March 2011アーカイブ

2011年3月20日

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先ほどカヴァーを更新しました。今回フィーチャーされたのはR.E.M.。彼らのニュー・アルバムに関するインタヴュー記事は、こちら

「DLすると1500pixel角」となる画像がアップされています。ダウンロードすれば、あなたのPCやiPad、iPhoneの壁紙に使えるかも(ちなみに弊記者はiPhoneのロック画面壁紙に使おうかな...と思ってます。時間があれば、ですが...:笑)!

2011年3月19日0時51分 (HI)

R.E.M.

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R.E.M.

伝えたかったのは"困難な変化が訪れても怖れないで
自分のプラスに変えよう"ってこと


R.E.M.の通算15作目『Collapse Into Now』は、90年代初頭、誰もが彼らを世界一のロック・バンドとして認識していた頃の自信と輝きを取り戻したような一枚だ。プロデューサーには前作に続いてジャックナイフ・リー(U2、スノウ・パトロール、エディターズほか)を迎え、パティ・スミスやレニー・ケイ、エディ・ヴェダー(パール・ジャム)にピーチズという胸躍るゲストが参加。レコーディングは、ポートランド、ニューオーリンズ、ナッシュビルのほか、デヴィッド・ボウイの『Low』やイギー・ポップの『The Idiot』、U2の『Achtung Baby』などの名作を生み出したベルリンのハンザ・スタジオでも行われた。

1996年にビル・ベリー(ds)が脱退して以降のR.E.M.にどこか物足りなさを感じていたリスナーも少なくないだろう。しかし、ポップなメロディと癖のあるサウンド・アプローチの融合を聴かせ、パンキッシュでエッジの効いたギター・サウンドとマンドリンやストリングスを織り交ぜた抒情性とのバランスを巧みに保った本作は、彼らの本領発揮と言えるいい意味でいかにもR.E.M.らしい作品となった。リスナーの心に希望を灯すような聴後感は、92年の名盤『Automatic For The People』を彷彿させる部分もあり、間違いなく彼らの最高傑作のひとつである。

ベースとバック・ヴォーカルを担当し、エディ・ヴェダー言うところの"R.E.M.の秘密兵器"であるマイク・ミルズに、厳寒のニュー・ヨークで話を聞いた。

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FRIENDLY FIRES

どんな状況でも前向きでいたいと思っている

フレンドリー・ファイアーズのファースト・アルバムには現実逃避の先にある甘美な夢がそこかしこに散りばめられていた。それは踊りながら脳みそが溶けていく瞬間のフィーリングが完璧にパッキングされた大傑作に違いはなかったが、5月にはリリースされる予定の彼らのセカンドがファーストを余裕で上回る出来であることは、おそらく間違いないだろう。何たって先行で試聴できた4曲が「Paris」と「Jump In The Pool」と「Lovesick」のそれぞれ優れたポイントをすべてより集めたような、信じ難いアンセム揃いだから。ファーストからのファンの期待は一ミリも裏切らず、もはや貫禄さえ漂う。早くも傑作揃いの2011年で、この「Pala」と名づけられた新作はどんな特別な輝きを放つのか。

去る2月に東京のみでおこなわれた一夜限りの来日公演前日、ワインと長旅の疲れで良い感じにヘロヘロになったメンバーに話を訊いた。

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HANNE VATNOEY

私は旅行しているような気分でプレイしたいの

去年、個人的にもっとも強く心に残ったアルバムはハンネ・ヴァトネの『Me And My Piano』だった。レヴューのほうでも書かせていただいたが、自分がポップ・ミュージックに求めるもののほとんどすべてが凝縮されたすばらしい作品だと思う(ちなみに彼女に強く影響を受けたアーティストを訊いたら、イモージェン・ヒープ、ケイト・ブッシュ、スザンヌ・アンド・ザ・マジカル・オーケストラの名を挙げて、妙に納得した)。このアルバムはリリースから数カ月が経った今日現在でも日本でしか発売されておらず、変に埋もれてしまうのは惜しすぎる才能である。彼女自身 "Colorful Spring"と称するその音楽は、これからの暖かくなってくる季節に聴くのにもぴったりだ。 

詳しくはインタヴュー本文を参照してほしいが、彼女の豊かなバック・グラウンドには驚かされるばかりだし、話を聞いているとノルウェーとは(文化事業的な意味において)なんてすばらしい国なのだろうと思わされる。以下は自身二度目の来日となった昨年11月に取材させていただいたもの(本当に遅くなってすいません...)。彼女はシャイでとても礼儀正しかったが、随所に見せるおてんばっぷりがいい味を出している。この取材のあとにライブもお邪魔させていただいたが、ノルウェーの若手技巧派ジャズ・ミュージシャンを従えてのパフォーマンスは活き活きとした楽曲も合間って迫力満点。チャーミングな面もつぎつぎ飛び出す微笑ましいひとときだった(ちなみに、そのときのようすはYouTubeなどでも観ることができる)。終演後、多くの手作り雑貨といっしょにハンネ・チョコと名付けられたキャラメル(!)を自ら物販していたのも印象的。音楽同様、頭からつま先までガーリッシュすぎる彼女の振る舞いを目にして、改めて虜にさせられたのであった。

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british_sea_power.jpg 断言しよう。いまのところ2011年に、この作品に匹敵する傑作はリリースされていない。何かの呪縛から逃れたあとのようなサウンドの自由なフィーリングも、矢面に立たされながらでも、ときには疑心暗鬼になりながらでも、自分の感情を正直に吐露したリリックも、「Living is so easy」での《全部簡単だっていうけどさ...》なんていう諦めも、すべてがあまりに素晴らしい。多くの現代に生きる「オールライトじゃない」人たちは、この作品を聴いて身震いするか、あるいは哀しみとも喜びとも表現できないような涙を流すに違いない。たとえば「We Are Sound」では《僕らこそがサウンドだ。僕らこそが光なんだ。真っ暗闇の夜に入っていこう。》と歌われている。こんな力強い彼らの宣言に、喝采を挙げずにはいられないだろう。最近までイギリスではバンドが立たされている状況は悪化の一途を辿っていて、もはやチャートの上位に入る希望など持てるわけがなかった。もちろん、「バンド」という形態以外でも素晴らしい音楽はいくらでもあるし、現実に「ノー!」を突きつけることだけが良いというわけでもない。ただ、そんな状況で、非現実の世界に想いを馳せたり、自分たちの音楽をいまのトレンドにすり寄せたりすることは一切せずに、ファンが待ち望んでいた姿で彼らは見事にシーンに戻ってきてくれた。
 
 前作のチャート・アクションは散々たるものだった。それでも彼らはけっして希望を捨てようとはしないし、「誰がコントロールされているのかは分からないけれど、どっちでもいいなんて、言わないでくれ!」と叫ぶ。マニックスの最新作が出たときのクッキーシーンのインタビューでも、ジェームスは「すべてに醒めて嘲笑うような風潮に憤りを感じる。」と話していた。さらに印象的だったのはポール・ウェラーが「いまの若者は立ち上がって闘うべきだ。」と言ったことに対して、フランキー・アンド・ザ・ハートストリングスのメンバーが「そんなこと言ってるから、ポール・ウェラーは若者とコネクトできないんだ。」と某誌のインタビューで話していたこと。もちろんこれでBSPがポール・ウェラー側だ、とか、フランキーはけしからんとか(実際にわたしは彼らのアルバム・レヴューも書いている。大好きだし。)いうつもりは毛頭ない。あるいはそこまで現実は単純ではないのかもしれない。だからこそ、このアルバムは《僕たちは見当違いのところにいる》というフレーズがある「Heavy Water」という曲で締めくくられる。そして忘れてはならないのが、同曲で唯一の救いが「君」だということ。《今度また君に会えたらどんなにうれしいだろう 水が激しく落ちてくるのを見たかい? 加重超過の空から 天国から そして君の瞳から》。世界と対峙した先にあるのは、いつも2人をつなぐ愛だ。

(長畑宏明)

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one_am_radio.jpg インド系アメリカ人のリシケシュ・ヒアウェイによるプロジェクト、ワン・エーエム・レディオ(The One AM Radio)による07年の彼自身三作目となる『This Too Will Pass』は物哀しいレコードだった。燃えたぎる家屋を背景に「これもまた過ぎ去るだろう」と無執着を宣言したジャケット。内省的なラップトップ・フォークはストリングスやホーンと絡みながら美しく淡々と綴られる。真夜中に古ぼけた蓄音機から流れてくる冷静ながらもやりきれない独白を耳にするような、不思議な感覚にとらわれていく。"午前一時のラジオ"という名のとおり、これまでの彼はさしずめ夜の使者だった。

 それから4年の月日を経て届けられた最新作『Heaven Is Attached By A Slender Thread』が声も失うほどすばらしい。みずからの可能性を決めつけなかったリシケシュは、この作品において自分の持ち味を殺すことなく、大きく息を吸いながら真の自由を獲得したようだ。

 前作がニック・ドレイクの系譜に連なるSSW然としたものだとすると、本作の肝は奔放なビート・メイキングにある。ミニマルな躍動感が楽曲に陽性の生命力をもたらしている。これはそれまでライブのサポート担当だったメンバーを正式に加入して"バンド"として生まれ変わったこと、そして名プロデューサーであるトニー・ホッファーの貢献が大だろう。トニーの辣腕ぶりは挙げていくとキリがないので彼のページを参照していただくとして、ベルセバの近作やベックからフェニックス、ジャック・ペニャーテ、果てはフィッシャースプーナーまで、関連作品のいずれにも通じるのは(各アーティストのキャラを活かしつつの)独特のリズム構成と音の抜けのよさ。この作品でもドラム・マシーンの一音一音が気持ちよくビシバシ決まって、中毒性たるや半端ない。またゲストとして、昨年おおいに話題をさらった小デブでナードな革命児バス(Baths)と、同じくアンチコン所属のエイリアスがイイ仕事を聴かせ、さらにデヴィックス(Devics)のヴォーカルであるサラ・ラヴも可憐な歌声で華を添えている(余談だけど、デヴィックスの『The Stars Of Saint Andrea』や『Push The Heart』も夜に聴きたくなるダークで気だるいレコードだ。マジー・スター好きは必聴。昔、本当にお世話になりました...)。

 かといって、ヤケッパチのごとくバカ騒ぎするような作品では決してなく、本来の持ち味だったジェントルな憂鬱ぶりは健在だ。彼独自のメランコリックでひねくれた旋律はここでも冴えわたり、アンビエンタルな音づくりにストリングスもうまい具合に配置されているし、リシケシュの歌声も変わらず柔らかい。気高さを保ったまま甘酸っぱいポップな大衆性を獲得したこの作品を2010年代仕様のAORとも位置づけられるし、昨今のトロピカル風味なバンドの愛好者や、辛抱強くポスタル・サーヴィスの新作を待ち望んでいるような人たちにもきっと歓迎されるだろう(日本盤のボーナス・トラックには"片割れ"のディンテルと、Boy In Staticによるリミックスも収録)。

 活動拠点であるロサンジェルスの空虚な夜をテーマにしたという本作には、幾多のドラマとともに希望と絶望のムードがそれぞれ同居している。讃美歌のような冒頭のエレポップ「Sunrise」では再起の象徴である朝日が登るのを待つひとについてうたわれているが、この曲を題材にした写真コンテストも開催中で、投稿作をズラっと眺めることができる。こうして太陽の写真を連続して見つめていると、月並みすぎるが明けない夜はないのだと考えずにはいられない。マルチネ・レコーズによる『MP3 Killed The CD Star?』には「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」なんて曲が収録されているが、このアルバムも音や境遇や主義主張は違えど、同じ視座に立っているように思える。

(小熊俊哉)

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we_are_enfant_terrible.jpg 皆さんつまみフェチですか? 唐突で申し訳ないですが、僕はつまみフェチです。例えば、TB-303という機材をいじっているとき。レゾナンスをかけて音をビキビキさせていくときの高揚感はたまりません。それからDJをやるときも、デリック・メイになりきりEQを大胆に使って音を変化させるのも大好き。ジェフ・ミルズのように繊細なタッチで微調整していくのもストイックでカッコいいけど、僕はつまみをひねった瞬間にエフェクトがかかって、お客さんが「ウォー!」と歓声を上げる場面を見ると、どうしてもニンマリしてしまう。つまみだけじゃなく、楽器に触れたことがある人なら誰もが経験しているあの興奮。適当にギターを弾いていたら、偶然カッコいいリフが弾けて「俺天才!」みたいな。これを「初期衝動」という人もいるけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルのデビューアルバム『Explicit Pictures』には、そんな瑞々しい姿が刻まれている。

「我々は恐るべき子供」と名乗るこのフランス発の3ピースバンドは、ガレージや8ビットにニュー・エレクトロ、引き合いに出せるバンドとしては、ザ・ラプチャーやヤー・ヤー・ヤーズだろうか? そしてその名の通り、ウィー・アー・エンファント・テリブルが出す音は子供じみている。もちろんこれは褒め言葉だ。人にもよるだろうけど、子供というのは基本的に暴れたくて仕方がないものだ。それは「大人になる」という過程で植えつけられる抑圧などが行き届いていないからだと思うけど、このバンドはかなり奔放な存在感を放っている。ライブではゲームボーイを使って生演奏してみたり、ドラムにいたっては座って演奏することがほとんどない。抑え切れない衝動に突き動かされるように、だんだん腰が浮いていく様子は観ていて笑えたし、なぜか痛快ですらあった。

『Explicit Pictures』の前には3枚のEPがリリースされているが、『Explicit Pictures』とEP群に大きな変化の差はない。まあ、多少は幅広さが備わっているが、ジャンクな感覚で好きなことを混ぜ合わせたごった煮ロックである。正直、演奏が上手いわけでもないし、フランスといえばフェニックスを思い浮かべる人もいるだろうけど、彼等と違ってウィー・アー・エンファント・テリブルは、野蛮でスマートとは言えない。じゃあ、ウィー・アー・エンファント・テリブルの魅力は何なのかというと、それはアティチュードとしてのロックンロールをやっていることだ。

 音としては、「ロックンロール」と聞いて大半の人が思い浮かべるような、ギターがガンガン鳴っているようなものではない。しかし、「楽しいからやっている」という感覚と共に、意味がないようでいて皮肉が効いている歌詞(特に「Filthy Love」は意外とキツい内容に思える)から覗かせる鋭い視点は、現代の本質を射抜くかのようだ。僕にとってのロックンロールは意識的か否かは問わず、いかに時代を見抜いているかが重要だったりするけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルは、現代の本質に近いところで音を鳴らしているのは確かだと思う。

 一聴した感じはチャカポコとしたヘンテコな音だが、騙されてはいけない。彼らにとってのファーストアルバム『Explicit Pictures』には、恐るべき子供の本性が隠されている。

(近藤真弥)

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sunahara_l.jpg 実に01年の『LOVEBEAT』から10年近く経ち、新作『liminal』が届けられることになった。ほぼ10年振りといっても、その間にも07年のベスト『WORK'95-'05』、09年の『No Boys,No Cry』のサントラ、昨年のいしわたり淳治とやくしまるえつことの「神様のいうとおり」もあり、また、agraphの『equal』のマスタリング、コーネリアス『Fantasma』のリマスターを請け負うなど、作り手としての側面以外でもエンジニアとしても彼特有の「音の手触り」には接する機会は近年、ますます増えていたためか、「不在感」はなく、寧ろ、その粒立った電子音と行き交う空間の位相へのオリジナルな視点はより評価は高まっていたと言っても過言ではないだろう。

 取り分け、『LOVEBEAT』が孕んでいた削ぎ落とされた引きの美学とでもいえる音響の美しさと、それを支える屈強な意志と余計なロマンティシズムやエスケーピズムを介入させない強い「音のメッセージ性」は孤高で、いまだ有効であり、色褪せることもなかった。この10年、どこかで常に鳴っていた音のような気もするからだ。

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 振り返るに、今回のアルバムの先行EPでありながらも、全く違った意味を持つことになってしまった「subliminal」における表題曲のPVで社会への警鐘を鳴らすようなメッセージ群やフレーズがカット・アップされ、そこに鋭角的なビートが挟んでくる展開にはマシュー・ハーバートがときに表象するような怜悧な反抗を感じさせるとともに、マーシャル・マクルーハンが流布したような警句とは距離を置き、「メディア」は決して「メッセージではない」、という受け手側の身体性への作用に関して自覚的になっているのが伺えた。マクルーハンが指すメディアは一概にテレビや書物やネットといったものばかりではなく、もっと広汎な装置的な意味を孕む。そうなると、音楽だってメディア「概念」を帯びてくる。その「概念」に意識裡ではないアーティストは無規則な内容面での懐疑より、メタ・ポーズ内での意味への構え、理論武装への解除意識に躍起になってしまう転倒が起きる可能性が出てくる。つまり、社会的に再編成・組み入れられたシステムとしてのメディアのレベルの度を考えると、個の個たる発言も巨大な発言力を持つ機関のステイトメントも均質に「形式化」(形骸化ではなく)されてしまった結果、その波及の幅より原基的な言語自体の作用/非作用に対して"降りてゆく"ことになるからだ。そこでは、クルト・レヴィンやクルト・コフカの残影やゲシュタルト(Gestalt)がアフォードされるだけの可能性を帯びる。今、何かに対して「NO」を言うためには、どこまで「YES」の周辺への思考的な文脈を冷徹に敷けるのか、が問題になってくる。

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 では、「メッセージはメディアに孕まれない」―そんな反転を突き抜けるような作品として『liminal』が孕んだアブストラクトなささくれは、"『LOVEBEAT』以降の沈黙の先に、更に沈黙が残っていた"途中経過を示しているような気もしてくる。幾らソリッドに音をシェイプ、デザイニングしていっても、行間から立ちのぼるメロウネスも彼の魅力だったが、今作に至ってはそういった要素もほぼ排除されており、よりクリアーにハイファイに組み上げられた音の設計図の中で具体的なメロディーやフックのある何かは聴こえ辛くなっており、どことなくダークなトーンが引き延ばされている。しかし、取っ付き難く、分かり辛いという訳でなく、PoleやDeadbeat辺りのジャーマン・エレクトロニカとの相似も感じさせる暗みも感じるし、テックハウス、クリックへの近接も見える。

 前半2曲は、『LOVEBEAT』からの地続きの印象も受けるが、マシン・ビートに不穏なノイズが混じってくる鋭さを持つ3曲目の「Natural」、オブセッシヴな電子音がミニマルに刻まれる4曲目の「Bluelight」、アブストラクトなサウンドが展開される5曲目の「Boiling Point」の流れは今作の肝と言ってもいいだろう電子音が饒舌に現代の景色を縁取るという視角の「新しさ」がある。

 8曲で40分にも満たないというと、奇遇にもレディオヘッドの最新作『The King Of Limbs』とのシンクロも感じさせるが(実際、音響工作の緻密さ・精度で言うと、似ている箇所もある)、あの作品が「語らないことを、語る」意味を孕んでいたとしたら、これは「語るべきことを、語らないでいる」"含み"から滲み出る空間によって、聴き手・受容サイドの判断/認識の留保や前段階を揺さぶり、刺激する。そして、これまでも彼の推進力となっていたストイシズムと美学が、根に宿るパンク精神によって押し出された形で、シリアスな表情が極まった結果、2011年という年におけるビート・ミュージックの一つのメルクマールとして必ず通奏低音になってくるだろう重みを感じ取ることができる。

 インタビューでは、既に「次を作りたいという気持ちが強い。」という言葉を残しているように、この作品の8曲で見渡せる全体像よりも、まだ総てが途中であるという行方の果てが個人的に既に気になってもくる。人間がギリギリ知覚出来るという領域という"liminal"という言葉そのものが示すとおり、ここには喜怒哀楽であったり、感情の機微というものを人間が名称化する前の、または、社会の装置性や要請によって名称化させられてしまう前の、形容できない靄が纏わりつくような情動の何かに向けてフォーカスがあたっている音像のせいか、聴いた人たちがこの作品越しに光が見えるにせよ、暗闇が見えるにせよ、それ自体も感覚のエラーなのかもしれないし、何らかの作為によって成り立っていることなのかもしれない、と"自分の中の何かに名前がつくことで、落ち着いてしまう領域"から逃れさせる。

 だからこそ、逃れた先として、ここからまた始まってゆく言葉や感情があるなら、まだ音楽と呼ばれるものにも未来があるような気もする。

(松浦達)

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noah.jpg 08年の1st『Peaceful,The World Lays Me Down』は、レディオヘッドの『Pablo Honey』のようなものじゃないか、としみじみ思う。

 デビューから間もないころのノア・アンド・ザ・ホエールはUKアンタイ・フォークの中心としてメディアにかつぎ上げられた。しかし、バンドの中心人物チャーリー・フィンクは恋人ローラ・マーリングとの別れで悲しみの底へ深く沈みこむ。傷心の結果作られたのが、09年の2nd『First Days Of Spring』だ。そこで鳴らされていたのは力なき独白と洗練されたメロディ。以前の面影を一切残さない音楽性の変化と格段のクオリティの向上にただただ驚いた。

 その後、絶望の向こうに彼らは何を描くことが出来るのか? その答えがこのアルバムだ。『地球最後の夜』――。SF映画を思わせる仰々しいタイトルだが、このアルバムのテーマは何度も繰り返される「LIFE」。前作とは打って変わりはつらつとした歌声と、気高いゴスペルのコーラス、エレクトロやグロッケンシュピールにヴァイオリンなどを導入し清涼感のあるサウンド、ロックを取り込み獲得したダイナミズムと力強さ・・・。フォークバンドだったころの面影は微塵もない。リスナーが感じるのは、たくましい生命力だ。このアルバムの制作に当たって影響を受けたとチャーリー・フィンクが公言するのは、トム・ウェイツやトム・ペティ、ジェネシスなど。複雑ながら独自のスタンスで生き抜いてきた先達の音楽に触れ、チャーリーが選んだのは、生きることだったのだろう。

 フジでの初来日が決定したが、今の彼ら以上に、地震で落ち込んでいる日本に生命の息吹を吹き込むのに相応しいアクトはいないはずだ。どのようなステージになるのか、今から楽しみでならない。

(角田仁志)

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