S.L.A.C.K.『我時想う愛』(高田音楽制作事務所)

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slack.jpg 正直この作品、彼にとっての3rdアルバムである『我時想う愛』は2ndアルバム『Whalabout』でスラックのファンになった人々にとっては賛否両論ではないかと思う。2ndにおけるスラックに顕著な奇妙に歪んだビートや、エクスペリメンタルなプロダクションは、スムーズでかつメロウなものに取って代わっている。つまり、非常に「聴きやすく」「キャッチー」になっている。あえて乱暴に言うなら、1stアルバム『My Space』収録の「I Know About Shit」「Deep Kiss」におけるジャジ―でソウルフルな路線をアルバム一枚に拡張したと捉えても良いだろう。しかし、そのトラック・メイクのクオリティは格段に上がっていて、「日常において零れ落ちたロマンティシズム」を非常に美しく表現している。

「そういうねじれた感じの曲もちゃんと入ってると思うんですけど、過去の作品はそれを大げさにやってたところがあったというか、もっと自然に出せると思うし、自分で聴いても、まだまだ甘いっすね。」

「もともと自分のなかには色んな面があるというか、別にユルいのだけが売りというわけでもないし、今回に関しては、キャッチーなものが出来たので、みんなも 聴きやすいんじゃないかと思いますね。元々の発想として、俺が聴きたいネタをみんなに聴かせたかったりもするし、自分の音楽センスを見せたいということもあるのかもしれないし、ラップもちょっと変わりましたね。」(*以上の発言は<CLUSTER>2月14日の記事より引用)

 己の変化を自覚しつつも、そこに対しての意識はいつも通り―これは彼の音楽の一つの本質でもあるのだが―「ゆるい」=slack。

 2008年に100枚限定で自主制作で発表した『I'm Serious(好きにやってみた)』によって、その存在が認知され、その翌年2月に1st『My Space』を上梓し、その音楽性はストーンズ・スロウ周辺のアクト(マッドリブやジェイディラなど)と比較された。また、非常にハイスキルでありかつ、日本語と英語の境界が曖昧な発音に満ちた彼のラップは独特のオリジナリティに溢れている。このアルバムには先ほども述べたように今作の音楽性の萌芽となるものがある。しかし、新譜におけるアダルトなムードに満ちたロマンティシズムというよりは、「ダラダラとした日常のワンシーン」と言ったようなダイアリーな意味合いが強く、非常にのんびりとした空気が漂っている。そしてなんと同年11月に2nd『Whalabout』を上梓している。このアルバムは前作における「ダラダラとした日常」の路線を踏襲しながらもメロウでスムーズな前作とは打って変わり、リズムは歪み、メロウネスよりもエクスペリメンタルなプロダクションが目立つようになった。また、リリックにおいても、《俺は自分の足でクラブに行き 自分でフレンズを選び 自分で曲を作る シーンのルールには興味もない Musicのみ Musicのみ》(「That's Me」)など、己のアティテュードを明確に打ち出すようなものが見られるようになった。無論、このようなリリックよりも「適当」などに象徴とされるスラックにおいて一貫しているワードのほうが断然多く使われていることは言っておかなければならないが。
このようなソロ活動の他にも彼は実兄のPUNPEE(彼は昨年、『MIXED BIZNESS』という素晴らしいMIX-CDをリリースした。そこにはヒップホップは勿論、椎名林檎、ゆらゆら帝国、トッド・ラングレンなどの曲が収録されていて、極めて雑食的な彼の音楽性を垣間見ることができる。スラックと並んで最も有望な若手である。)や高校の友人であるGAPPERとともに結成されたPSG(3人のメンバーの頭文字をとって名付けられた)というクル―のメンバーの一人でもあり、『DAVID』というアルバムをリリースしている(こちらも必聴!)。

 彼の過去をざっと俯瞰したところで、彼のよく使うワードであり、同時に彼のオリジナリティの根幹である「適当」というワードについて考えてみよう。

 このワードはある対象への必要以上のコミットメントを避けるアクションを示す。これによって、過剰なコミットメントから生み出されるストレスを回避することができるわけだ。「適当に敬意を 考え込むな」と彼が言うのはそのためである。彼のこの部分を読みとることができないと「メジャーの応援歌系ラップ」や「ヤンキー風味の歌詞」などと彼の表現が矮小化され、揶揄されてしまう(「解釈しようによって」はこれらの表現が該当する部分があるのは事実ではあるが...)。

 批評家の宇野常寛は彼の著書『ゼロ年代の想像力』において、国内における90年代はいわゆる「大きな物語」が失効したため、それが個人の人生を「意味づけ」することが無くなり、そこで生きる人間は「~する/~した」という行為を評価されることではなく「~である/~ではない」というキャラクター的実存において承認を得ようとし、東浩紀の言葉で言えば「動物化」し、その膨大に増幅されてゆく承認欲求が母性(それは自分が「~である」というだけで承認してくれるものである)のディストピア(「セカイ系」もその一端を担う)に陥ったと分析している。そこではさらに無数の「小さな物語」が乱立し、各々が「あえてベタに」己の帰属している「物語」を信じているために、そこはバトルロワイヤル状況に陥ってしまう。

 スラックの「適当」は己が「小さな物語」に属しているのを承知していながらも(《最低限で暮らしたい 意味はない別に やりたいからやってるだけ》「Sin Son(In)」)、その「小さな物語」にすらあまりこだわらないという彼のアティテュードを示している。己の「小さな物語」に寄りかかり過ぎると、それが何らかの形でバトルロワイヤル的な状況に関わってしまう時にストレスになってしまう。だから、彼はその「小さな物語」すらも非常に流動的なものとして捉え、固執することは無い。無論ヒップホップは彼の重要な「物語」で、それを捨てるわけにはいかないだろう。しかし、このレヴューの最初にも示したように、彼は自分自身の行っているヒップホップに対する認識もダラダラと「ゆるい」。つまり彼は、その都度対象に対してこだわりを見せるが結局、それもすぐにどこかに流れていってしまうのだ。スラックの表現における独自性とはこの「流動的な小さな物語」に見出すことができる。

 これが僕のスラックに対しての見方である。しかし、このロマンティシズムに満ちた新譜を聴いて少し疑問に思ったことがある。

《人は常にネガティヴ忘れないよ》(「But Love」)

《いつも思う死ぬ前にきっと もっと行けたなんて想うんじゃないか》(「いつも想う」)

《ふと思う時がある自分の足跡 時々思い描く先の世界を》(「Come inside Pro」)

 これらのリリックを聴いて、このアルバムにあるロマンティシズムと言うのはスラックが本当に「適当」であれば流すことのできた「内省」ではないだろうか。そう、「東京23時」などを聴いて「ロマンティシズム」だと思ったそれは実は「メランコリー」だったのではないだろうか。彼はこのアルバムの冒頭で「テキトー」と自嘲気味に言っているが、その「自嘲」は本当は彼の「適当」が上手くいっていないことへの意識から出たものではないのだろうか。今作を聴いて唯一心残りだったのがその一点である。そして、この答えは彼の次の作品を聴くことによって確かめたいと思う。これはスラック個人の問題ではなく、人間がはたして「流動的な小さな物語」を受け入れることができるかどうかの問題なのだから。

(八木皓平)

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