March 2011アーカイブ

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lykke_li.jpg リッキ・リーの名前、もしくは声を初めて聞いたのはいつだろうか。私はプライマル・スクリーム『Beautiful Future』の「uptown」「the glory of love」におけるバッキング・ボーカルでその声を初めて聴いた。次はロイクソップ『Junior』での「Miss It So Much」と「Were You Ever Wanted」における客演であった。このように彼女の声に初めて触れたのが本人の音源ではなく、アーティストの客演や、リミックスであったという人は多いのではないだろうか。他にも彼女が客演している曲、リミックスされたものを挙げると、カニエ・ウエスト、N.A.S.A.、サンティゴールドなどと供に「ギフテッド」を収録、TV オン・ザ・レディオの中心人物デイヴ・シーテックは彼女の「I Follow Revers」をリミックスし、「Little Bit」のドレイクによるリミックスなどもある。また、フレンドリー・ファイアーズは彼女の「I'm Good, I'm Gone」をカヴァーしていて、彼女の才能が非常に大きな規模で受け入れられていることがわかる。また、彼女自身、他アーティストの曲のカヴァーもおこなっていて、カヴァー曲にはキングス・オブ・レオン「Knocked Up」、ア・トライブ・コールド・クエスト「Can I Kick It?」、リル・ウェイン「A Milli」、ヴァンパイア・ウィークエンド「Cape Cod Kwassa Kwassa」などがあり、彼女の音楽的関心もまたジャンルレスであることが窺われる。

 そんな彼女は1986年にミュージシャンの親の元に生まれ、世界の様々な場所を転々と引っ越しを繰り返し、越境を繰り返した。ニューヨークに流れ着いた彼女は、そこで2008年にデビューアルバム『Youth Novels』をリリースした。まずは少しだけこのアルバムの音楽性について言及しようと思う。しかしその前にいささか唐突ではあるが、あるギタリストの発言の引用をする。

「彼はミニマリストなんだ。ギターのオーヴァーダブとかドラムスの音をいろいろいじったりすることを嫌う。かつビートにこだわるんだ。それと、ベース。その2つが決まればかなり満足するんだ、俺たち。例えば他のプロデューサーだったら何百と音を入れるようなところに、彼は2つ3つを入れる程度。それが良いんだな。それにユーモアのセンスが最高さ。スウェーデン風の不思議なユーモア、俺たちそれが特に気にいったんだ」

 これはプライマル・スクリームのギタリストであるアンドリュー・イネスが、彼らのアルバム『Beautiful Future』の一部の曲をプロデュースしたビョ―ン・イットリングについて言及したものであり、イネスの言葉はビョ―ンのプロデュースについての特徴を巧みに言い表している。実はリッキ・リーがリリースしてきた2枚のスタジオアルバムも彼のプロデュースであり、イネスによるビョ―ンのプロデューサーとしての特徴についての言及は彼女の2枚の作品においても的を得ている。

『Youth Novels』は清楚でガーリーな、それでいてどこか小悪魔チックなところもある彼女のボーカルがビョ―ン・イットリングによるダンサブルでミニマルなアレンジの上で踊る良盤である。この作品は当時、21歳だった彼女の赤裸々な想いを書き連ねた、まさしく「青春小説」である。しかし、それは思春期特有の甘酸っぱさとはかけ離れており、どこか物寂しげで、時に暗く沈む。

 冒頭で《愛はハーモニー 欲望は鍵 愛はメロディー 今、私とともにそれを歌う》(「Melodies & Desires」)とテルミン、シンセサイザー、ピアノ、アコースティックギターがごく控えめに奏でる陰鬱なサウンドの中、彼女は呟く。アルバムの幕開けとして最適なナンバーであり、この曲がアルバムの雰囲気を完全に決定している。 続く「Dance Dance Dance」はダンサブルなベースが孤独に響き続ける中、「ダンス」という言葉から連想する楽しさなどは微塵も感じられず、誰もいない部屋の中で一人ぼっちでダンスしている彼女の姿を思わず連想してしまう。「Let It Fall」のように失意の中、わずかにドリーミーな瞬間が差し挟まれる曲もあるのだが、その「ドリーミー」はどこか夢想することへの諦念のようなものを含んでいる。60sにおけるガールズ・ポップを彷彿とするナンバー「My love」では彼女が付き合ってきたであろう男性たちに《どこに行ったの?》と問いかけ、《私の愛する人はきっとやってくる》と歌う。「Tonight」では《私の瞳よ、乾いて》と歌い、「Little Bit」では《私はあなたを少しだけ愛してる、あなたが私を少しだけ愛してくれるならね》と歌う。「Everybody But Me」にでは《みんな踊っているけど私は踊らないわ》と自分以外の人間と自分との間に広がる絶望的なまでの差異に戸惑っている。そしてそれほどまでに辛い思いをしてでも彼女は、静かなピアノの音色にか細い、今にも千切れてしまいそうなウィスパリングボイスを優しく乗せ、《私は青春を失いたくない》と「Time Flies」で歌う。

 今回はこのアルバムのレビューではないのでいくつかの曲をざっと紹介するにとどめて置くが、それだけでも十二分に彼女の1stアルバムにおいて基調となっている雰囲気を読みとってもらえたと思う。このアルバムの全てのナンバーが青春は喪失や寂寥感のそれであると囁き続けていた。

 ここで、このレビューで紹介する『Wounded Rhymes』について説明しようと思うのだが、その前に少しだけ彼女がこのアルバムを発売する前に発表されたモーゼズ・バークソンが撮ったショートフィルム『Solarium』について触れなければいけない。なぜなら彼女はこの映画の出演者であり、この映画は『Wounded Rhymes』製作に大きな影響を与えているからである。彼女は失恋、それに加えて度重なるツアーへの疲れから、友人とともにキャメラを携えて砂漠へ向かった。そこにある大きな太陽と鏡が(映画内には多くの鏡が出てくる)、「自分自信のエゴ、思想、期待、取り除くのが困難な様々な想い」を可視化する助けになったらしい。ジャック・ラカンを引くまでもなく、いつの時代も人々は鏡に想像的な己を映し出すのだ。このモノクロームのショートフィルムにおけるリッキ・リーは『Young Novels』において我々が想像したキュートでガーリーな彼女は存在せず、エロティックに体を揺れ動かし、艶めかしく鏡に摺りつけ、なにか怨念めいたものを体中から噴出させている彼女がそこにはいた。そして、この彼女の変化は『Wounded Rhymes』においても継続しているのだ。このアルバムにおいてまず印象的なのは前作におけるセンチメンタルなシンセ・サウンド、ロリータ・ヴォーカルはそのままだが、際立って鼓膜を刺激するのはビョークさえ想起させる野性味溢れるブードゥーでダンサブルなドラムであった。このダークで躍動的なビートが本作におけるトーンを形作っている。

 彼女は前作を《愛はハーモニー 欲望は鍵 愛はメロディー 今、私とともにそれを歌う》という言葉とともに始めたが、彼女はこのアルバムを雄々しく打ち鳴らされるドラムに乗せて《私は若者は知らないと言った 若者は痛みが無いことを知っている》と始めた。ここでも彼女が歌うのは前作と同じ、「若者」についてである。そしてそれは「痛み」についての物語であると彼女は歌う。続く「I Follow Rever」では《海の底まであなたについてゆくわ》と歌い、「Love Out Of Lust」では《あなたの腕で死んだ方がマシ》と歌う。前作よりもラウドで強靭になったビートに比べ、歌詞においては前作よりも相手の男性に依存してゆくようなものが多く見られるのは興味深いところだ。続く「Unrequested Love」ではムードが一転してカントリー風の歌唱が柔らかに爪弾かれるギターとともに緩やかな雰囲気に満たされる。60sのガールズ・ポップ風味のバックコーラスが聴こえるのもムード演出に一役買っている。しかしそこで歌われるのは「報われない恋」についてである。5曲目はリード・シングル「Get Some」。肉体的でダンサブルなビートに乗せてリッキ・リーが言葉にメロディを纏わせず、ぶつきりのまま、その想いをストレートにぶちまけるなんともアグレッシヴなナンバーである。これは村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』に触発されて書かれた曲であることが知られているが、歌詞のほうはかなりダイレクトにイヤラシイことになっている。本人曰く「みんなエロいっていうけど、これはパワーについての曲なのよ!」らしいが、やっぱりどう読んでもこの歌詞はエロい。でも彼女は私のような論者に対しては「女が何かするとすぐに神経質にセックスのことだと言ってくるのよね」と言っているらしい。本当にごめんなさい。両方とも英新聞『ガーディアン』からの引用です。

「Rich Kids Blues」はハモンドオルガンが鳴り響く中、リッキがどこか粘着質な歌唱法で《私は金持ちの坊やたちのブルースを得た あなたには関係ないけどね》と歌う。続く「Sadness Is A Blessing」はこのアルバムのタイトル『Wounded Rhymes』というワードをその歌詞に含む曲であり、フィル・スペクターを彷彿とさせるアレンジがその物悲しい歌詞に静かに優しく寄り添う。この曲は彼女の失恋についての曲である。《毎晩 私はわめきちらし、求め、乞う。彼に行かないでくれと》そして、彼女はここで彼女にとっての「成長」を歌う。《悲しみは祝福 悲しみは真珠 悲しみはボーイフレンド ああ悲しみよ 私はあなたの女よ》。そう、その「成長」とは悲しみを受け入れることであった。1stアルバムから長い道のりを経て彼女はこの答えを見出した。大袈裟な物言いであることは十分に承知しているが、それでも1人の女性として、リッキがこの想いを吐き出したことに僕は静かな感動を覚えた。その答えに辿り着いた彼女は次の曲「I Know Places」でどこか達観したように《私は私たちのゆける場所がわかるの》と静かに、溜め息を吐くように歌い、「Jerome」ではジェロームに向かって《今、あなたは私のもの もう一度私のものになったの 誓いなさい あなたは決して私のもとを離れないと》と、その身勝手な想いのたけを口にする。最終曲「Silent My Song」。彼女はこのアルバムが「痛み」についての物語であるということを1曲目で宣言したと私は書いた。この最後の曲では彼女はやはり「痛み」について歌う。《背中の中に針が入っていて 私の血管と魂を切り開き そのことが私をリラックスさせる》。このマゾヒスティックな表現から読みとることができるのは彼女が青春、もしくは若さというものが徹頭徹尾、痛みや悲しみによって貫かれていると考えているということである。

 無論、彼女がこのアルバムで辿り着いた答えは何の目新しさも無い。しかし、ポップ・ミュージックが恋愛を語るときにダイナミズムを帯びるのは、決まって「愛」を得る時よりも、それを失った時である。少なくとも私はそう思っている。リッキ・リーは「失われた愛」を「傷ついた韻」で歌った。この事実はポップ・ミュージックにおいて一人の才能あふれる歌姫が誕生したことを告げる。

(八木皓平)

*日本盤は4月20日リリース予定です。【編集部追記】

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rem_.jpg 今でも大好きなバンド、大切なアルバムがたくさんある。いつ、どこで、どんなふうに出会ったのか、僕はそのひとつひとつを思い出せる。ちっぽけとは言いたくないけれど、壮大とも言い切れない人生の中で出会うべくして出会った音楽。今そばにいてくれる誰かのように、今すぐ思い浮かぶ誰かのように、それはかけがえのないものだ。一度でも音楽に心を奪われたことがある人には、わかってもらえるはず。今、そんなことを考えながらR.E.M.にとって15作目となる『コラプス・イントゥ・ナウ』を聞いている。

 僕はR.E.M.の音楽を聴きながら育った。軽快なビートを刻むスネアと早口言葉みたいな歌。「レナード・バーンスタイン!」でのブレイク。少年が廃屋でスケボーしながら、犬と遊んでいた。ナイーヴすぎると思うけれど、自分に似ている気がした。「It's The End Of The World」だなんて、最高じゃないか! 1987年、僕はそんなふうにR.E.M.と出会った。それは今、全然笑えない皮肉かもしれない。でも、曲のパワーは初めて聞いたあの時のまま。相変わらずカッコいい。やっぱり"I Feel Fine!"って叫びたくなる。

 テレビを消して、ジャケットを眺めながら『コラプス・イントゥ・ナウ』を聞く。そこにはオリジナル・アルバムとして初めて3人の姿が写っている。腕を大きく振り上げたマイケルがいつになく頼もしい。「Discoverer(発見者)」「All The Best」「Every Day Is Yours To Win」など、ポジティヴなタイトルの曲が並ぶ。『New Adventures In Hi-Fi』以降、モノクロームや淡い色彩をイメージさせる曲調が多かったけれど、ここではすべてがカラフルだ。力強いマイケル・スタイプの歌声。ピーター・バックは、繊細なアルペジオと豪快なフィードバックを自由に操る。マイク・ミルズのコーラスと発想豊かなベース・ラインが優しく彩りを添える。躍動感、そして鮮やかな生命力。「Uberlin」でマイケルは歌う。

《I know I know I know what I am chasing / I know I know I know that this is changing me》

 インタビューでも言及されているとおり、"Change"という言葉が今、いくつもの意味を持って響く。そして現在進行形の描写が、現実と重なり合う。僕たちが追い求めているもの。この先に待ち受けている変化。一曲一曲が投げかける問いに、まだ答えは見つからない。不安を声に出してもいい。可能性に耳を傾けてもいい。2011年3月、僕はこのアルバムと出会った。"Remember Every Moment"という言葉を胸に刻む。そのことをいつまでも忘れないように。

(犬飼一郎)

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morning_teleportation.jpg 震災が起きてからは多くの方たちと同様に心落ち着かない日々がつづき、音楽なんてとても聴く気にならない時間を過ごしたあと、ちょっと持ち直してからよく耳にしたのがR.E.M.で(こういう人は結構多かったのでは?)、それからティーンエイジ・ファンクラブの『Grand Prix』、あとはモデスト・マウスの「Float On」をYouTubeで繰り返しずっと聴いていた。『バッド・ニュースを好む人へのグッド・ニュース』は紛れもなくすばらしいアルバムだが、アルバム全体を聴き通すのはそのときどうにも億劫で、何度もリピートしながら、力強く躍動するリズムと《Alright, don't worry, we'll all float on.》というフレーズをぼんやりしながら頭に浴びせた。昨年、海外の音楽ブログを賑わせた23歳の俊英、ブラックバード・ブラックバード(今年に入ってアルバム『Summer Heart』が日本国内でもCD化もされた)の手によるこの曲のチルウェイヴ・ヴァージョンがこれまた出色の出来で、次々と流れていく悲惨なニュースやデマやヒステリックへのほどよい緩衝材として機能してくれた。

 個人的な話は一区切りするとして、文人肌でありながら獰猛で無骨なモデスト・マウスのリーダー、アイザック・ブロックはすばらしきミュージシャンであると同時に敏腕A&Rマンであり、これまでにもいくつかの才能を掘りあててきた。その代表格といえるのはウルフ・パレードだ。アイザックもプロデュースを務めた05年の『Apologies to the Queen Mary』は破格の傑作だったし、彼らはいまやカナダのインディー界隈とサブポップを代表するバンドまで成長した。アイザックは2005年に自身のレーベルGlacial Paceを設立。 Love As Laughter、Mimicking Birdsといった良質なバンドが籍を置いている。ポートランドで活動する5人組、Morning Teleportationによるこのデビュー作『Expanding Anyway』も同レーベルからのリリースで、バンドはモデスト・マウスのツアーで前座を務め、プロデュースもやはりアイザックが担当...まさしく秘蔵っ子である。

 一聴して印象的なのが、初期のモデスト・マウスを彷彿させるゴリゴリとしたギター・カッティングに、爆発と収束を繰り返す極端な転調で、異様なハイテンションはアルバムの最後までずっと続く。さまざまな楽器を持ち替えながらオーガニックに絡む演奏はローカル・ネイティヴスらに通ずる現代的なマナーに則っているが、音の方はもっと野蛮で、ジャム・バンド化したビルド・トゥ・スピルとでもいうべき野放図なスケールに到達している。

 ヒッピーライクで悪趣味なPVも一見の価値ありなタイトル曲「Expanding Anyway」に顕著な、扇情的かつベタベタにメロディアスなギターの響きと威勢のよい掛け声がアルバムの主成分だが、かたや9分超えの「Whole Hearted Drifting Sense of Inertia」ではシンセが跳ねたり宇宙的に拡散したり、「Banjo Disco」ではバンジョーを駆使してディスコ・ロックしてみたり(まんまだ)、目まぐるしく変わる光景を追いかけているうち頭が痛くなるほどの暴れん坊っぷり。腹を抱えて笑うアイザックの顔が目に浮かぶようだ。悪く言えば足し算しか知らない子どもによる音楽だが、右へ倣えの世の中でここまでブチ切れていれば、少なくとも僕は文句ない。90'sオルタナ好きにもフジロッカーにも積極的に推薦したい痛快な一枚。ぜひもっと注目を浴びてほしい。

(小熊俊哉)

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brave_irene.jpg ローズ・メルバーグの声を、私は「可愛い女の子が頬杖をつきながら、けだるそうに唄うような声」と(勝手ながら)表現している。特別キャッチーに唄っているわけではないのだが、彼女の声は不思議とすぐに判別できる。ソフティーズの音源を初めて聞いた時も、すぐに「ローズ・メルバーグ相変わらずいいなぁ」と、疑いなく絶賛し、ソロ作品の時も瞬時に頭が理解した。彼女の唄うメロディが共通して、爽やかでありながらどこかセンチメンタルに響くものばかりだから、というのも起因しているかもしれない。
 
 ブレイブ・アイリーンは、タイガー・トラップ、ゴー・セイラー、ソフティーズなど様々なポップ・プロジェクトを作り上げたローズ・メルバーグがメインとなる、ガールズ・インディー・ポップバンド。ソフティーズやソロ名義の時代には、それまでのバンド編成とは異なり、アコースティックでソフトな作品ばかりをリリースしていた。本盤は久しぶりのバンド編成にて、ジャングリーなギターが鳴っている。彼女自身もこれまでの経験を経て(というか齢を重ねて)、バンドの音こそ活動初期に似通っているが、けだるい唄い方はソフティーズの頃のそれである。また、ローファイな音色で終始唸るオルガンが、今までのプロジェクトにはない味を出している。
 
 パンクの要素はなくなり、純粋かつトラディショナルなC-86直系のインディー・ポップへと昇華しているが、テンポは遅くなりながらも爽快感は増している。女の子を象徴するようなローズ・メルバーグの声を聴くと、無性に旅に出たくなる。

(楓屋)

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serge_gainsbourg_ex.jpg今年の3月2日でのセルジュ・ゲンスブール没後20年を受けて、にわかに彼の周辺が盛り上がっている。日本でもジョアン・スファールの初監督作品の評伝映画『ゲンスブールと女たち』も公開されることになったり(そのサントラもゴンザレスやPHILIPPE KATRINE等が参加した充実の内容になっている。)、音楽家としてのキャリアを纏めた20枚組ボックス・セット『Integrale 20ieme Anni』も出るなど、俄かに世界的に賑やかしくもなってきているが、その中の一つ、このブラッド・スコットとその仲間からなる6人組の英仏の混成バンドTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEは外せない。リーダーの英国人であるブラッド・スコットはアラン・バシュング、ジャック・イジュラン、アルチュールH他でのバッキング・ベーシストなどで活躍し、また、マルチ・アーティストの面からも名を馳せた、生粋のセルジュ・フリークでもある。実際、彼はセルジュの60歳前後の晩年期にテレビ局の楽屋裏で会い、話をしたという逸話も残っている。

 セルジュ・ゲンスブールの曲を「カバー」するというのは容赦なくそのアーティストの才覚が試される。何故ならば、シャンソン、ジャズ、スウィンギン・ロンドン、アフロ・パーカッション、オーケストレーション、ロック、ポエトリー・リーディング、レゲエ、ニューウェーヴ、ヒップホップと多様な音楽様式を表層的にドライヴしてきた彼には都度の「断線」があるからだ。それを繋いだのは、あの気怠い声であり、沈み込むような詩情と、時に軽やかな言葉遊びのリズムだったと言える。それは、セルジュの認証印が押されてこそ成立するものだったからと言えるならば、周縁をなぞるだけでは、より実質から遠くなってしまうというイロニーがあった。稀代のトリックスターであり、ノマド精神を持った彼の残影を「追いかける」にはどんな形にしても、容易ではない。その中で、今回のTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEはある程度の緩さも含めて、的確な形での「近接」を果たしていると言ってもいいかもしれない。近接しているからこそ、濃厚な彼自体へ遠心力を持ち、もはや耳馴染みの曲でも新しく感応出来るのは嬉しい。

 バンド名があまりに"そのまま"過ぎて、シニカルな視点を持ってしまう人もいるかもしれないが、演奏スタイルはガレージ・バンドのようなラフでファストなものに終始しており、全く衒いがなく、近年、溢れるセルジュのカバーの中でも比較的、ストレートな"抜けた"ものになっている。女声ボーカルを受け持つセリエ・スコットの声もブリジッド・バルドーやジェーン・バーキンが持っていたアンニュイさとは程遠く、至って朴訥と健全に絡んでくるのも面白い。そこで、どのような曲が選ばれているかというと、1968年の『INITIAL B.B.』から「Comic Strip」、「Initials B.B.」、「Bonny and Clyde」、1961年の『L'Étonnant Serge Gainsbourg』内の「Chanson de Prévert」といったメジャーな曲から、やはり外せないオーケストレーションとポップの折衷で雄大な高みを極めた1971年の『Histoire de Melody Nelson』から「Valse de Melody」、「La Ballade de Melody Nelson」という二曲。また、1962年の『No.4』の 「Requieme pour un twister」、1967年の『Rock Around The Bunker』の「SS in Urguay」といったマニアックな曲など、巷間のトリビュートとは一線を隔したセンスが貫かれているのは流石だともいえる。

 中でも、特筆すべき曲としては、アコーディオンを取り入れた軽快なロック・テイストに生まれ変わった「Chanson de Prévert」、原曲への愛慕に溢れたダークな空気感が纏うダウンビート「La Ballade de Melody Nelson」になるだろうか。06年の『Monsieur Gainsbourg revisited』というトリビュート・アルバムでのジャーヴィス・コッカ―による「Je suis venu te dire que je m'en vais」の英語版「I just came to tell you I'm going」のカバーで、タメのきいたリズムにブラッドの声がこもったトーンで映えているのにも印象深い。近年、リミックス、ダブ、エレクトロニカ、ロック方面など多種多様なアプローチが彼の数多の曲に関しては為されてきたが、それでは掬えない部分がここではフォローされているような感じさえあり、寧ろセルジュ・ゲンスブールという巨像(虚像)に対してはこれくらいの正攻法でこそ新たな意味が生まれてくるような気がする内容になっている。

 フランスの社会学者ガブリエル・タリドの『模倣の法則』に沿えば、「社会とは、模倣によって、あるいは反対模倣によって生み出されたさまざまな類似点を、互いに提示し合っている人々の集合」と言え、セルジュ・ゲンスブールという人は社会への挑発とカメレオンのように多くの要素を取り込み、模倣体としての在り方を繰り返した結果、社会の〈内〉に閉じ込められるようになってしまった悲劇の人物でもあった。「すべてに成功したが、人生に失敗した」と彼が言うのは、結局は「逃げ切ることができなかった」自分へ向けての絶望にも近い何かであったのかもしれないと思う。そうすると、彼の模倣であれ、反対模倣であれ、様々な類似点を互いに提出し合うことで、より彼の思想の模倣は表現の模倣に先行し、目的の模倣が手段の模倣に先行してしまうという危惧を孕んでくる。それに対して、このTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEが対象として置くものは、模倣が人間の内側に留まるものではなく、外部へと開放の為の導線を仕掛けてゆくものであるということの証明をしようとするものである気もする。皆の内側に根付いた、セルジュ・ゲンスブールという幻像を引っ張り出し、現代性の文脈下でリアルに額縁におさめたという点は評価できる佳作だと思う。

(松浦達)

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大変、残念かつ申し訳ないお知らせです。

明日12日(土)深夜から翌日早朝にかけて開催が予定されていたラウンジ・クッキーシーン第2回ですが、こんな状態になってしまったため(もちろん地震/津波のことです...)、「みんなで底抜けに楽しもう!」という気にどうしてもなれません。

来ていただけるつもりだったみなさんも、多かれ少なかれ同様と思います。

いろいろ悩みましたが、上記のような理由で「中止」とさせていただきます。楽しみにしてくださっていたみなさん、本当に申し訳ありません m(_ _)m

なお、今回は、「レディオ・クッキーシーン」の「準備放送」として、ユーストリーム配信もおこなう予定で、それは本日「発表」するはずでした。

「準備放送」のほうは(発表前に:汗)中止となってしまいましたが、DJイヴェントと合体させた「レディオ・クッキーシーン」公開生放送は4月から、月1回づつおこなっていく予定です。

詳細は、また当サイトで発表させていただきます。

そんなことより、なにより、ご本人もしくはご家族もしくはお知り合いが地震/津波の被害に遭われた方々のことが気がかりです...。こんなふうに言うことしかできず、本当に心苦しいですが、そして本当に大変とは思いますが、どうか、がんばってください...!

2011年3月11日23時33分(HI)

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bibio.jpg 高度市場原理主義が「大きな子供たち」の遊び場を用意したとしたら、それはウォルト・ディズニーやハリウッド的なメガロマニアな仕掛けが組み入れられた余地ではなく、集合的な自意識の肥大化の果てのグーグル化した何かだったのかもしれない。そこでは、おそらく、ベートーヴェンやモーツァルトの近代的な美しさよりもシューベルトのピアノ・ソナタのようなくだくだしくも、少し曖昧な自由が似合う。「曖昧な自由」とは、ラカンディアンが夢想する「身体的統一性」が確保出来ていない状況との近似・連鎖さえも包含してくる可能性がある。そこで、「大人の大人」は子供の振りをして躍ってみせるのか、「子供の大人」は頭を抱えてみせるのかの二分軸に分かれるとしたならば、その転倒をはかるのが「ダンス」の意味と言える可能性はある。

 ダンス自体が自由を赦す訳ではなく、自由側がダンスを受け入れるとしたならば、BIBIOことスティーヴン・ウィルキンソンが09年の前作『Ambivalence Avenue』におけるフォークトロニカとドープなヒップホップ・ビート、ソウル・ミュージックのガジェット的な意匠を纏ったエクレクティズムからより進んで、一気に多様性を増した今回の『Mind Bokeh』で想定するのは、大きな子供たちの遊び場としてのダンスフロアーなのかもしれないところが興味深い。そして、この音にはヘドニズムや安易なエスケーピズムの要素よりも、もっとノスタルジアの中で音が過去から今に向かって鳴っている気さえする。

 紡がれる不規則と変性を是とするビートと多彩な電子音、そして、カット・インしてくる加工された人間の声を含めた全体が醸す甘美な違和。ワープ直系のセンチメントもフレンチ・エレクトロにも繋がるようなスノビズムもブラジル音楽のリズムを咀嚼したムードに帯びる楽天的な明るさもIDMシーンへの批評眼も、横断するような凛然とした意志に貫かれており、「大きな子供の一人」として自意識の箱庭の音楽として、多くの人を巻き込もうとするしたたかな優しさがこの作品には過去以上に溢れている。"ぼかし"という日本の概念を反映させたとの彼の言葉の通り、サウンド・レイヤーの重なりがより優美になっており、生音の加わり方も淡く、独特の色気も漂う。その色気は、チルウェイヴを牽引するトロ・イ・モワの新作とも繋がるところを感じる。また、70年代のサウンド・メイキング、つまりクリアーでソリッドな透き通った音響工作と、スクリッティ・ポリッティが持っていたようなリズムのバネを援用し、ロマンティックな温度を保ち続けることに成功しているのも特筆すべき点だろう。

 主な曲に触れると、3曲目の「Anything New」ではアヴァランチーズが今、新しい音を出すならこういったものになるかもしれないという嬉しい予感がこもったスムースな雰囲気があり、6曲目の「Take Off Your Shirt」はフランスのジャマイカの曲と言っても不思議ではないだろうギターが響くラウドなものになっていたり、12曲目の「Saint Christopher」にはフォーテット『There Is Love In You』以降のオーガニックなIDMの系譜を更新してゆくようなソフトで幽玄な美しさがある。

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 ここには、「今」に絞られた音が提示されている。タイトルの『Mind Bokeh』というコンセプトも過去に頼らず、未来を予想しない、「永遠なる今」への対峙状態であると言うからして、その周縁の意味をハイデガーのいう存在論的差異を援用してより深く掘り下げて考えてみることは出来るだろうか。「あるもの」(存在者)は、「あること」(存在)によってその存在を可能することができる。「あること」がないのであれば、「あるもの」もあるものであることを、止めざるを得なくなる。だとすると、「あること」と「あるもの」、この両者の差異とはどうなるのか。加え、「あること」と「あるもの」の差異を見ている人間そのものへの視座も要ることになる。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在であり、ハイデガーはこれを「現存在」と呼んだ。

 今回のスティーヴン・ウィルキンソンは「現存在」として、「あること」、「あるもの」の差異をブレイン・ストーミングのように音でリプレゼント(/強調)しようとしており、曖昧な自由の中で、攪拌された結果、この作品は「今」の枠を外れ、過去から今に響くノスタルジアを醸すと同時に、"今という過去に進んだ"感触を残すことになったというのは、面白い。

(松浦達)

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crookes.jpg 昨年くらいからイギリスではギター・バンド復権の動きが着々と見え出してきているが、多くのバンドが溢れんばかりに愛や青春(に伴う痛み)をレイトバック気味なロマンティシズム全開で高らかに歌い上げるのは、かの国の伝統なのだろうか。シェフィールドで08年に結成された新進気鋭の4人組、ザ・クルックス(The Crookes)も文学的で情緒豊かなうたを聴かせるギターポップ・バンド。メンバー各自の髪のサイドの刈り上げっぷりやシャツの着こなしなど、総じて爽やかなルックスからもそれは見てとれるし、実際に図書館をまわるライブ・ツアーも過去に敢行しているみたいだ。

 そんな彼らの公式ページにはフレーズの引用がふたつ掲載されていて、これがバンドのキャラを掴みやすくしている。ひとつは『西部戦線異常なし』で知られるドイツの作家、レマルクの言葉。"青春の風景を初めて歩を進めるようにさまよい、ぼくらは迷子になっている"とでも訳そうか(この句はアルバム封入のブックレット裏表紙にも掲載されている)。もうひとつはZachary Condonなる人物によるもので、お気づきの方もいるかもしれないがベイルートという名義で彼は有名だ。彼にとっての代表曲「Elephant Gun」の歌詞からの抜粋で、内容そのものもそうだし、若きベイルートが東欧の音楽・文化に惚れこんで自身の幻想を膨らませていった姿にザ・クルックスがシンパシーを抱くのもとてもよく理解できる。ベイルートがそうしたように、彼らは50~60年代のオールド・ポップスやC86世代ポップ・バンドへの偏愛をみずからの音楽に強く反映させている。

 すでにリリースされていたシングルやEPで日本も含めた音楽ファンの注目を集めていた彼らの、待望となるフル・アルバムが本作『Chasing After Ghosts』だ。MySpaceの「影響を受けた音楽」欄にもアズテック・カメラやアイシクル・ワークスなどの名前が堂々と載っているが、ネオアコ系ギターロックの流れを大きく汲んだ軽快でジャングリーな演奏と抑揚の効いたドラマチックな歌唱法が特徴的で、ハウスマーティンズをバックにモリッシーが朗々と歌う図が脳裏に浮かんでくる。余計な重ね録りに極力頼らないライブ感のあるバンドサウンドも小気味よい。二曲目の「Chorus Of Fools」に顕著な、キラキラしたギター・カッティングを軸に据えた骨太かつ柔軟なアンサンブルが持ち味で、疾走感を前面に押し出してくるかと思いきや、スミスの「I Know It's Over」を彷彿とさせる陰鬱ぎみで大仰な曲が出てきたりと(「The Crookes Laundry Murder,1922」)引き出しも多いうえに、むせ返るほどおセンチで胸焦がさずにいられない瞬間の連続だ。朗らかなコーラスにカウペルの音まで聴こえてくる躍動感タップリな「Bloodshot Days」が本作のハイライトだろうか。バウンシーなリズムやトロピカルなムードに乗せて《"ひざまずいてくれ"と彼は言う/ああ降りかかってきた血のにじむような日々》なんて言葉をリフレインさせるあたり、けっこうシャレがきいていると思う(PVのアニメーションも凝っていてイイ感じ)。
 
 瑞々しくメロディアスな曲の数々にノエル兄さんが熱を上げるのも納得で、シェフィールドの大先輩である元ロングピッグス(懐っ!)のリチャード・ハーレイとも交流があったり、我が道を歩みながら支持を大きく拡大しているザ・クルックス。個性という点ではまだ若干弱い印象も否めないが、これからさらにおもしろい方向に転がりそうな将来性もあると思う(関係ないけど、自分たちのファンを"Bright Young Things"と呼ぶセンスはすごく好きだ)。個人的にはそれこそモリッシーばりにもっとアクが強くなることを勝手に期待しつつ、英国産インディ・ギターポップのアルバムとしては処女作にして満点に近い内容と熱烈にプッシュしたい。あ、有志によるツイッターのこのアカウントも同時に推しておきます。こういう動きは最高に支持。

*@TheCrookesJPはバンドの呼びかけでできた公認アカウントで、他にブラジル、スコットランド、カナダ、USA、ドイツ、オランダ版がそれぞれ存在する...とのことです。情報ありがとうございます!【3/25 筆者追記】

(小熊俊哉)

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la_sera.jpg 本稿の主人公ケイティ・グッドマン(a.k.a Kickball Katy)は、09年に東名阪の来日ツアーも成功させたブルックリン発のガールズ・トリオ、ヴィヴィアン・ガールズでベース&コーラスを担当しているUSインディー界きっての別嬪さんだ。

 彼女はヴィヴィアン・ガールズの他に、2つのサイド・プロジェクトを抱えている。一つはキャット・パワーのツアー・バンド=ダーティー・デルタ・ブルーズの一員としても有名なグレッグ・フォアマン(ザ・デルタ72)と結成したAll Saints Day(オール・セインツ・デイ)。そちらはセルフ・タイトルのEPをリリース以来、目立った動きは見られない。そしてもう一つが、純然たるソロ・ユニットのLa・sera(ラ・セラ)である。オール・セインツ・デイがニューゲイザー&ネオ・サーフを鮮やかにマッシュアップしたような、良い意味で息抜き的な作風だったのに対し、本作『La Sera』では60'sフレーバーたっぷりのオールディーズやカントリー・ソングに到達。しかしそれは痛いほどに誠実で、「ルーツ回帰」の一言では片付けられない複雑な憧憬と、照れ隠しにも似たもどかしさを孕んでいる。

 インディー・ミュージック・マガジン『Under The Radar』に掲載された、Frank Valishによるインタビュー記事を読むと、ラ・セラはかなり突発的に立ち上がったプロジェクトのようだ(以下、発言部分は同誌のテキストを意訳)。昨年の冬、ツアーの合間に2週間のオフを取ったケイティは、ニュージャージーの実家に帰省。ところが、あまりにもヒマを持て余した彼女は、地元で100ドルのギターと、小さなオレンジのアンプを購入し、連日ソング・ライティングに励む。帰省中に書きためた楽曲は、いつの間にやら膨大な量に。「これ、アルバムが作れるんじゃないの?」---- そう閃いたケイティは、友人のBrady Hall(本職はフィルム・メーカーながら、ライターや音楽家としての顔も持つマルチ・アーティスト。ヴィヴィアン・ガールズのMVも撮影した)にデモ・テープを送り、最後の仕上げを依頼。バンドとの差別化として、「ファズの一切無い、きわめてクリーンなレコードを作りたかった」とのことで、プロデュースには概ね満足だったそう。

 全12曲で30分未満。Brady Hallが監督した、激スプラッターなビデオも最高に可笑しい「Never Come Around」や、「Devils Hearts Grow Gold」といった先行でリリースされていたシングル曲にも顕著だったが、狂おしいほどに美しく、ちょっぴり猟奇的で、ノスタルジック。ラストの「Lift Off」などドゥワップ調のナンバーもあるが、ギミックや新しさはほとんど感じられない。アコースティックな楽器の響きよりも、ヴィヴィアン・ガールズでもお馴染みの透き通ったコーラスのダブ&ループを駆使した白昼夢のようなサウンドスケープ。しかし、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ぶには少しチープで、60年代のラジオ・ヒット曲にも似た味わい深さがある。先日、念願叶ってLAに引っ越したケイティは、最近スタートしたばかりのラ・セラのライヴで、必ず「カリフォルニアから来たラ・セラです」と挨拶しているらしい。そう、「夢のカリフォルニア」------  すなわち、彼女は憧れのママス&パパスの世界に近づきたかったのだ。

 先述のインタビューによると、学校中がグリーン・デイに熱狂している傍らで、ママス&パパスの「Dream A Little Dream Of Me」をNo.1フェイバリット・ソングに挙げ、アーカンソー州出身のフォーク&カントリー・シンガーであるアイリス・ディメントを愛聴...という渋いティーン時代を過ごしていたらしく、おそらく音楽的な引き出しは多いはず。だが、今までそれを発揮するチャンスがなかっただけなのかもしれない。我々の想像以上に、ヴィヴィアン・ガールズにおいての主導権はキャシー・ラモーン(彼女もまた、昨年来日したWoodsのメンバーとThe Babiesなるサイド・プロジェクトを始めている)にあったのだろう。そんなケイティの青春時代に接近したアルバム誕生のきっかけが、久しぶりにホームタウンで過ごした日々だったのだから、音楽は面白い。それに、レーベルやメディアからのプレッシャーに気を病む必要もないので、『La Sera』がここまで正直でフラットな作品になったのだともいえる。そしてリリックは、恋愛真っ最中というより、もう終わってしまった恋についての言葉が目立つ。どうやら元カレについて歌った曲もあるそうで、そのご本人をオーディエンスの中に見つけた時は、相当気まずい思いをしたとか。とすると、「Never Come Around」のMVで男どもを血祭りにあげたのは、彼女なりの「恨み節」だったんじゃないか...? うーむ、やっぱり、もどかしい。今春リリースされる、母体ヴィヴィアン・ガールズの3rdアルバム『Share the Joy』(ディアフーフも移籍したポリヴァイナルから!)におけるフィードバックにも期待大。

 最後に。ケイティ・グッドマンは、その両腕にびっしりと掘られたタトゥーからは考えもつかないが、大学院で物理学の博士号を取得したほどの秀才でもある。それは決してバンドが売れなかった時の保険ではないだろうが、ミュージシャンとしての人生がそう長くないであろうこともほのめかしている。いや、ひょっとしたらショーン・マーシャルのように、ジャニス・ジョプリンやジョニ・ミッチェルのカヴァーなんかを披露しながら、マイペースで音楽活動を続けていくかもしれないけれど...。ラ・セラが、もしもスペイン語の「Que sera sera(ケ・セラ・セラ)」から拝借されているのならば、「なるようになる」 。とにかく今は、この刹那的な瞬間をリアルタイムでシェアできることが嬉しい。

(上野功平)

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crystal_fighters.jpg 突然ですが、皆さんにとって「ポップ・ミュージック」とはなんですか?

 人によっていろんな意見があるとは思うけど、僕はポップ・ミュージックを「自由で実験的な試みも可能な音楽」と捉えている。実はハーツのセオにインタビューをさせてもらってから、ポップ・ミュージックについて考えることが多かった。セオは「ポップ・ミュージックはふたつある。ひとつは、万人が楽しめて盛り上がれるポップ・ミュージック。もうひとつはオルタナティヴなポップ・ミュージック」と言っていたけど、「その両方を実現することも可能なんじゃない?」と、話を聞きながら思ったりもした(まあ、そのときは議論ではなくインタビューをしに行ったので、話を引き出すため聞き役に徹しましたが)。もちろんセオの話もポップ・ミュージックとしては全然アリだし、すごく頷ける面白い意見もたくさん語ってくれた(実際同意できる話がほとんどだったし)。とにかく、音楽から歴史性が失われてフラット化した現在においては、「それぞれの音楽」というのがますます増えてきて面白いと思った次第です。

 このスペイン出身のクリスタル・ファイターズというバンドは、現代におけるポップ・ミュージックを鳴らしている。「シンセサイザーとバスク音楽の民族楽器を、歌とテンポの良いダンスビートと融合させたような音楽」とメンバーは語っているが、ベースにはダブステップの強い影響が窺えるし、トロピカル系と呼ばれる音楽の要素もある。「In The Summer」という曲ではフリー・フォークをダンス・ミュージックに上手く落とし込んでいるし、サイケデリックでもある。先程引用した発言にもある通り、ダンスビートを基本としながら、そこにありとあらゆる音楽を組み合わせて曲に仕上げたようなものが多い。だからといって散漫としたアルバムにはなっていないし、BBCが「クラクソンズのセカンド・アルバムが目指して辿り着けなかったような大ヒット作だ」と絶賛したくなる気持ちも分かる。聴き込むほど音楽的な面白さが出てくると同時に、片手間に聴きながらでも楽しい飽きないアルバムとなっている。

 それと冒頭のポップ・ミュージックの話とも重なるんだけど、クリスタル・ファイターズはすごくオルタナティブで実験をしているバンドだと思う。アルバムを聴いていて強く感じるのは、それを無意識にやっている感覚。つまり天然なのだ。だから堅苦しいストイックな空気はないし、それが良い意味での「軽さ」となり親しみやすさにも繋がっているから、結果的に「万人が楽しめるオルタナティブなポップ・ミュージック」となっている。この「軽さ」が伝統や歴史を重んじる評論家から批判の対象になっているようだけど、『Star Of Love』は「今」が生み出した素晴らしいアルバムであるのは間違いないし、僕のように異なるものが交わり融合していく瞬間に興奮を覚える人にとって、『Star Of Love』は絶対に聴くべきアルバムだ。

(近藤真弥)

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