【合評】レディオヘッド『ザ・キング・オブ・リムス』(Self-Released / XL / Hostess)

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radiohead.jpg 2月14日、レディオヘッドのニュー・アルバム『The King Of Limbs』が週末にリリースされることが突如発表になった。僕はそれをTwitterで知った。その後、彼らのtwitter公式アカウントから、日本語で「渋谷 ハチ公広場 金曜日18時59分」とツイートされ、様々な憶測が流れた。

 結局のところ、渋谷駅前を占拠する3基の巨大ビジョンで、ニュー・アルバムから「Lotus Flower」のPVが世界で最初に流されるということだったらしい。しかし、ライブ・パフォーマンスがおこなわるかもしれないなどといった憶測が流れ、そのことを否定するも渋谷のハチ公前に人が集まり混乱になる可能性が高いということで、日本のレーベル、ホステスから企画自体が中止になった事が発表された。 

 僕自身は午後六時に仕事が終わり、中止になった事を知らぬまま渋谷に向かっている電車の中でその発表について知った。とりあえず様子だけ見ようと思いハチ公広場に向かった。金曜日だった事もありたくさんの人が待ち合わせしていたが、なんとなく普段よりも欧米系の外人の姿が多かったように思えた。何も起こらないのならばと僕は家路を急いだ。 

 その後、もともと予定されていた時間ぐらいに『Lotus Flower』のPVがYouTube上にアップされ、一日前倒しでニューアルバムが「今すぐ発売」となって配信開始された。僕もTwitterのTLを眺めながら予約していたのでダウンロードを開始した。トラフィックがあまりに混みあっていたせいか最初はうまくいかずにいたが、数分後にはダウンロードできた。一通り全八曲を聴いた時に二曲目『Morning Mr Magpie』と七曲目『Give Up The Ghost』と八曲目『Separator』が特にいいなと思い、その後も何度も繰り返してアルバムを通して聴いた。 

 全体的にはなんというかしなやかなダンスを見ている体験を聴いたようなリズムというのだろうか、僕の中にゆっくりと溶け込んでいくような音だった。『Lotus Flower』のPVでトム・ヨークがダンスしているせいかもしれないがそんなイメージ。ちなみにそんなPV監督はブラー「Coffee & TV」などでも有名で、以前に僕もレヴューを書いた『リトル・ランボーズ』のガース・ジェニングス。 

 このアルバムに付属するもの全てがこのアルバム『The King of Limbs』ではないかと何度も聴きながら思う。そこで思い出したのが大塚英志著『定本物語消費論』だった。 

「1980年代の終わりに、子供たちは『ビックリマンチョコレート』のシールを集め、『人面犬』などの都市伝説に熱狂した。それは消費者が商品の作り手が作りだした物語に満足できず、消費者自らの手で物語を作り上げる時代の予兆であった。1989年に於ける「大きな物語」の終焉を出発点に、読者が自分たちが消費する物語を自分たちで捏造する時代の到来を予見した幻の消費論」(本の裏面の紹介文より)

「『ビックリマン』において子供たちは、一枚一枚のシールという目に見える商品を購入することを通じて、実はその背後にある『ビックリマン神話』を手に入れようとしていた。商品の実体はシールでも、ましてやチョコレートでもなく、<神話>そのものだったのである。『ドラクエ』や『ファイブスター物語』でもそれは変わらない。消費者は<神話>や<歴史>の全体像を知る手段として、その断片であるソフトやコミックを買うのだといえる」(文庫版 P66より) 

 音源のダウンロードではシールのような実物ではなくデータであるので目には見えないが、ネット上でリリースされることやTwitterでの告知やそれにまつわるツイートなどが可視化される。そして中止になっても知らないでハチ公前に集まった人達が期待していたのは<神話>や<歴史>をニューアルバムについての何かがハチ公前で起きる事が目の前で起こるだろうという期待、それは一種の<祭り>であった。大規模なものではないにしても、リアルタイムで流され拡散される情報によりレディオヘッドに期待する人、洋楽ロックに興味ある人がネットを通じてその祭りに参加しようと期待値を膨らませていた。その流れも今回のアルバムには付随してしまうものだった。 

 中止になったからこそすぐに前倒しでダウンロードを始める事で、この祭りは不満で潰される事なく哀しみの後の喜びのように届けられた。現実において彼らの音は届いた。だが、彼らが今まで作りだしてきた音楽にあるリズムとそのメッセージ性が、現実の中において、聴けば聴くほどにある種の形を僕の中で作りだして行く。 

 僕がそうやって<祭り>だったり<祝祭性>という言葉を使うようになったのは社会学者・鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』を読んでからだが、彼は本文を始める最初の「ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常」において、  こう書いている。

「夢を語る/騙ることが問題なのではなく、こうも容易くたくさんの夢を見ることができる時代に、なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないでいるのかについて考えるのが、本書の役割であるのだから」(P12より) 

 さきほど引用した『定本物語消費論』の著者である大塚英志は、かつて『MADARA』という漫画の原作を手がけている。その作品はメディアミックスされ、今の角川書店におけるメディアミックスの基になっていると彼は主張しているのだが、そこにあった一筋縄ではいかない顛末の結果として『MADARA』という言葉をタイトルからはずし、"終わらす為に書いた"作品『僕は天使の羽を踏まない』の文庫後書きにて、こう書いている。 

「ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある」(文庫版 P282より) 

 僕がずっとレディオヘッドに感じていた事は、彼らの音楽は夢を見せるものではなく醒まさせる事にある音楽という事だ。ラストの八曲目『Separator』の最後で「wake me up」とトムが何度も歌っているように。

(碇本学) 

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radiohead.jpg「作者」が表現の全体を把握し、「読者」は作者の唯一のメッセージを読み取る「解読」を行っていた時代では、その主従関係のバランスとともに表現の隷属者であったのは作者なのか読者なのか、曖昧であった。しかし、今や「作者」がその特権的な位置を消失した現在において、読者はどのような視角を持って「作者」に対峙すればよいのだろうか? ミスリーディングされた道をそのまま辿り、適度な場所で自戒すればいいのか、複数の意味を見出せばいいのか、幾つでも選択肢は「拡がった」中で、審美眼は読者側に預けられることになった。これが、所謂、「作者の死」を巡る基礎概念だ。

 読者とは、あるエクリチュ-ルを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。(略)読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かに過ぎない。(ロラン・バルト『テクストの快楽』より)

「誰か」は「僕」かもしれないし、「君」かもしれない。そうだとしたら、『Kid A』とはまさに「誰も」であった。それはレディオヘッド自身を映した鏡面であったのかもしれないし、今更、新しい装置としてのロックを起動させるという意味を避ける為の潜航だったような気もする。

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 2月14日にオフィシャル・サイトでふとポストされた新しいアルバム『The King Of Limbs』のリリース告知と、その後の過度な盛り上がりと、レディオヘッド側のまどろっこしいマーケティング手法には個人的に少し消耗するものがあった。『In Rainbows』のときも、急遽、買い手側の言い値方式のリリースを敢行し、話題になったが、それは彼らがレコード・レーベルの契約に振り回されていない身分であるということよりも、セールス・ポテンシャルが強い自分たちを用いた実験のような、遊びのようなものが見えた。「システムとして新しい」、「既存のリリース・スタイルを変えた」など多くの賛美の声も寄せられたが、それは部分的な変化であり、全体様式としての影響とはまたセパレートして語られる知的な蛮行だったと思う。その"知的な蛮行"というイロニカルな要素がレディオヘッドの良い要素でもあった訳だが、今回の彼らの「仕掛け」はどうにも野暮ったく、"物語なき時代"における謎解きとしての面白さ以上の付加的要素を見ることができなかった。

 現代の状況においては、パラダイムに忠実であるか、パラダイムから自由であるか、といったことはもはや重要な問題ではないだろう。社会・経済的環境の変化、とりわけコンピュータやそのネットワークの加速度的な発達は、科学研究のスタイルにも、その中身にも大きな影響を与えている。すなわち、科学研究も含めた知識生産の様式(Mode)が大きく変化しつつある。というより部分的には、すでに変化してしまったのである。(M・ギボンズ、1998年)

 例のレディオヘッドのオフィシャル・ツイッターで2月17日にツイートされた「渋谷 ハチ公広場 金曜日 18時59分」を受けて、渋谷で大々的に流れるはずだったかもしれない(※企画が中止されたので、もはや真偽は分からないが。)トム・ヨークがダンスする「Lotus Flower」のモノクロームのPVは鮮やかで、また、曲も以前からライヴでは発表されていたものの、ダブ・ステップ経由のビート・メイクと幾層ものエレクトロニクスが神経症気味に絡みつく優美なアレンジに着地していたのは流石だと感じた。DEAD AIR SPACE(彼らのウェブサイト)のオフィス・チャートでAPPARAT「King Of Clubs」、ブリアル「South London Boroughs」、ローン(LONE)「Angel Brain」などの曲をポストしていたことからの影響も伺える音の肌理細やかさをそこには感じることが出来たからだ。そこに、《I'll set you free》、《Listen your heart》といったフレーズがトムのか細い声で紡がれる。個人的には、この曲を聴く分には、『Kid A』以上にバンド・サウンドとしてのダイナミクスを感じないのに不安になったが、アルバム自体はよりサウンド・テクスチャーの面で明らかに「細部に降りてゆく」ことは何となく想像していた。

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 このアルバムに至るまでの最近の経緯を簡単に追ってみよう。

 09年には、第一次大戦を戦った最後の元英陸軍兵、ハリー・パッチ氏の05年のTODAYのインタヴューをトム・ヨークが聞き、インスパイアされて作ったという「Harry Patch(In Memory Of)」と、「These Are My Twisted Words」という今回のアルバムに向けてなのか、レコーディングを行っていた最初期に録り終えた曲をダウンロード・リリースするものの、ストリングスが優雅な前者、ブレイクビーツに「Palo Alto」のような不穏なサウンドが被さるラフで実験性の高い後者といい、どちらも具体的なアルバムへの道筋を付けるという曲ではなく、単体としての意味が大きかった。2010年の1月にはLAでナイジェル・ゴドリッチとレコーディングを行なっているとの情報が入り、その後も、各々メンバーのコメントはどうにも歯切れが悪いものが多く、「出来上がっている」、「殆ど完成しそうなんだ」と、ファンはその都度、振り回されたまま、2010年内のリリースは無かった。しかし、周知の通り、トム・ヨークのフライング・ロータスの作品への客演やレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーなどと組んだアトムス・フォー・ピース名義でのバンド活動、ドラマーのフィル・セルウェイの滋味深いソロ・アルバム、ジョニー・グリーンウッドの手掛けた『ノルウェイの森』のサウンドトラック等の課外活動は盛んだった。

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 昨年、フジロックで観たアトムス・フォー・ピースのライヴで、トム・ヨークのソロ・パートで、弾き語りで今回の『The King Of Limbs』にも入っている「Give Up The Ghost」を聴いたとき、メロディーオリエンティッドなものをより離れ、全体の音像として聴かせるようなミュジーク・コンクレート(Musique Concrète)へより接近してゆくのではないか、という想いも少し抱いていた。その想いは半分、当たっていたような気もするものの、半分は外れていた。何故ならば、『King Of Limbs』の8曲、40分にも満たない内容の中で、展開されるミニマルに刻まれたリズムとより精度が極められたビートはまるで、ドナルド・ジャッドの『無題』の絵を見ているかのような気分にもなったからだ。

 例えば、音楽としての進歩体系の一つかもしれない「トータル・セリエズム」とは、音楽家サイドからは知的な音楽の構築姿勢として捉えることも出来たかもしれないが、大半の「保守」的な聴衆には、無規則な音の羅列に対して距離を置いてしまったのではないか、という疑念は歴史上、何度も検討されてきた。トータル・セリエズムの起点としては、「人間が聴くことが出来る情報処理能力の有限性」への懐疑があった。初期のトータル・セリエリズム楽曲の演奏は誤りが多く、それを聴く聴衆側の耳も誤解が多かったゆえに深刻化した問題を克服するために、「ポスト・セリエル」へとモードが転回されていく訳だが、ここで大きな点として、こういった音楽の発展らしき何かと比して「聴衆不在の音楽」としての背景も忖度せざるを得ない憂慮があった。今回、レディオヘッドの作品は『Kid A』とは違った形での(つまり、"拒絶"ではない)「聴衆不在」の音楽のような気もする。ミニマル・ミュージックがときに「ニュー・シンプリシティ」と言われるのに対して、彼らの音はより複雑になっているからこそ、この複雑さが何を規定してくるのか、今の僕には見えないのだ。

 前半4曲までには、ヨーロッパのディープ・ミニマル・シーンとの共振を感じさせるとともに、クラウト・ロック、つまりカンやノイ!辺りの60年代末から70年代初めにかけて西ドイツに登場した実験的バンド群のリズムからの影響も垣間見える。2曲目の「Morning Mr.Maggie」は、前作の「15 Step」がよりリズムを細かく刻まれ、音響的な"含み"を持たせたという印象も持ったが、ドラスティックな曲展開が「起こらない」という点で、カタルシスのポイントがサウンドのダイナミクスではなく、緻密に編まれた電子音そのものへの意識付けによって為されるとしたら、この書簡は届けられるのか、疑念を呈さざるを得ない。アドルノが言うような、「誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる音楽には、音楽家と聴衆との間に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている」としたならば、『King Of Limbs』の描く希望とは何なのか。それは、これまでの彼らのサウンド・ヴォキャブラリーが今の形で再構築された佳曲「Lotus Flower」や柔和なピアノ・バラッド「Codex」などが入る後半の4曲を聴いても、よく分からない。

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 この作品は、大文字の「ロック」を別に進化させるものでも、再定義を迫るものでもないが、音楽が音楽そのものとして語られるべき強度を持っているのは興味深い。そして、映画『ソーシャル・ネットワーク』の予告編でベルギーの少女合唱団スカラ(Scala & Kolacny Brothers)が朗々と歌っていた彼らの初期の代表曲「Creep」を対象化させる「速度」に溢れた作品である。この作品が「過ぎた」跡に、蓮花(Lotus Flower)が咲くとしたならば、それはそれで何て救いのないことだろう、と思いもするが、レディオヘッドというバンド体としての名義で音楽を「音楽」に戻そうとした意味で、今回は「聴衆の不在」ではなく、「非在」の場所を目指したのかもしれない。そう考えると、ライヴではどんな形で再現されるかどうかの観点は別にして、バンドとしてのダイナミクスや力学を感じないのも納得がいく。

 08年のダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ(Dan Le Sac Vs Scroobius Pip、UKのヒップホップ・エレクトロ・デュオ)のシニカルな歌詞を改めて噛み締めてみるにはいい時期なのかもしれない。この作品が「批評」される磁場に僕は興味がある。

《No matter how great they are, or were.Radiohead, just a band.》
(ダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ「Thou Shalt Always Kill」より)

(松浦達)

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