ABD AL MALIK『Chateau Rouge』(Barclay / Universal)

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abd_al_malik.jpg「スラム」という様式を世間にアピールした06年のセカンド・アルバム『GIBRALTAR』の鮮烈さはいまだに記憶に新しい。05年のフランス・パリの郊外で起きた暴動事件に関連する形で、フランスという国の持つ固定化された階層構造についてメスを入れたのみならず、グローバリゼーションの進捗下で、「もてる者/もたざる者」が決して規得の型枠の中で形成されるものではなく、或る程度、"innate"なものが優先されるというあからさまな図式をメタ化するような詩情は美しかった。例えば、「La Gravité」という曲で、《Avoir mal à la bourgeoisie comme Che Guevara, se lever chaque matin sans réellement savoir pourquoi, Souffrir du non sens, une maladie qui n'épargne aucun personnage, Je viens d'un lieu où rien n'est jamais vraiment grave.(チェ・ゲバラのようにブルジョワジーに不快をおぼえ、毎朝起きる理由も本当にはわからない 意味のなさに苦しむ この病気はどんな人物であろうと逃さない 重苦しいことなどない土地から私は来た)》と、コンゴ系フランス人の彼が綴る意味は大きかった。

 今思えば、スラヴォイ・ジジェクの『暴力――6つの斜めからの省察』(青土社)に繋がるところもあった気もする。ジジェクの指摘した暴力論とは、直接的な関与や対峙では暴力を再生産する恐れがあり、「斜めからの視線」を持った上で向き合うべき余白を用意する。要は、散文的な態度を取り、シビアに観照することで、新しく「暴力」に対しての言葉に依拠した対抗ではない、非言語としての芸術の一姿勢として音楽が持ち上がるとき、その音楽に近い形を取る詩のみが「何か」を語ることができたのかもしれないとしたなら、スラムはモダン(近代)以降の音楽様式を予め含んでいたともいえる。

 少し説明しておくと、スラムとは、80年代のシカゴで始まり、フランスでは90年代以降にも行なわれるようになったポエトリーリーディングのパフォーマンスの一種である。スラム・セッションは、カフェ、ストリート、バー、あちこちの「人の居る場所」で行なわれ、それがまた電子媒体などに乗る形で世界中に伝播していったからして、それらを間接的にでも観た方々も多いことと察する。

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 アブダル・マリック(ABD AL MALIK)は精緻な意味では、スラムというフォーマットを活かしながら、あくまでラップ、ヒップホップのセンスを軸にしたアティチュードを取るとともに、例えば、セルジュ・ゲンスブールが生きていたら、間違いなく剽窃したであろう「ポエトリーリーディング・ミーツ・ジャズ」、はたまた、一部のメディアが言うような「シャンソン・ミーツ・ヒップホップ」とでもいえるような流麗なスタイルも纏っていた。また、舌鋒鋭く世の欺瞞を暴くパースペクティヴと、ストリートに根差した峻厳で哲学的な思考を巷間に向けて昇華させていた手際も周到だった。

 08年の手堅い深化作『Dante』を経て、今回、新しいアルバムをかのゴンザレスがプロデュースするということを聞いたとき、良い形での化学反応が起きるのか、それとも、沈潜するようなビート・メイクとエレクトロニクスの中に彼の声も埋もれてしまわないか(つまり、マニエリスモに回収されてしまわないか)、個人的に二つの考えが浮かんだ。

 結論から言うと、この『Château Rouge』はその二つの選択肢の間を縫うような、そして、避けるような、大胆な舵取りをした作品になっている。ゴンザレスの意向が明瞭に示された、チープであり、過剰にフックがあるエレクトロニックな意匠が凝らされたトラックの上で、スラム、ラップという既存のスタイルを取りながらも、ときに朗々と「歌う」というギクシャクした要素も含まれており、これまでの彼のイメージを覆す実験性が先立ちながらも、ポップな開け方をしている。それだけに、過去のような"「歌」としての政治性"の必然は此処には感じることはできないかもしれない。しかしながら、個人的には、スノビズムといった何かで割り切って流してしまうよりも、彼自身が踏み込んだ「場所」自体に興味深さを感じる。その場所には、例えば、おそらく比較に出されるであろうアンチコン界隈のヒップホップとは一線を隔したものであり、どちらかというと、ルーペ・フィアスコ(LUPE FIASCO)『Food & Requor』、キッド・カディ『Man On The Moon-The End Of Day』辺りの作品やニンジャ・チューンのヒップホップ・レーベルであるBIG DADAのアーティスト群に近似する「ベタ」な温度を感じるからだ。

 惜しむらくは、PVでおどけながら歌うコミカルなチープ・エレクトロ・ポップ「Ma Jolie」や80年代風のダンス・ビートの野暮ったさが残る「Syndi Ska Liste」といい、要所でどうにも、「大味」のプロダクションが目立つ点と、ゴンザレスのプロデュースと彼が噛み合っていないところが散見することだ。彼自身も今作にあたってはインタビューで「エレキギターを持ったボブ・ディラン」なんて発言もして物議を醸しているが、これまでのキャリアになかった軽やかさを得るための急進性を選んだという意味では、「次」に繋がる過渡期としての作品として捉えるべきかもしれない。或る意味で、メタに知性を駆使してきた彼がベタなポップ・フィールドに降りようとしたコンテクストが透けて見えるという手応えともどかしさを感じる面白い意欲作だと思う。

(松浦達)

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