March 2011アーカイブ

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Killing_boy.jpg アートスクールのフロントマン、木下理樹と2003年末にバンドを離れた日向秀和(現:ストレイテナー、ナッシング・カーヴド・イン・ストーンetc、元:ザゼン・ボーイズ)が再び手を組んだ。2010年半ば頃からTwitter上にて木下が「ソロ活動をしたい」と呟いたところ、日向が「是非バックで弾かせてほしい」との旨のリプライを送ったことにより胎動を始めた、このキリング・ボーイ(余談ではあるが、このバンド名は、木下がアートスクールのサイト上でのブログ「狂人日記」において、日向がバンドを離れる前後、「好きな(映画)作品BEST50」として挙げた作品の一つでもあるカルト・ムービー、『キリング・ゾーイ』を思わせる)は、日向がナッシング・カーヴド・イン・ストーンから大喜多崇規を、木下が旧友の元スパルタ・ローカルズ、現ヒントの伊東真一を誘い、彼らをレギュラー・サポート・メンバーとして迎えて結成される。2010年末に、年越しライヴ・イベントで、そのベールを脱いだ彼らがこの度リリースするのが、パーカッションとして現ヴォラ・アンド・ジ・オリエンタル・マシーン、元ザゼン・ボーイズならびにナンバー・ガールのアヒト・イナザワ、エンジニアとしてメレンゲのクボケンジといった顔ぶれの豪華なゲストも目立つ、デビュー盤だ。

 先のTwitter上の日向のリプライに対して、木下が「初期のデス・キャブ(・フォー・キューティー)みたいな暗いのをやろうよ」と返していたのが印象的だったが、キリング・ボーイとして彼が鳴らすのは、デス・キャブの色は薄く、ゴスやポストパンクといった80'sのUKからの影響が色濃く感じられるニューウェイヴ・ソングだ。木下は同じくTwitter上で「このプロジェクトはリズム、ループ感、グルーブに重点を置いている。それはアフリカ音楽の概念を理解し探求していく作業でもある。(中略)その反復するリズムに俺はシューゲイズの感覚も残したい」とも呟いているが、そのツイートが示すように、トーキング・ヘッズやヴァンパイア・ウィークエンドといったバンドを思わせるアフロリズムに、度々繰り返される抑制されたループで構成されるグルーブが強烈だ。これは木下と日向とが共通する各々のルーツに、プリンスがいることが非常に大きいだろう。また最近のバンドの共通のフェイバリットとして、フランスのフェニックスやジャマイカも挙げている。ここまで書くと、心地良いダンス・サウンドを想起させるかも知れないが、木下は、キリング・ボーイのメロディについて、「ダークなのにポップな」、ザ・キュアーのそれを意識したことも強調する。少なくとも木下は、日向が在籍していた頃から、特に最新のアートスクールのアルバムにおいてもキュアーの感触を前面に押し出しているが、ここで感じられるのは、それとは少し違い、あくまでグルーヴィーなプリンスのサウンドと暗澹たるポップさを保ったキュアーのサウンドを融合させるという試みの野心だ。
 
 この融合は、抑圧されて内省的な一面も見せる木下と躍動感溢れる日向という対照的な二人の邂逅においても、完全に功を奏している。木下は日向と再びプレイすることを決めた際に、昨年末にフジ・ロックで繰り広げられたアトムズ・フォー・ピースの名演を思い出したと言う。アトムズと言えば、言わずと知れたレディオヘッドのフロントマン、トム・ヨークとレッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリーなどによるトムのソロ作をライヴで再現することから始まった異色バンドだが、どこか似ていないだろうか、このキリング・ボーイの成り立ち、構成と。ここでのトムは木下、フリーは日向だと言うと、やや大袈裟だけれど、邦楽ロック界をそれぞれの手法で牽引する彼らを見ていると、それほどのポテンシャルをどこかに垣間見てしまうのも事実だ。木下は活動当初、日向にスパークルホースの魅力を伝えたとも語っているが、マーク・リンカスが鳴らした、虚無や憂鬱も同時に色付けることにも、ニューゲイズやチルウェイブ、グローファイといったインディ・シーンの時流を取り入れることにも成功している。
 
 かくして、生まれたキリング・ボーイのサウンドは邦楽界に新しい風を巻き込む、「暗く閉じているのに踊れる」ダンス・ロックである。

 歌詞の面も注目したい。≪僕の愛は死んで≫(「cold blue swan」)、≪注射針を抜く時/固くなった傷跡≫(「xu」)、≪死にたい時そんなことを考えたりするよ≫(「Confusion」)など、明らかにアートスクールのそれよりも、直接的な言葉を用いて堕ちている。最終曲「Sweet Sixteen」(タイトルは、映画「SWEET SIXTEEN」を思わせる)に至っては、一節目から≪月曜は死にたいと思った≫であり、キュアーの「Friday I'm In Love」を思わせるように、曜日順に感情を歌っているが、全ての日がどれも病んでいる。キリング・ボーイは、木下の陰鬱な感性を更に曝け出すようだ。
 
 この歌詞は、インディだからこそ出せたと木下は語るが、このアルバム自体も、木下の自主レーベルであり、日向が脱退してからメジャーに移籍するまでのアートスクールの作品をリリースしていた、VeryApe Records(ニルヴァーナを敬愛する木下らしいネーミング・センスだ)からのリリースである。原盤制作費も自らが負担するなど、こだわった発売形態はこの規模の邦楽のバンドでは、珍しいほどの感じられるインディとしての意志が感じられて素晴らしい。

 キリング・ボーイは、実直なほどに海外的なエッセンスを取り入れたサウンド、自身の闇あるいは病んだ精神を晒す無防備さ、自主レーベルからの徹底的に突き詰めたリリース形態などで、邦楽シーンに新たなスタンスを提示する。それは、何よりも音楽が大好きな人間だけで構成される愛をもった現代に対するささやかなアンチテーゼのようだ。この規模のバンドのこんな活動スタイルが広く認められるようになれば、邦楽ロック界も、更に大きな可能性がどんどん芽生えるのではないだろうか。このアルバムがキッズ達にどう聴かれるかが発売早々、楽しみでならない。

(青野圭祐)

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heya.jpg 本盤は、西荻窪に実店舗を構えるセレクトCDショップ『雨と休日』の店主、寺田俊彦氏の選曲によるコンピレーション・アルバムである。『雨と休日』の名前は、Twitterでも、近頃見かけるようになりつつある。実店舗の端的な詳細を記しておくと、「穏やかな音楽」というコンセプトを掲げており、ビル・エヴァンスやステファン・グラッペリなどのジャズに始まり、ゴールドムンドなどのポスト・クラシカル、小瀬村晶などの日本のエレクトロニカ、ブリティッシュ・フォーク、聞いたこともないアンビエントのアーティスト...、文字通り、ジャンルレスに良盤が集められている(先日レヴューされていたインドネシアのアーティスト、アディティア・ソフィアンのアルバムもあったはず)。箱庭のような内装が実に素敵で、独占欲に似た「好きすぎて、あまり人に知られて欲しくない」という衝動に駆られてしまう。
 
 店主の解説曰く「中低音域をメインに使った曲」のみを集めたアルバムだそうで、全曲インストで成り立っており、中心となる楽器はアコースティック・ギターとピアノ。アーティストは、坂ノ下典正、青木隼人、paniyolo、Balmorheaなどの木漏れ日フォーク勢、小瀬村晶、haruka nakamura、Brian McBride(ドローン系のユニット、Stars of the Lidの一人)、Peter Broderickなどのアンビエントやエレクトロニカ勢、Dakota SuiteやOlafur Arnaldsなどのエクスペリメンタル勢など、ふり幅は大きいが、確かに似た音域の音楽が集められただけあり、不思議な統一感がある。おすすめはイノセンス・ミッションのギタリスト、ドン・ペリスのソロ名義での曲。
 
 部屋でアルバムを最初から通して聴くと、音楽が部屋に馴染み始め、鳴っている感覚が失われ、そこで初めて「部屋が溶ける」というフレーズが生まれたのだと言う。日常に音楽が密接しているようで、凄くいい。

(楓屋)

*3月24日リリース予定です。【編集部追記】

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radwimps.jpg「偶景(アンシダン)――偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ...表記のゼロ度、ミニ=テクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの。」(ロラン・バルト)

 君と僕を内包する狭い世界内から内破するように、抽象的でサブライムな「神」という概念に近付こうとした臨界点にして転機となったのが08年の「オーダーメイド」という曲だったのかもしれない。そこでは人間がアダムとイヴに二分化してしまった過程まで遡り、叮嚀な筆致で君と僕は別々だからこそ、繋がり合えるという絆(とその儚さ)を描写したが、そこから、ジョン・ミルトンの『失楽園』での喪失の為の路を探すための過程と『アルトコロニーの定理』という作品の持つ通気孔のなさはリンクしてくるような気もしてこないだろうか。"RADWIMPS"というそれまでのアルバム・タイトルから外れて、"定理"へ向かったときに彼らが手に入れた場所とは何だったのか、よく掴めなかった。つまり、《このなんとでも言える世界なのに この何とも言えない想いはなに このなんとでも言える世界がいやだ こんなに歌唄えちゃう世界がいやだ》(「37458」)で、最後を締めてしまえる感性に彼らの来し方としての、それまで/これからの断絶を感じさえしたからだ。

《おれとお前50になっても同じベッドで寝るの》(「ふたりごと」)と、セカイさえもぶっちぎる「君」への求心と絶対性に心身を委ねつつ、ふと(笑)と皮肉を潜ませる巧みさが彼らのチャーム・ポイントでもあった筈なのに、気が付けば、野田洋次郎を軸としたRADWIMPSというバンドは、非常に生真面目でストイックなバンドになっていった。その後、野田氏は雑誌の企画でインドに行き、死生観をより感じてきたようで、それはどういった形で作品に影響を与えるのか、個人的に興味深かった。

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 2010年6月には、「マニフェスト」と「携帯電話」という二枚のシングルをリリースして、これは肩慣らしのような雰囲気もあったから、どちらかというと、自分たちの手による自分たちの曲のパスティーシュであった要素が強かった。そして、新しいアルバムに向けてギアが入ったのが今年に入ってからの「Dada」であり、「狭心症」だった。前者は「おしゃかしゃま」路線のミクスチャー・ロック、言葉数の多さが巧みにドライヴしながら、駄々を捏ねるように、言葉遊びをするかのように、地団太を踏み何処にも行けない堂々巡りを表す曲であり、後者は過度にヘビーな情感と人類、世界、僕といった大きい言葉が並びながら、自分を攻め立てるような悲痛なムードを帯びていた。《見ちゃいけないなら僕がいけないなら 針と糸すぐほら持ってきてよ 塞いでしまうから 縫ってしまうから 最後にまとめて全部見してよ》(「狭心症」)と切り詰まる。

 自意識の中で膨れ上がったオブセッションが死生観に依拠するものだったのか、それとも、野田氏自身が持つ"人間の失敗作としての自分"という基点に戻って、もう一度表現をしないといけない必然性があったのか、この『絶体絶命』という作品全体が持っている座りの悪さからは見えてこない。また、これまで以上の多くの負性が垣間見えながら、希望や君が唄われる為か、茫漠とした印象をおぼえてしまうところもある。「透明人間18号」、「君と羊と青」、「DUGOUT」のような従来型のギターロックも清々しく響いているし、「π」でのピアノ・ロックでの弾むリズムも新鮮だ。叙情的な側面が強調された「だいだらぼっち」、「ものもらい」も澄んだ空気感がある。「G行為」におけるエミネムを真似たようなライムを披露する様も興味深い。全体的にスケールが拡がり、グル―ヴ感が増し、バンド・サウンドとしての纏まりも非常にダイレクトに響いているというのに、だ。

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 RADWIMPSがこういったスケールの大きい世界観を包含せしめようとする際に、個人的に疑念が生まれるのは、ギデンズの構造化理論のことだったりする。ギデンズによれば、社会学には現象を「意図」(人々が実際に頭の中で考えていること)から説明する主観主義的アプローチと、関係なく客観的に実現している状態(「構造」)から説明する客観主義的アプローチがある。後者は、例えば、私たちは、街中を歩いていて他人とすれ違っても積極的に話しかけたりしない。といえども、完全に無視したりもしない。これをして、「市民的無関心」とも言われている。この市民的無関心は結局、多くの人の都市での生活を可能にしている訳だ。皆が皆に話しかけていたら、都市生活の機能がままならないからだ。しかしながら、人々が「市民的無関心」を持っているのは、なにも都市の生活を可能にするためではなく、だからこそ、これは主観的な意図に還元できない現象ともいえる。この二つのアプローチを結びつけたのが構造化理論だが、「人が主観的に行動するときには、客観的な構造を前提としているし、またそのように行動することで構造を再生産している。」とすると、最近のRADWIMPSは、客観的な構造の前提が欠落したまま、主観主義的アプローチ沿いに、誰彼問わずに「話しかける」アティチュードが可視出来る。他者性に向けて、何でも言えるポジションに居ることができる彼らだからこそ、『絶体絶命』というタイトルで、スキゾなまでに多種多様な音楽のスタイルに挑み、溢れる言葉群を詰め、テンションも高いというのも良いことだとは思う。それでも、同時にこのテンション(緊張)が接点として見出す聴き手(生活者)側のフラットな感度にフィットしてくるのかは見えない。渦巻く熱量が宛先不明のままに、眼前に在る、そのような印象さえ受ける奇妙な作品だと思う。

 最後に、この作品には、過去の彼らの作品では潜んでいた偶景(アンシダン)が殆ど感じられないのが個人的に残念でならない。とともに、彼らのこの音楽は多くのユースの難渋な自意識をサルベージしたとしても、意味世界で生きていない人たちにはどう響くのか、それに少しの憂慮もおぼえてしまう。そして、RADWIMPSはこのテンション(緊張感)を保持したまま、果ての「その先」 を行くのか、複雑な想いにもなる。

《「金輪際 関わんない」「ついに諦めた、万々歳」「だけど最後に、お願いよ 耳澄ましてみて」》(「グラウンドゼロ」)

(松浦達)

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tpobpah.jpg 以前のシアトルでのライヴレポートの際にも書いたが、ザ・ペインズ・オブ・オブ・ビーイング・ピュア・ハートは、セルフタイトルを冠したファースト・アルバムから、着実に進化を遂げている。「Higher Than The Stars」EPにおいて、表題曲でプライマル・スクリームを意識したというシンセサイザーを前面に押し出したダンス・サウンドへ歩み寄る試みはもちろん、「Say No To Love」や「Heart In Your Heartbreak」といったシングルをリリースする度に、貪欲に新しいカラーを取り入れてきた彼らだけあって、セカンド・アルバムが今春発表されるという報は、今まで以上に多くのリスナーの期待を高めずにはいられないものだっただろう。しかも、プロデュースにスマシング・パンプキンズ、ナイン・インチ・ネイルズ、シガー・ロス、ジーザス・アンド・メリー・チェインなどを手がけてきたフラッド、ミックスに同じくスマパンやNINやジザメリに加えて、デス・キャブ・フォー・キューティー、ブロンド・レッドヘッド、果てにはマイ・ブラッディ・バレンタインやライドといったシューゲイズの雄たちを手がけてきたアラン・モウルダーを迎えて制作されたという事実だけで、インディー・ミュージック・ファンにとっては垂涎ものではないだろうか。スマパンの『Siamese Dream』を共通のフェイバリットの内の一枚として掲げているだけあって、バンド側も、このアルバムを発表するまでは死んでも死に切れないくらいの思いがあったことだろう。

 さて、満を持してリリースされるこの『Belong』は、端的に言うと、「Say No To Love」以降のシングルのジャケットのアートワークが象徴するように、ファースト・アルバムよりも、格段にカラフルな世界を見せてくれる豊満なサウンドだ。ファーストで彼らが示してくれた、モノクローム、あるいは淡い単色の薄こけてただれたような世界(それはジャケットだけでなく、彼らのアーティスト写真やPVでも確認することができる)に、徐々に彩りが増し、平面的なきらいも否めなかった(もちろん、この平坦さはファーストの大きな魅力の一つでもあるのだが)サウンドは、遂には、抑揚を身につけ、広がりを身につけ、何よりも確かな温かみを身につけた。例えるなら、それは、秋の始まりを感じさせるように紅く染まりゆく街路樹を通り雨が過ぎ去り、木々の先に残った滴が雨上がりの陽の光を反射して、きらきらと光る並木道のようだ、と書いてみるといいだろうか。

 僕はこのアルバムの国内盤のリリースが発表されると同時に、最初に聴いた時、思わずスーパーカーやアートスクールといった日本のオルタナティヴ・バンドのサウンドの広がりの遍歴を思い出さずにはいられなかった。デビュー・アルバム『スリーアウトチェンジ』をリリースしたスーパーカーが以降、新作を発表する度に、深淵を感じさせるまでに奥行きを増していったように、アートスクールが『Flora』をリリースし、それまでの彼らの描いた薄れゆく君と壊れゆく僕を包んだ轟音の世界にシンセサイザーの軽快なポップ・センスが加わって、より豊満な世界を垣間見ることができたように、この『Belong』もまた、一辺倒なカラーが昇華され、元の絵の具と新しい絵の具を混ぜ合わせたような、「次の世界」を見せてくれる。
 
 少し余談だが、日本のオルタナティヴ・バンドと比較を試みた上で、もう少し、加文させて頂くと、日本のオルタナ・バンドで世界観として彼らに近いのはスピッツであると僕は感じているのであるが、今作はスピッツ・ファンにもお薦めさせて頂きたいものでもある。彼らが歌う、「純粋さを保ち続けること」。そのためには歪んでもペインズ(複数の傷跡)を背負っても構わない、ただただその先のきらきら光る世界を切望し、それだけが見てみたいのだという無垢な衝動はスピッツのそれと、とても似通っているように思える。

 絵の具の先の新しい色は1曲目であり、シングルとしてもリリースされ、アルバムの表題曲でもある「Belong」を聴いてすぐに手に取るように感じることができるだろう。横に揺れるクリーンなアルペジオとタイトなドラムが軽快に鳴り、ローファイな轟音が襲ったかと思うと、すぐにクリーンとダーティな2つのギターは絡み合い、今までの彼らとは決定的に違うカラフルなノイズを響かせる。そこで、ファーストから何倍も温かみを増したキップ・ベルマンのボーカルが乗った時点で、あなたの目の前の景色は既に甘い暖色のトーンに変わっているだろう。ジーザス・アンド・メリー・チェインのような残虐な曲やアソビ・セクスを思わせる幻想的でキュートな曲もあれば、先のアートスクールが『14 SOULS』などで鳴らした清冽なまでのきらめきを保ちながら沈みゆくサウンドを想起させるような曲もあるが、どの曲もドリーム・ポップ、もっと言えば、オルタナティヴなポップ・エッセンスに包まれているから、素晴らしい。彼らがこれまでみるみる内に躍進し続けていく様を見届けていたリスナーからは驚きと同時に、「やっぱり彼らはやってくれた」というような確信の声すら聞こえてきそうだが、まさかここまでとは思えただろうか。それほどまでに、このアルバムは彼らを確実に新たなステージへ導き、多くのリスナーに彩りをもたらすようなポップ・センスに満ちている。
 
 たった一つ個人的に残念に思わずにはいられないのが、「Higher Than The Stars」EPの後にリリースされ、それまでの彼らとの決定的な差異を見せつけたシングル「Say No To Love」が収録されていない(残念ながら、国内盤のボーナス・トラックにも収録されなかった)ことであるが、それを補ってもこの『Belong』が、世界中の多くのリスナーの2010年上半期のベスト・オブ・インディー・ポップ・アルバムに選出され得るのは、まず間違いないだろう。「カラフルなペインズなんてにわかに信じ難くてアルバムにすぐには入るのは少し抵抗が...」なんてあなたには、是非、今作の前に「Say No To Love」を聴くことをお薦めさせて頂きたい。

 最後に、もう一度だけ書いておこう。『Belong』には彼らの新しい世界が詰まっている。それは、彼ら自身を新しい世界に進ませるだけでなく、インディー・ミュージック・シーンをもよりカラフルに染めてくれるだろう。僕は以前、クッキーシーンのムック誌に「彼らは00年代後半で最もホットだったシーンの一つ、ブルックリンの街角から出てき、それまでのこんがらがったニューゲイズ論争を一蹴した」といったような事を書かせて頂いたのだが、今作を聴くと、より彼らをニューゲイズという狭い枠組み一つで捉えることは不可能なのであると再認識させられるだろう。

 あなたが純粋さを保ち続ける上で、幾つもこしらえるだろう多くの傷跡に、この優しく甘いノイズが染み渡りますように。

(青野圭祐)

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nicolas_jaar.jpg ニコラス・ジャーと僕は似ている(実際、ライナーノーツにも僕が登場します)。ニコラス・ジャーは常に身近にピアノがあり、それを即興的に弾きこなしていたそうだ。そして、テクノに目覚めたキッカケが14歳のときに聴いたティガのミックスCDで、その年のクリスマスプレゼントにお父さんからルオモのアルバムとリカルド・ヴィラロボス『The Au Harem d'Archimede』を貰い、「今まで聴いたなかで一番セクシーな音楽だなと思ったよ」とぬかすニコラス・ジャー。 詳しくはライナーノーツに載っているので、買って読んでください。かなり面白いです。

 ちなみに僕も、音楽は常に身近にあった。クッキーシーンで書かせてもらった原稿でも何回か触れたけど、僕の親父とお袋は小さい頃からいろんな音楽(主にポストパンクやダンス・ミュージック)を聴かせてくれた。これは僕の友達のなかでも賛否がある話なんだけど、僕は87年に『ハシエンダ』でDJペドロのプレイ聴いた! まず、DJペドロとはロラン・ガルニエが『ハシエンダ』でDJを始めたときのDJネームだ。そして、なぜ僕がDJペドロのDJを聴いたと言えるのか? それは、僕が胎児としてお袋のお腹にいるとき、親父とお袋は『ハシエンダ』に行ってるからだ。よく胎内にいるときでも外の音は聞こえると言われているが、もしそれが本当なら、僕は『ハシエンダ』の音を胎児として体験していることになる。ただ残念なことに、そのときの記憶は一切ないのだが...。

 こうして書いていくと、ニコラス・ジャーと僕は共に音楽の英才教育を受けていると言えなくもないし、共通点も少なくない。ただ、ニコラス・ジャーにはその英才教育の成果を、音楽という形で表現できる才能がある。一方の僕は、ニコラス・ジャーみたいに音楽として成果を表現できる才能がなく、それでも好きな音楽に関わりたいがために、こうして「不誠実な寄生虫」として文章を書いている。そんな僕からすれば、この『Space Is Only Noise』は、嫉妬にも近い賞賛をしたくなるようなアルバムだ。

『Space Is Only Noise』は、Circus Companyというレーベルからリリースされている。昨年のDop『Greatest Hits』リリースで注目を集めたレーベルで、次にプッシュするのがニコラス・ジャーというわけだ。そのニコラス・ジャーのデビュー・アルバムは、実験的なポップ・ミュージックであると同時に、ダンス・ミュージックでもある。『Time For Us EP』や『Love You Gotta Lose Again EP』のように「トラック」として機能させようとした意識はなく、自由に様々な音楽を楽しんでいる様子が見て取れる。前衛的なインタールード曲「Sunflower」、美しいピアノとヴォイス・サンプルに鋭いヒップホップ・ビートが交わる「Specters Of The Future」、スーパーピッチャー『Kilimanjaro』を思わせる「Too Many Kids Finding Rain In The Dust」や「Keep Me There」など、アルバム全体としては今までのリリースで見せてきたダンス・ミュージック色に加え、ジャズやアフリカ音楽というニコラス・ジャーが幼少の頃から聴いてきた音楽の要素が色濃く出ている。そのためフロア直結型ではないが、映画のサウンドトラックのように全体としての世界観はより強固なものとなっている。そして、『Space Is Only Noise』の音は歌っている。わかりやすいヴォーカル曲があるわけではないが、音のひとつひとつに言葉と風景が刻まれていて、それらが一斉に歌っているかのように聞こえるのだ。それは時折SSWアルバムと錯覚させるほど。そういう意味では、ジェームズ・ブレイクの『James Blake』に近いと言えるかも知れない。ただ、『Space Is Only Noise』のほうがより強い主張があるし、『James Blake』にある孤独さというのは感じられない。メランコリックではあるものの、より豊かな感情表現がある。

 そして、この豊かな感情表現と主張の強さの理由は、ニコラス・ジャーのこんな発言からも垣間見える思想によるものかも知れない。

「90年代を通して、ダンス・ミュージックはスピードをあげたかもしれないけど、一方で表現する幅は狭くなった」(ライナーノーツから引用。発言元はガーディアンのインタビュー)

 このあとは「とても一面的で、現実逃避のサウンドトラックになってしまった」と続くが、この話には同意できる。というのも、The Kink Controversyで現在のダンス・ミュージックについて書かせてもらったことと一致する部分もあるからだ。ニコラス・ジャーは、ダンスフロアに感情の幅広さと「自己」を呼び戻したと思う。上手く表現できる言葉が見つからないが、ニコラス・ジャーの音楽がダンスフロアで鳴り響いた瞬間、そこにいる人々は私小説を披露することが許される。そして、それぞれが自分を表現することによって「人は皆違う」と理解し、その点においてその場に居る人達が「共有」できる何かが生まれる。それは、無理して大衆となり息苦しい思いをしている人や、無理して大衆になれないがために疎外感を抱いている人。そうした人々も許容される場ではないだろうか? 美しい緊張感とメランコリックに溢れながらも、自由でリラックスとした雰囲気すら感じる『Space Is Only Noise』を聴いていると、そんなダンスフロアの新たな風景が見えてくる。

(近藤真弥)

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bo-ningen.jpg BO-NINGEN(棒人間)。我々人間が自らを「人間」とすると、なぜかドキリとする。それとも、この「棒」という単語が曲者で、無機質な「棒」という単語と、血肉が通ってこそ生きている「人間」という考えから、相反するそれが並ぶ事で「死」を連想してしまったりして、ドキリとしてしまうのだろうか。

 いずれにしても、BO-NINGEN(棒人間)と名乗る、この日本人の四人組は、活動の拠点をUKに持ち、ザ・ホラーズのお気に入りであったり、各地で精力的なライブをこなす事で話題を振りまき、このデビューアルバムが届くまでには、ここ日本よりも海外での認知度を高めていったようだ(それにしても、海外で人気の日本人バンドとは日本での認知度は低いというのは、世の常だろうか。)
 
 その見た目は1970年代から飛び出してきたような時代錯誤(失礼承知で言うならば)な長髪とファッションというのは、ヴィジュアル系がウケてると聞く海外の好みから言えば少なからず要素の一つだろう。海外を拠点にしながらも、詩の99%を日本語で歌う事はその場所で活動を続ける彼らを特徴付ける要素でもあるだろし、そんな日本語を楽しんでいるようにも思える。彼らは、「koroshitai kimochi」と曲のタイトルにつけ、「殺したい気持ち」という殺伐とし気分をアルファベットを並べて中和しているようだ。また、そんな言葉をはきだす歌い方も特徴的で、(急にこんな事を言えば的外れかもしれないが)僕は、「北斗の拳」を思い出してしまう。ケンシロウが一子相伝の北斗神拳をもって、アベシ! と言わせるあれだ。「あたたたた!」と北斗百列拳を繰り出すケンシロウのようなあの甲高い声が、ところどころでシャウトされ、僕は思わずにんまりしてしまう。実にこれがいいスパイスになっている。こう言うとまるで「イロモノ」だが、ブラック・サバス直径のようなギター・リフに、展開はプログレッシブ・ロックという様は、一筋縄ではいかない。全体を通して、サイケデリックな音使いではあるが、今まで語った要素を足してみると、「サイケデリック」という言葉は、「おどろおどろしい」という言葉にも置き換えられる気がする。日本語、アニメ、おどろおどろしい。実に彼らは日本的である。そんなバンドが海外で活躍しているのなら、とても喜ばしい事だ。
 
 ところで、偶然なのか必然なのか「人間」と名乗る、とあるバンドを思い出す。かつて、一世風靡した番組、イカすバンド天国出身のバンド、人間椅子である。その「椅子」という無機質な物体と「人間」という単語を組み合わせるセンスもさる事ながら、上記にあげたサウンド面の特徴とは、ほとんど人間椅子にも当てはまる。そして、BO-NINGEN(棒人間)が海外で日本語を歌うように、青森出身の人間椅子は東京の地で津軽弁を交えた歌を歌う。もしかしたら、この精神こそ、両者の共通項の根源なのかもしれない。それにしても、かつてはねずみ男の衣装にまで身を包んだ人間椅子とは、あの時代には早すぎた存在だったのかなと、BO-NINGEN(棒人間)の活動を見ながら思い、そして、少し悔やむ。「BO-NINGEN(棒人間)よ、人間椅子のためにも頑張ってくれ!!」と言ったら、いまだ現役の人間椅子に怒られてしまうだろうか。

(佐藤奨作)

*日本盤は4月6日リリース予定です。【編集部追記】

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abd_al_malik.jpg「スラム」という様式を世間にアピールした06年のセカンド・アルバム『GIBRALTAR』の鮮烈さはいまだに記憶に新しい。05年のフランス・パリの郊外で起きた暴動事件に関連する形で、フランスという国の持つ固定化された階層構造についてメスを入れたのみならず、グローバリゼーションの進捗下で、「もてる者/もたざる者」が決して規得の型枠の中で形成されるものではなく、或る程度、"innate"なものが優先されるというあからさまな図式をメタ化するような詩情は美しかった。例えば、「La Gravité」という曲で、《Avoir mal à la bourgeoisie comme Che Guevara, se lever chaque matin sans réellement savoir pourquoi, Souffrir du non sens, une maladie qui n'épargne aucun personnage, Je viens d'un lieu où rien n'est jamais vraiment grave.(チェ・ゲバラのようにブルジョワジーに不快をおぼえ、毎朝起きる理由も本当にはわからない 意味のなさに苦しむ この病気はどんな人物であろうと逃さない 重苦しいことなどない土地から私は来た)》と、コンゴ系フランス人の彼が綴る意味は大きかった。

 今思えば、スラヴォイ・ジジェクの『暴力――6つの斜めからの省察』(青土社)に繋がるところもあった気もする。ジジェクの指摘した暴力論とは、直接的な関与や対峙では暴力を再生産する恐れがあり、「斜めからの視線」を持った上で向き合うべき余白を用意する。要は、散文的な態度を取り、シビアに観照することで、新しく「暴力」に対しての言葉に依拠した対抗ではない、非言語としての芸術の一姿勢として音楽が持ち上がるとき、その音楽に近い形を取る詩のみが「何か」を語ることができたのかもしれないとしたなら、スラムはモダン(近代)以降の音楽様式を予め含んでいたともいえる。

 少し説明しておくと、スラムとは、80年代のシカゴで始まり、フランスでは90年代以降にも行なわれるようになったポエトリーリーディングのパフォーマンスの一種である。スラム・セッションは、カフェ、ストリート、バー、あちこちの「人の居る場所」で行なわれ、それがまた電子媒体などに乗る形で世界中に伝播していったからして、それらを間接的にでも観た方々も多いことと察する。

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 アブダル・マリック(ABD AL MALIK)は精緻な意味では、スラムというフォーマットを活かしながら、あくまでラップ、ヒップホップのセンスを軸にしたアティチュードを取るとともに、例えば、セルジュ・ゲンスブールが生きていたら、間違いなく剽窃したであろう「ポエトリーリーディング・ミーツ・ジャズ」、はたまた、一部のメディアが言うような「シャンソン・ミーツ・ヒップホップ」とでもいえるような流麗なスタイルも纏っていた。また、舌鋒鋭く世の欺瞞を暴くパースペクティヴと、ストリートに根差した峻厳で哲学的な思考を巷間に向けて昇華させていた手際も周到だった。

 08年の手堅い深化作『Dante』を経て、今回、新しいアルバムをかのゴンザレスがプロデュースするということを聞いたとき、良い形での化学反応が起きるのか、それとも、沈潜するようなビート・メイクとエレクトロニクスの中に彼の声も埋もれてしまわないか(つまり、マニエリスモに回収されてしまわないか)、個人的に二つの考えが浮かんだ。

 結論から言うと、この『Château Rouge』はその二つの選択肢の間を縫うような、そして、避けるような、大胆な舵取りをした作品になっている。ゴンザレスの意向が明瞭に示された、チープであり、過剰にフックがあるエレクトロニックな意匠が凝らされたトラックの上で、スラム、ラップという既存のスタイルを取りながらも、ときに朗々と「歌う」というギクシャクした要素も含まれており、これまでの彼のイメージを覆す実験性が先立ちながらも、ポップな開け方をしている。それだけに、過去のような"「歌」としての政治性"の必然は此処には感じることはできないかもしれない。しかしながら、個人的には、スノビズムといった何かで割り切って流してしまうよりも、彼自身が踏み込んだ「場所」自体に興味深さを感じる。その場所には、例えば、おそらく比較に出されるであろうアンチコン界隈のヒップホップとは一線を隔したものであり、どちらかというと、ルーペ・フィアスコ(LUPE FIASCO)『Food & Requor』、キッド・カディ『Man On The Moon-The End Of Day』辺りの作品やニンジャ・チューンのヒップホップ・レーベルであるBIG DADAのアーティスト群に近似する「ベタ」な温度を感じるからだ。

 惜しむらくは、PVでおどけながら歌うコミカルなチープ・エレクトロ・ポップ「Ma Jolie」や80年代風のダンス・ビートの野暮ったさが残る「Syndi Ska Liste」といい、要所でどうにも、「大味」のプロダクションが目立つ点と、ゴンザレスのプロデュースと彼が噛み合っていないところが散見することだ。彼自身も今作にあたってはインタビューで「エレキギターを持ったボブ・ディラン」なんて発言もして物議を醸しているが、これまでのキャリアになかった軽やかさを得るための急進性を選んだという意味では、「次」に繋がる過渡期としての作品として捉えるべきかもしれない。或る意味で、メタに知性を駆使してきた彼がベタなポップ・フィールドに降りようとしたコンテクストが透けて見えるという手応えともどかしさを感じる面白い意欲作だと思う。

(松浦達)

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ducktails.jpg これこそインディー・ポップの真骨頂、醍醐味であるといえる作品。リアル・エステイトのギタリスト、Matthew Mondanileによるソロ・プロジェクトの3rdアルバム。平坦なドラム・マシーンと、トロピカルかつサイケデリックに重ね合わせたギターによる人力アンビエントは、文字通りDIYかつローファイであり、「こねくり回していたら、こんなものができちゃいました」と言わんばかりの、強烈なセンスが光る(しかしながらギターの演奏は相当の上手さ)。
 
 リアル・エステイトでは、ドリーミーかつポップなバンド・サウンドの中に、危うさ、ノスタルジー、あるいは毒のようなものが垣間見えていたが、ダックテイルズにおいては、そういった複雑な要素は薄まっている。現実的なしがらみからトリップしたかのように、ストレス・フリーで白昼夢的だ。いずれにせよ、00'sの最後に現れた新機軸バンドが、非常にトラッドなインディー・ポップを鳴らしているというのは気持ちがいい。この質感は堪らない。

(楓屋)

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hoshinogen.jpg WIRED VISIONの2010年11月30日の記事
で、情報の中毒性と既知の事実への新たな知の好奇心のシステムについて触れている。ワシントン州立大学の神経科学者JAAK PANKSEPP氏の「ドーパミン系の予期せぬものを見出したり、新しいものを期待したりすることで活性化される」という言に沿うと、毎日の大量の情報の摂取とは健全なる「報酬」のメカニズムを示唆する訳だ。しかし、同時に人間の情報処理能力や記憶のキャパシティは有限であり、好奇心の射程も「しれている」。

 同記事では、アメリカの政治学者のLARRY BARTELS氏の調査も取り上げ、政治に詳しい人だとしても、「支持政党に起因するバイアス」から逃れられない理由として、「人々は自分たちが既に信じていることを裏付ける事実しか吸収しない傾向にあるからだ」と述べている。要は、「知らないことに関して、知らない」という姿勢を造作もなく、人間は取ることが出来るのとともに、自分の中でインストール済みの情報や知識を反復する為に、その媒体にアクセスして「再確認」してみることも多くなるというのは当然ということだろう。だから、昨日、雑踏ですれ違った人の表情を想い出そうとするよりも、自分の中のミームで仕切られた情報の中での制限された報酬を得ることで満足する瀬を更新というのか、後進というのか、人それぞれだとしても、「日常は退屈に溢れている」と降りてしまうには、確認出来ないことが多すぎる。それをして、星野源はささやかに《くだらないの中に 愛が 人は笑うように生きる》と歌う。そこには過剰なロマンティシズムも自己陶酔も啓蒙もモードもなく、彼自身がインタビューで自分を評する際の「普通の人」としての真っ当な感覚が裏付けされている。
 
 SAKEROCKのリーダー、劇団大人計画の俳優、文筆家など多彩な顔を持ち、コアなファンも多い彼が昨年にリリースした「うたもの」要素が強く出た彼流の『Hosono House』とでも言えるだろうか、ファースト・ソロ・アルバム『ばかのうた』の存在感は大きかった。

 内容自体としては大仰でもなく、どちらかというと、地味でストイックな要素が強かったが、この作品によって彼の「声」や「詩情」を改めて発見した人も居ただろうし、彼を取り巻く総体的な活動にそこまで興味を持っていない人たちにも良質な作品としての魅力を感じさせたのは、逆説的にその新しさも劇的な仕掛けもない、柔らかな温度が立ちのぼる、陽炎のような「平穏な日常が忍び寄る気配」に依拠していたような気もする。平穏な日常がすぐ傍まで自分に寄ってくる「気配」とは、隠し事のない、或る種の残酷な世界観としての意味も含まれてくる。ゆえに、彼が筆致する描写は《世界は ひとつじゃない もとより ばらばらのまま》(「ばらばら」)、《いつかなにも 覚えていなくなるように 今の気持ちも 忘れてしまうのかな きっと 腐った体だけを残して》(「キッチン」)、《寂しいと叫ぶには 僕はあまりにくだらない》(「くせのうた」)、《朝起きて 仕事して 帰ると君が 腹へって 冷蔵庫 開けて二人は ぼんやりとチューするの》(「子供」)のような他愛なく、時に彼岸を思わせる視点が内在される。その内在された視点の箱庭で暮らすのは、彼が当初に設置した登場人物ではない「君や僕」かもしれないところに意味があったとしたならば、此岸の「君や僕」は彼の唄う彼岸の「君や僕」に近付こうとするために、自らの他愛のない日常を再確認することができた、行為性を引き寄せるという深みもあった気がする。また、僕個人としては、『ばかのうた』にはコリン・ブランストーンの『一年間』、ロバート・ワイアット『ナッシング・キャント・ストップ・アス』、中村一義『太陽』などの作品に宿る、じんわりと聴いた人の心を暖める歌い手としての「うたごころ」に通底する何かがあったのも美しく感じた。

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 ファースト・ソロ・シングルとなるこの「くだらないの中に」も、取り立てて斬新な試みもなにもない、『ばかのうた』の延長線上にある凛とした視線が貫かれている。良い具合に肩の力の抜けたフォーキーな表題曲、叙情的な「歌を歌うときは」、朗らかなムードの「湯気」の3曲の新曲と、「ブランコ」、「くせのうた」の自宅で一人で録られたというテイク、初回版には「くだらないの中に」、「くせのうた」のPV、『ばかのうた』や今回のシングルを巡るドキュメンタリー、ソロ・ライヴの映像、オーディオ・コメンタリーなどを収めたDVDが付属しており、昨年からのソロ・アルバム・プロジェクトの総集編のようなヴォリュームになっている。
「くだらないの中に」での登場人物も、相変わらず「君と僕」で、「魔法」や「希望」なんて大文字の言葉に魅かれたりしながらも、結局はお互いの髪の匂いを嗅ぎ合ったり、首筋の匂いがパンのようですごいな、と絡まり合うだけで蒸発してゆく"湯気"のような景色に溶け込んでしまう儚さとありふれた風景が縁取られている。対象化させるように、2曲目の「歌を歌うときは」では、《想い伝えるには 真面目にやるのよ》という素面の冴えたフレーズも挟まってくるのが印象に残る。

 このシングルでの「君」もブレはない。それでも、何度確かめても「君」が「君」なのか、分からないような人間の性(さが)に寄り添う分だけ褪せないタナトスがこれまでよりも濃厚に宿っている。そのタナトスが覆う平坦で朧ろな日常を掻い潜って、君「と僕」が担う「くだらない」の中に果たして、本当は誰が残響するのか、が確かには視えない場所に彼の素面の鋭い知性が突き刺さったまま、宙空に浮かんでいる。浮かんだままで、彼の手元から日常という「彼岸」へと投げられた先に何があるのか、その想域は聴き手に委ねられている。

《心が割れる音聴きあって ばかだなあって泣かせあったり つけた傷の向こう側 人は笑うように》(「くだらないの中に」)

(松浦達)

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antichrist.jpg『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などを手掛けたラース・フォン・トリアーが監督した新作『アンチクライスト』はシャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォーが主演し、シャルロットは今作の演技で第62回カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞している。

(*ストーリー・愛し合っている最中に息子を事故で失った妻(シャルロット・ゲンズブール)は罪悪感から精神を病んでしまい、セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は妻を何とかしようと森の中にあるエデンと呼ぶ山小屋に連れて行って治療を試みるが、事態はますます悪化していき...。)

 ラース・フォン・トリアー監督が自身のうつ病からリハビリとして書き始めた今作は彼にとってのセラピーになったようだ。大ヒットしている『冷たい熱帯魚』の園子温監督もこの映画を作ることで自分自身が救われたとインタビューで答えていたが、どちらも強烈な作品であり目を逸らしたくなるようなシーンも性的な描写もある作品である。

 壊れていく妻であるシャルロットとそれを見守る夫のウィレムのセックスシーンはぼかしが入っているのだが海外の映画はそこまで作品のためにできるのだなあと改めて思いながら観賞した。二人の性行為シーンは妻の肉薄した壊れそうな自分を救ってほしい、この世に繋ぎ止めるような行為であり、シャルロットの自慰行為などもぼかしを入れる必要あるのかと思ってしまった。ない方が自然だし、入れる事で余計に意味を持たしてしまうような気もする。

 精神が壊れてしまう妻を観ていると思い浮かんだのは橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』とトラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』の二作だった。『ぐるりのこと。』はとても素晴らしく壊れてしまった妻とずっと一緒にいた夫との時間を社会に起きた事件などを描きながら二人がいたその時間を丁寧に描いた作品だった。

 『ノルウェイの森』は非常に脚本がクソだとしか思えない展開で原作の村上春樹『ノルウェイの森』を読んでないと映画の物語が補完できない残念な作りだった。そしてこの作品はボーイフレンドが自殺して精神が病んでしまった直子を演じた菊地凛子や小説では重要なキャラクターだったレイコを演じた霧島れいかとの性行為シーンが胸すら出ないし映ってないという不自然極まりないシーンで内容も残念な事ながらそこにもリアリティの欠片もなかった。

 シャルロットの演技を観て、一部のきわどいショットは代役らしいが(おそらくはそれはクリトリスや女性器が映っているシーンではないかと思うのだが)、性行為シーンや『ノルウェイの森』の原作小説でいえば緑のパンティで包んで手コキ(映画ではそのシーンはなかった)に近いシーンでも彼女はウィレム・デフォーと肉体を持って演技して、妻になっていた彼女を観ながら僕は『ノルウェイの森』の菊地凛子もシャルロット・ゲンズブールぐらいしてくれたらあの映画もまだ少しだけマシにはなったのではないかと思いながら観てしまった。画というか撮り方がアートフィルムのような感じの部分もあり、そこの辺りは少し眠気を感じたりもしたが、後半に行くにつれて妻と夫しか出てこないシーンでの展開と妻が夫にする行為を観ながら喉がとても乾いた。

 セックスとある種の暴力を描く事で、観ることで、救われる何かというものが人間の何かは少なからずある。そこには作品における殺人も含まれていると思う。人は体験できないことを、しようと思ってもできないことを作品で疑似体験するによって救いだったり癒しやストレスからの開放を見つけれる事ができる。

 ミニシアター系の単館系の映画館の閉館が続き少しだけ話題になったが、シネコンの乱発でスクリーンは増えているのに上映される作品の数自体は減っているようだ。スクリーンが増えても同じ作品を多く流されるという状況の中でこの『アンチクライスト』の公開や一月末に公開され連日立ち見になりヒットしている園子温監督『冷たい熱帯魚』という作品が求められる理由は簡単だろう。

 観客は制作側の「どうせこのくらいの内容で役者で知名度がある原作なら客入るっしょ」的な考えで作られた作品にはもう飽き飽きしているのだ。いろんなものがフリーになっていく時代の中でお金を払ってでもみたいのは作り手の強烈な才能や禁忌とすら戯れているようでもあるラインを越えてしまうような作品に出会い、体験したいのだと思う。

 シャルロット演じる妻が下半身丸出しで森を彷徨うシーンや夫の自由を奪うためにする目を背けたくなるような行為や、セックスの最中に子供を失ってしまった事に対しての懺悔のようなシーンの強烈さ、などまさしく息をのんでしまう。観終わった後に劇場から渋谷の雑踏に立ったときに、少しだけラース監督がこの作品によって救われたと言った事がわかるような気がした。

(碇本学)

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