシロウのようなあの甲高い声が、ところどころでシャウトされ、僕は思わずにんまりしてしまう。実にこれがいいスパイスになっている。こう言うとまるで「イロモノ」だが、ブラック・サバス直径のようなギター・リフに、展開はプログレッシブ・ロックという様は、一筋縄ではいかない。全体を通して、サイケデリックな音使いではあるが、今まで語った要素を足してみると、「サイケデリック」という言葉は、「おどろおどろしい」という言葉にも置き換えられる気がする。日本語、アニメ、おどろおどろしい。実に彼らは日本的である。そんなバンドが海外で活躍しているのなら、とても喜ばしい事だ。
 
 ところで、偶然なのか必然なのか「人間」と名乗る、とあるバンドを思い出す。かつて、一世風靡した番組、イカすバンド天国出身のバンド、人間椅子である。その「椅子」という無機質な物体と「人間」という単語を組み合わせるセンスもさる事ながら、上記にあげたサウンド面の特徴とは、ほとんど人間椅子にも当てはまる。そして、BO-NINGEN(棒人間)が海外で日本語を歌うように、青森出身の人間椅子は東京の地で津軽弁を交えた歌を歌う。もしかしたら、この精神こそ、両者の共通項の根源なのかもしれない。それにしても、かつてはねずみ男の衣装にまで身を包んだ人間椅子とは、あの時代には早すぎた存在だったのかなと、BO-NINGEN(棒人間)の活動を見ながら思い、そして、少し悔やむ。「BO-NINGEN(棒人間)よ、人間椅子のためにも頑張ってくれ!!」と言ったら、いまだ現役の人間椅子に怒られてしまうだろうか。

(佐藤奨作)

*日本盤は4月6日リリース予定です。【編集部追記】

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abd_al_malik.jpg「スラム」という様式を世間にアピールした06年のセカンド・アルバム『GIBRALTAR』の鮮烈さはいまだに記憶に新しい。05年のフランス・パリの郊外で起きた暴動事件に関連する形で、フランスという国の持つ固定化された階層構造についてメスを入れたのみならず、グローバリゼーションの進捗下で、「もてる者/もたざる者」が決して規得の型枠の中で形成されるものではなく、或る程度、"innate"なものが優先されるというあからさまな図式をメタ化するような詩情は美しかった。例えば、「La Gravité」という曲で、《Avoir mal à la bourgeoisie comme Che Guevara, se lever chaque matin sans réellement savoir pourquoi, Souffrir du non sens, une maladie qui n'épargne aucun personnage, Je viens d'un lieu où rien n'est jamais vraiment grave.(チェ・ゲバラのようにブルジョワジーに不快をおぼえ、毎朝起きる理由も本当にはわからない 意味のなさに苦しむ この病気はどんな人物であろうと逃さない 重苦しいことなどない土地から私は来た)》と、コンゴ系フランス人の彼が綴る意味は大きかった。

 今思えば、スラヴォイ・ジジェクの『暴力――6つの斜めからの省察』(青土社)に繋がるところもあった気もする。ジジェクの指摘した暴力論とは、直接的な関与や対峙では暴力を再生産する恐れがあり、「斜めからの視線」を持った上で向き合うべき余白を用意する。要は、散文的な態度を取り、シビアに観照することで、新しく「暴力」に対しての言葉に依拠した対抗ではない、非言語としての芸術の一姿勢として音楽が持ち上がるとき、その音楽に近い形を取る詩のみが「何か」を語ることができたのかもしれないとしたなら、スラムはモダン(近代)以降の音楽様式を予め含んでいたともいえる。

 少し説明しておくと、スラムとは、80年代のシカゴで始まり、フランスでは90年代以降にも行なわれるようになったポエトリーリーディングのパフォーマンスの一種である。スラム・セッションは、カフェ、ストリート、バー、あちこちの「人の居る場所」で行なわれ、それがまた電子媒体などに乗る形で世界中に伝播していったからして、それらを間接的にでも観た方々も多いことと察する。

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 アブダル・マリック(ABD AL MALIK)は精緻な意味では、スラムというフォーマットを活かしながら、あくまでラップ、ヒップホップのセンスを軸にしたアティチュードを取るとともに、例えば、セルジュ・ゲンスブールが生きていたら、間違いなく剽窃したであろう「ポエトリーリーディング・ミーツ・ジャズ」、はたまた、一部のメディアが言うような「シャンソン・ミーツ・ヒップホップ」とでもいえるような流麗なスタイルも纏っていた。また、舌鋒鋭く世の欺瞞を暴くパースペクティヴと、ストリートに根差した峻厳で哲学的な思考を巷間に向けて昇華させていた手際も周到だった。

 08年の手堅い深化作『Dante』を経て、今回、新しいアルバムをかのゴンザレスがプロデュースするということを聞いたとき、良い形での化学反応が起きるのか、それとも、沈潜するようなビート・メイクとエレクトロニクスの中に彼の声も埋もれてしまわないか(つまり、マニエリスモに回収されてしまわないか)、個人的に二つの考えが浮かんだ。

 結論から言うと、この『Château Rouge』はその二つの選択肢の間を縫うような、そして、避けるような、大胆な舵取りをした作品になっている。ゴンザレスの意向が明瞭に示された、チープであり、過剰にフックがあるエレクトロニックな意匠が凝らされたトラックの上で、スラム、ラップという既存のスタイルを取りながらも、ときに朗々と「歌う」というギクシャクした要素も含まれており、これまでの彼のイメージを覆す実験性が先立ちながらも、ポップな開け方をしている。それだけに、過去のような"「歌」としての政治性"の必然は此処には感じることはできないかもしれない。しかしながら、個人的には、スノビズムといった何かで割り切って流してしまうよりも、彼自身が踏み込んだ「場所」自体に興味深さを感じる。その場所には、例えば、おそらく比較に出されるであろうアンチコン界隈のヒップホップとは一線を隔したものであり、どちらかというと、ルーペ・フィアスコ(LUPE FIASCO)『Food & Requor』、キッド・カディ『Man On The Moon-The End Of Day』辺りの作品やニンジャ・チューンのヒップホップ・レーベルであるBIG DADAのアーティスト群に近似する「ベタ」な温度を感じるからだ。

 惜しむらくは、PVでおどけながら歌うコミカルなチープ・エレクトロ・ポップ「Ma Jolie」や80年代風のダンス・ビートの野暮ったさが残る「Syndi Ska Liste」といい、要所でどうにも、「大味」のプロダクションが目立つ点と、ゴンザレスのプロデュースと彼が噛み合っていないところが散見することだ。彼自身も今作にあたってはインタビューで「エレキギターを持ったボブ・ディラン」なんて発言もして物議を醸しているが、これまでのキャリアになかった軽やかさを得るための急進性を選んだという意味では、「次」に繋がる過渡期としての作品として捉えるべきかもしれない。或る意味で、メタに知性を駆使してきた彼がベタなポップ・フィールドに降りようとしたコンテクストが透けて見えるという手応えともどかしさを感じる面白い意欲作だと思う。

(松浦達)

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ducktails.jpg これこそインディー・ポップの真骨頂、醍醐味であるといえる作品。リアル・エステイトのギタリスト、Matthew Mondanileによるソロ・プロジェクトの3rdアルバム。平坦なドラム・マシーンと、トロピカルかつサイケデリックに重ね合わせたギターによる人力アンビエントは、文字通りDIYかつローファイであり、「こねくり回していたら、こんなものができちゃいました」と言わんばかりの、強烈なセンスが光る(しかしながらギターの演奏は相当の上手さ)。
 
 リアル・エステイトでは、ドリーミーかつポップなバンド・サウンドの中に、危うさ、ノスタルジー、あるいは毒のようなものが垣間見えていたが、ダックテイルズにおいては、そういった複雑な要素は薄まっている。現実的なしがらみからトリップしたかのように、ストレス・フリーで白昼夢的だ。いずれにせよ、00'sの最後に現れた新機軸バンドが、非常にトラッドなインディー・ポップを鳴らしているというのは気持ちがいい。この質感は堪らない。

(楓屋)

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hoshinogen.jpg WIRED VISIONの2010年11月30日の記事
で、情報の中毒性と既知の事実への新たな知の好奇心のシステムについて触れている。ワシントン州立大学の神経科学者JAAK PANKSEPP氏の「ドーパミン系の予期せぬものを見出したり、新しいものを期待したりすることで活性化される」という言に沿うと、毎日の大量の情報の摂取とは健全なる「報酬」のメカニズムを示唆する訳だ。しかし、同時に人間の情報処理能力や記憶のキャパシティは有限であり、好奇心の射程も「しれている」。

 同記事では、アメリカの政治学者のLARRY BARTELS氏の調査も取り上げ、政治に詳しい人だとしても、「支持政党に起因するバイアス」から逃れられない理由として、「人々は自分たちが既に信じていることを裏付ける事実しか吸収しない傾向にあるからだ」と述べている。要は、「知らないことに関して、知らない」という姿勢を造作もなく、人間は取ることが出来るのとともに、自分の中でインストール済みの情報や知識を反復する為に、その媒体にアクセスして「再確認」してみることも多くなるというのは当然ということだろう。だから、昨日、雑踏ですれ違った人の表情を想い出そうとするよりも、自分の中のミームで仕切られた情報の中での制限された報酬を得ることで満足する瀬を更新というのか、後進というのか、人それぞれだとしても、「日常は退屈に溢れている」と降りてしまうには、確認出来ないことが多すぎる。それをして、星野源はささやかに《くだらないの中に 愛が 人は笑うように生きる》と歌う。そこには過剰なロマンティシズムも自己陶酔も啓蒙もモードもなく、彼自身がインタビューで自分を評する際の「普通の人」としての真っ当な感覚が裏付けされている。
 
 SAKEROCKのリーダー、劇団大人計画の俳優、文筆家など多彩な顔を持ち、コアなファンも多い彼が昨年にリリースした「うたもの」要素が強く出た彼流の『Hosono House』とでも言えるだろうか、ファースト・ソロ・アルバム『ばかのうた』の存在感は大きかった。

 内容自体としては大仰でもなく、どちらかというと、地味でストイックな要素が強かったが、この作品によって彼の「声」や「詩情」を改めて発見した人も居ただろうし、彼を取り巻く総体的な活動にそこまで興味を持っていない人たちにも良質な作品としての魅力を感じさせたのは、逆説的にその新しさも劇的な仕掛けもない、柔らかな温度が立ちのぼる、陽炎のような「平穏な日常が忍び寄る気配」に依拠していたような気もする。平穏な日常がすぐ傍まで自分に寄ってくる「気配」とは、隠し事のない、或る種の残酷な世界観としての意味も含まれてくる。ゆえに、彼が筆致する描写は《世界は ひとつじゃない もとより ばらばらのまま》(「ばらばら」)、《いつかなにも 覚えていなくなるように 今の気持ちも 忘れてしまうのかな きっと 腐った体だけを残して》(「キッチン」)、《寂しいと叫ぶには 僕はあまりにくだらない》(「くせのうた」)、《朝起きて 仕事して 帰ると君が 腹へって 冷蔵庫 開けて二人は ぼんやりとチューするの》(「子供」)のような他愛なく、時に彼岸を思わせる視点が内在される。その内在された視点の箱庭で暮らすのは、彼が当初に設置した登場人物ではない「君や僕」かもしれないところに意味があったとしたならば、此岸の「君や僕」は彼の唄う彼岸の「君や僕」に近付こうとするために、自らの他愛のない日常を再確認することができた、行為性を引き寄せるという深みもあった気がする。また、僕個人としては、『ばかのうた』にはコリン・ブランストーンの『一年間』、ロバート・ワイアット『ナッシング・キャント・ストップ・アス』、中村一義『太陽』などの作品に宿る、じんわりと聴いた人の心を暖める歌い手としての「うたごころ」に通底する何かがあったのも美しく感じた。

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 ファースト・ソロ・シングルとなるこの「くだらないの中に」も、取り立てて斬新な試みもなにもない、『ばかのうた』の延長線上にある凛とした視線が貫かれている。良い具合に肩の力の抜けたフォーキーな表題曲、叙情的な「歌を歌うときは」、朗らかなムードの「湯気」の3曲の新曲と、「ブランコ」、「くせのうた」の自宅で一人で録られたというテイク、初回版には「くだらないの中に」、「くせのうた」のPV、『ばかのうた』や今回のシングルを巡るドキュメンタリー、ソロ・ライヴの映像、オーディオ・コメンタリーなどを収めたDVDが付属しており、昨年からのソロ・アルバム・プロジェクトの総集編のようなヴォリュームになっている。
「くだらないの中に」での登場人物も、相変わらず「君と僕」で、「魔法」や「希望」なんて大文字の言葉に魅かれたりしながらも、結局はお互いの髪の匂いを嗅ぎ合ったり、首筋の匂いがパンのようですごいな、と絡まり合うだけで蒸発してゆく"湯気"のような景色に溶け込んでしまう儚さとありふれた風景が縁取られている。対象化させるように、2曲目の「歌を歌うときは」では、《想い伝えるには 真面目にやるのよ》という素面の冴えたフレーズも挟まってくるのが印象に残る。

 このシングルでの「君」もブレはない。それでも、何度確かめても「君」が「君」なのか、分からないような人間の性(さが)に寄り添う分だけ褪せないタナトスがこれまでよりも濃厚に宿っている。そのタナトスが覆う平坦で朧ろな日常を掻い潜って、君「と僕」が担う「くだらない」の中に果たして、本当は誰が残響するのか、が確かには視えない場所に彼の素面の鋭い知性が突き刺さったまま、宙空に浮かんでいる。浮かんだままで、彼の手元から日常という「彼岸」へと投げられた先に何があるのか、その想域は聴き手に委ねられている。

《心が割れる音聴きあって ばかだなあって泣かせあったり つけた傷の向こう側 人は笑うように》(「くだらないの中に」)

(松浦達)

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antichrist.jpg『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などを手掛けたラース・フォン・トリアーが監督した新作『アンチクライスト』はシャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォーが主演し、シャルロットは今作の演技で第62回カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞している。

(*ストーリー・愛し合っている最中に息子を事故で失った妻(シャルロット・ゲンズブール)は罪悪感から精神を病んでしまい、セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は妻を何とかしようと森の中にあるエデンと呼ぶ山小屋に連れて行って治療を試みるが、事態はますます悪化していき...。)

 ラース・フォン・トリアー監督が自身のうつ病からリハビリとして書き始めた今作は彼にとってのセラピーになったようだ。大ヒットしている『冷たい熱帯魚』の園子温監督もこの映画を作ることで自分自身が救われたとインタビューで答えていたが、どちらも強烈な作品であり目を逸らしたくなるようなシーンも性的な描写もある作品である。

 壊れていく妻であるシャルロットとそれを見守る夫のウィレムのセックスシーンはぼかしが入っているのだが海外の映画はそこまで作品のためにできるのだなあと改めて思いながら観賞した。二人の性行為シーンは妻の肉薄した壊れそうな自分を救ってほしい、この世に繋ぎ止めるような行為であり、シャルロットの自慰行為などもぼかしを入れる必要あるのかと思ってしまった。ない方が自然だし、入れる事で余計に意味を持たしてしまうような気もする。

 精神が壊れてしまう妻を観ていると思い浮かんだのは橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』とトラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』の二作だった。『ぐるりのこと。』はとても素晴らしく壊れてしまった妻とずっと一緒にいた夫との時間を社会に起きた事件などを描きながら二人がいたその時間を丁寧に描いた作品だった。

 『ノルウェイの森』は非常に脚本がクソだとしか思えない展開で原作の村上春樹『ノルウェイの森』を読んでないと映画の物語が補完できない残念な作りだった。そしてこの作品はボーイフレンドが自殺して精神が病んでしまった直子を演じた菊地凛子や小説では重要なキャラクターだったレイコを演じた霧島れいかとの性行為シーンが胸すら出ないし映ってないという不自然極まりないシーンで内容も残念な事ながらそこにもリアリティの欠片もなかった。

 シャルロットの演技を観て、一部のきわどいショットは代役らしいが(おそらくはそれはクリトリスや女性器が映っているシーンではないかと思うのだが)、性行為シーンや『ノルウェイの森』の原作小説でいえば緑のパンティで包んで手コキ(映画ではそのシーンはなかった)に近いシーンでも彼女はウィレム・デフォーと肉体を持って演技して、妻になっていた彼女を観ながら僕は『ノルウェイの森』の菊地凛子もシャルロット・ゲンズブールぐらいしてくれたらあの映画もまだ少しだけマシにはなったのではないかと思いながら観てしまった。画というか撮り方がアートフィルムのような感じの部分もあり、そこの辺りは少し眠気を感じたりもしたが、後半に行くにつれて妻と夫しか出てこないシーンでの展開と妻が夫にする行為を観ながら喉がとても乾いた。

 セックスとある種の暴力を描く事で、観ることで、救われる何かというものが人間の何かは少なからずある。そこには作品における殺人も含まれていると思う。人は体験できないことを、しようと思ってもできないことを作品で疑似体験するによって救いだったり癒しやストレスからの開放を見つけれる事ができる。

 ミニシアター系の単館系の映画館の閉館が続き少しだけ話題になったが、シネコンの乱発でスクリーンは増えているのに上映される作品の数自体は減っているようだ。スクリーンが増えても同じ作品を多く流されるという状況の中でこの『アンチクライスト』の公開や一月末に公開され連日立ち見になりヒットしている園子温監督『冷たい熱帯魚』という作品が求められる理由は簡単だろう。

 観客は制作側の「どうせこのくらいの内容で役者で知名度がある原作なら客入るっしょ」的な考えで作られた作品にはもう飽き飽きしているのだ。いろんなものがフリーになっていく時代の中でお金を払ってでもみたいのは作り手の強烈な才能や禁忌とすら戯れているようでもあるラインを越えてしまうような作品に出会い、体験したいのだと思う。

 シャルロット演じる妻が下半身丸出しで森を彷徨うシーンや夫の自由を奪うためにする目を背けたくなるような行為や、セックスの最中に子供を失ってしまった事に対しての懺悔のようなシーンの強烈さ、などまさしく息をのんでしまう。観終わった後に劇場から渋谷の雑踏に立ったときに、少しだけラース監督がこの作品によって救われたと言った事がわかるような気がした。

(碇本学)

2011年2月

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  • フレンドリー・ファイアーズ

    どんな状況でも前向きでいたいと思っている

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 祝!I'll Be Your MIrror開催。発表された時から、錚々たるラインアップに心が震えた。ゴッドスピード・ユー! ブラック・エンペラー、ファック・ボタンズ、ダーティ・スリー、そして国内からはボアダムス、灰野敬二、ボリス等々。こんなにすごいバンドばかりが同じ日に、同じステージに上がるなんて。中でも僕はボアダムスと灰野敬二に注目。同じ国内にいながら、なかなかライヴに行くチャンスがなかったから絶好の機会だと思った。当日は快晴。暖かいくらいの陽気に、ますますテンションが上がる! 新木場に急がなくちゃ。


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前にもこのコーナーでノー・エイジについての論考を掲載しましたが、またも彼らについての原稿がとどきました。今回のタイトルは<ノー・エイジの「立ち位置」>。先日の大阪公演のライブレポも兼ねた面白い考察になっています。執筆者はこのコーナーの常連となりつつある(笑)、財津奈保子さん。端正な文体がみごとだなぁと、いつも惚れ惚れしているのはここだけの話です。

常時ドタバタしているクッキーシーンですが、こういう原稿も大歓迎。ライブで感じたこと、思ったことなども教えていただけましたら幸いです。それこそ、このコーナーはある意味で読者欄も兼ねていると思います。たとえばR.E.M.とリスナーの関係がそうであるように(新譜も楽しみ! 詳しくはCDジャーナル3月号の伊藤さんの原稿を参照のこと)送り手と受け手に差なんて存在しないわけで、いろんな人のいろんな声を反映し、掲載していければと思っています。

では、どうぞー!

2011年3月1日

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