星野源「くだらないの中に」CDS(Victor)

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hoshinogen.jpg WIRED VISIONの2010年11月30日の記事
で、情報の中毒性と既知の事実への新たな知の好奇心のシステムについて触れている。ワシントン州立大学の神経科学者JAAK PANKSEPP氏の「ドーパミン系の予期せぬものを見出したり、新しいものを期待したりすることで活性化される」という言に沿うと、毎日の大量の情報の摂取とは健全なる「報酬」のメカニズムを示唆する訳だ。しかし、同時に人間の情報処理能力や記憶のキャパシティは有限であり、好奇心の射程も「しれている」。

 同記事では、アメリカの政治学者のLARRY BARTELS氏の調査も取り上げ、政治に詳しい人だとしても、「支持政党に起因するバイアス」から逃れられない理由として、「人々は自分たちが既に信じていることを裏付ける事実しか吸収しない傾向にあるからだ」と述べている。要は、「知らないことに関して、知らない」という姿勢を造作もなく、人間は取ることが出来るのとともに、自分の中でインストール済みの情報や知識を反復する為に、その媒体にアクセスして「再確認」してみることも多くなるというのは当然ということだろう。だから、昨日、雑踏ですれ違った人の表情を想い出そうとするよりも、自分の中のミームで仕切られた情報の中での制限された報酬を得ることで満足する瀬を更新というのか、後進というのか、人それぞれだとしても、「日常は退屈に溢れている」と降りてしまうには、確認出来ないことが多すぎる。それをして、星野源はささやかに《くだらないの中に 愛が 人は笑うように生きる》と歌う。そこには過剰なロマンティシズムも自己陶酔も啓蒙もモードもなく、彼自身がインタビューで自分を評する際の「普通の人」としての真っ当な感覚が裏付けされている。
 
 SAKEROCKのリーダー、劇団大人計画の俳優、文筆家など多彩な顔を持ち、コアなファンも多い彼が昨年にリリースした「うたもの」要素が強く出た彼流の『Hosono House』とでも言えるだろうか、ファースト・ソロ・アルバム『ばかのうた』の存在感は大きかった。

 内容自体としては大仰でもなく、どちらかというと、地味でストイックな要素が強かったが、この作品によって彼の「声」や「詩情」を改めて発見した人も居ただろうし、彼を取り巻く総体的な活動にそこまで興味を持っていない人たちにも良質な作品としての魅力を感じさせたのは、逆説的にその新しさも劇的な仕掛けもない、柔らかな温度が立ちのぼる、陽炎のような「平穏な日常が忍び寄る気配」に依拠していたような気もする。平穏な日常がすぐ傍まで自分に寄ってくる「気配」とは、隠し事のない、或る種の残酷な世界観としての意味も含まれてくる。ゆえに、彼が筆致する描写は《世界は ひとつじゃない もとより ばらばらのまま》(「ばらばら」)、《いつかなにも 覚えていなくなるように 今の気持ちも 忘れてしまうのかな きっと 腐った体だけを残して》(「キッチン」)、《寂しいと叫ぶには 僕はあまりにくだらない》(「くせのうた」)、《朝起きて 仕事して 帰ると君が 腹へって 冷蔵庫 開けて二人は ぼんやりとチューするの》(「子供」)のような他愛なく、時に彼岸を思わせる視点が内在される。その内在された視点の箱庭で暮らすのは、彼が当初に設置した登場人物ではない「君や僕」かもしれないところに意味があったとしたならば、此岸の「君や僕」は彼の唄う彼岸の「君や僕」に近付こうとするために、自らの他愛のない日常を再確認することができた、行為性を引き寄せるという深みもあった気がする。また、僕個人としては、『ばかのうた』にはコリン・ブランストーンの『一年間』、ロバート・ワイアット『ナッシング・キャント・ストップ・アス』、中村一義『太陽』などの作品に宿る、じんわりと聴いた人の心を暖める歌い手としての「うたごころ」に通底する何かがあったのも美しく感じた。

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 ファースト・ソロ・シングルとなるこの「くだらないの中に」も、取り立てて斬新な試みもなにもない、『ばかのうた』の延長線上にある凛とした視線が貫かれている。良い具合に肩の力の抜けたフォーキーな表題曲、叙情的な「歌を歌うときは」、朗らかなムードの「湯気」の3曲の新曲と、「ブランコ」、「くせのうた」の自宅で一人で録られたというテイク、初回版には「くだらないの中に」、「くせのうた」のPV、『ばかのうた』や今回のシングルを巡るドキュメンタリー、ソロ・ライヴの映像、オーディオ・コメンタリーなどを収めたDVDが付属しており、昨年からのソロ・アルバム・プロジェクトの総集編のようなヴォリュームになっている。
「くだらないの中に」での登場人物も、相変わらず「君と僕」で、「魔法」や「希望」なんて大文字の言葉に魅かれたりしながらも、結局はお互いの髪の匂いを嗅ぎ合ったり、首筋の匂いがパンのようですごいな、と絡まり合うだけで蒸発してゆく"湯気"のような景色に溶け込んでしまう儚さとありふれた風景が縁取られている。対象化させるように、2曲目の「歌を歌うときは」では、《想い伝えるには 真面目にやるのよ》という素面の冴えたフレーズも挟まってくるのが印象に残る。

 このシングルでの「君」もブレはない。それでも、何度確かめても「君」が「君」なのか、分からないような人間の性(さが)に寄り添う分だけ褪せないタナトスがこれまでよりも濃厚に宿っている。そのタナトスが覆う平坦で朧ろな日常を掻い潜って、君「と僕」が担う「くだらない」の中に果たして、本当は誰が残響するのか、が確かには視えない場所に彼の素面の鋭い知性が突き刺さったまま、宙空に浮かんでいる。浮かんだままで、彼の手元から日常という「彼岸」へと投げられた先に何があるのか、その想域は聴き手に委ねられている。

《心が割れる音聴きあって ばかだなあって泣かせあったり つけた傷の向こう側 人は笑うように》(「くだらないの中に」)

(松浦達)

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