ギル・スコット・ヘロン&ジェイミー・エックス・エックス『ウィ・アー・ニュー・ヒア』(XL / Hostess)

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gil_scott_heron_xx.jpg 昨年の大きかったトピックの一つといえば、13年振りのギル・スコット・ヘロンのカムバック作『I'm New Here』だろう。71年の名曲「The Revolution Would Not Be Televised」がいまだに標語としても警句としても、メディアに流れ続け、クラブ・シーンでは彼の70年代のアルバムが再評価されている、現代が誇る詩人の一人であり、プロテスト・シンガー(一部では"黒いディラン"とも言われる)。しかし、彼はレジェンドにもアクチュアルな存在のどちらでもない「狭間」の中をドラッグ禍や監獄に縛られながらも、50年ものキャリアを重ね、ロバート・ジョンソンが契約を交わしたかもしれないクロスロードを渡り歩き、60歳を越えて、「私は新しく此処に居る(I'm New Here)」と表明した。その姿勢に力を貰った人は多かったことと思う。

 それにしても、『I'm New Here』とは何だったのか、今でも考える。巷間で冠詞のように捧げられた、ラップの始祖としての本懐を奪取し、ヒップホップのモダナイゼーションを担ったともいえる核たる言葉の強さを備え、ブリアル以降のダブステップのようなサウンド・ディメンションを持ち合わせた現在進行形のシリアスな作品として捉えられることよりも、要所に挟まれるスポークン・ワーズとして数十秒で「語られる」行間にこそ、僕は、現代のブルーズとしての彼のソウルを感じたのは事実だ。今の彼にとっては、音楽の縁枠、形式美をなぞるよりも、「発語」された途端に意味を越えて、一気に空気を変えるような言葉の輪郭の鋭度に感応するべきだという気がする。だから、アルバムとしては「今」を射抜くようなものでも、タイムレスなものでもなく、オルタナティヴなひしゃげ方をしていた奇妙なフォルムを保っていた。そのひしゃげ方に、アーバン・ブルーズとしての萌芽も確実に見ることができた。

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 かのザ・ストリーツのマイク・スキナーがフィンとなる今回のアルバムで『Computer And Blues』というネーミングを付けて"しまった"ように、今やエジプトでの事もそうだろう、革命は「Be Televised」される時代になってしまった中で、ギル・スコット・ヘロンの《例え、どれだけ間違った道を進んでいようと いつでも後戻りしてみればいい 振り返ってみればこそ 全力で走ることができるかもしれない もう一度 新しい場所に辿り着くかもしれない》(「I'm New Here」)というフレーズは決して退歩ではない。コンピューターやネットワークが高度化し、管理の網が投げられる中を掻い潜り、より"一歩先"に実存が蒸発するまでの微かな希望的な予感に目を凝らせてみようと「I(個)」の意志が反射する光が現実という水面に撥ね返るのを捉えるために、「We(我々)」の想像力が何より必要だったということを示していた、とすると、彼の声が届くには我々がまだ「遠くに居過ぎた」気もしてくる。

 今回の『We're New Here』では、その「距離を埋める」かのように、『I'm New Here』をTHE XXのトラックメイカ―であり、DJであるロンドンの気鋭、JAMIE XXが大胆にアップデイト/リミックスしている(なお、ここでは素材は「歌」のトラックしか用いていないという)。サウンドもかなり刺激的なものになっており、重いベースが響くダブステップから、ブレイクビーツ、変拍子のリズム、ドープなミニマルまで、先鋭的なエレクトロニック・ミュージックの要素が強烈に迸りながら、そこに彼のしわがれた声がまるで亡霊のように行き交う。作品としてはフロアーに対応したという部分もあるが、彼の声を素材にした上で、「新しい声」を手に入れようとした結果の意味概念への志向性の矢印が見える。

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 意味概念への志向性―。

 フッサールの『論理学研究』での、意味概念の志向性理論への導入こそがブレイクスルーする「先」を示唆したかもしれないという点がある。対象自体から区別された「意味」と呼ばれる内容概念を導入し、「志向性」の本質的な特徴付けを付与したフレームワークの中で、彼の意味概念は、対象に対する作用の持つ独特な関係性としての志向性に対して不合理に陥らせず、適切な理解を可能にするものとしての「振り幅」を見せる。
「振り幅」内では、結果として「意味」と呼ぶものは、対象から区別され、イディアールな性格を持ち、作用に例化されることで対象的関係を作用に与え、等々の形で特徴付けられることとなる。例えば、作用の持つ対象的関係を、それが例化することによって対象的関係を与えるような《存在者》の導入によって説明するというのは、立場の明確化という意義はあれども、そのままでは無内容に近くなる。したがって、『論理学研究』における意味概念が思弁的な理論構成から要請される特徴付けを超えた、積極的な内実を持つならば、その解析面で鋭い視座を我々(We)が可視化しないといけない。特徴付けされた意味概念に対して。

 だからこそ、アルバム・タイトルは『We're New Here』なのかもしれない。その「We」はギル・スコット・ヘロン、JAMIE XX「以外」を視程に収めてくるとしたら、昨年から続くドキュメンタリーのような、シーンに再帰した彼の道程が今作にして帰着するという感動的な一面もある。JAMIE XXの手腕によるエレクトロニクスの端々が「語る」言葉とギル・スコット・ヘロン自身の「リアルな言葉」が混ざり合った美しい作品だ。我々(We)が感じるべき熱がここにはある。

(松浦達) 

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