ノ―・エイジの傲慢さ

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3日連続でお送りするこのコーナー。今回の筆者はアーケイド・ファイア論に引き続き八木皓平さんで、タイトルは「ノ―・エイジの傲慢さ」。ご存じのとおり、ノー・エイジはつい数日前に来日公演を終えたばかり。なんてすばらしいタイミング(この原稿もずいぶん前に送られていたものなのでした)!

ノー・エイジというのは語りがいがある...というか、知らない人に良さを説明するのが難しいバンドという印象が個人的にある。何か決定的なリフやメロディが存在するわけでもない。だが、まちがいなくクール。07年渋谷o-nestでの初来日公演(そんなにお客さんは入ってなかった)を僕は観ているが、「ハードコアあがりの人が機材と瞬発力を駆使して面白いことをやっている」という印象で、面白いには面白いが、これならライトニング・ボルトやヘラあたりのほうが凄くね? と思った記憶がある。彼らはピッチフォークの絶賛で火がつき、次いで日本でも若い音楽ファンを中心に人気バンドのひとつとなり、チケット代も一気に高騰した。08年の『Nouns』はアートワークも含めて格別なアルバムだったと思う。昨今の音楽業界のいろいろな物事を象徴しているバンドだ。

もちろん魅力的なバンドには違いないが、八木さんはいろいろ思うところがあったようだ。こちらも文章の感想に限らず、ライブの感想でもバンド/作品論でも何でもドシドシご意見お送りいただけると幸いです。ツイッター上でもハッシュタグとか使って議論が巻き起こったりしたら嬉しいし、健全でいいなぁと個人的には思います。

では、どうぞ!

(小熊俊哉)

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 シューゲイザ―というジャンルの名は周知のように、その括りに押し込められるアクトたちがみな靴を見ながら(=内向的態度)ノイジーなギターをかきならすことに起因する。そして昨今、USにおけるインディーアクトの中ではそのシューゲイズを再解釈したアクトたちが散見され、彼らはネオ・ゲイザ―と呼ばれた。彼らがUKで発生したそれをなぜ今、USでシューゲイズしているのか、どうシューゲイズしているのか、とても興味深いところではある。だが、ここではそういった状況論による読解からは少し距離を取った分析をしてみたいと思う。本稿で論じる対象であるノ―・エイジはそのネオ・ゲイザ―の旗手としてもてはやされたアクトの一つである。今のところ彼らは2枚のフルアルバムを上梓している。それらを順に分析してゆくことでこのアクトの表現における状況論的分析からは零れ落ちるであろう特性を抽出してゆきたいと思う。まずは彼らのデビュー・アルバム『Nouns』から。

≪俺たちが苦しむのは当然さ/過去に閉じこもるしかないのさ/辛いよ/君がいない/なんとかしようとしてはいるけど/泣きたくならないのかい/俺なら思いきり口に出してみるな/とたんに気が変わるかもしれないけど/頑張ろうなんて気もしなくてさ/疲れるから≫

 『Nouns』収録の「Cappo」でその儚く揺らめきながら吐きだされるギターノイズに埋もれながら彼らはこう歌っている。必然的な実存における苦しみのために彼らは自ら過去に閉じこもることを仕方なしと歌う。だが彼らは同時にその苦しみを口に出すことを促すこともする。しかしそこで口にしたことはすぐにけだるさに包み込まれ、どこにも向かうことは無い。『Nouns』はこのどうしようもない無力感とけだるさを内包し、それがある種バイオレンスな形でセンチメントを構成している。ひたすら垂れ流されるギターノイズとそこに溺れるヴォーカル、そして起伏の無い、ストイックな(しかしラウドではある)ドラムスが絡み合った時に零れ落ちる、実存の透明感ゆえの苦しみに苛まれる自己の寄る辺なきエモ―ションが聴き手の琴線に触れる。

 ここで唐突に少し視点を変えて彼らの言葉を吟味してみようと思う。この彼らの特異的な奇妙さは聴き手の笑いを誘うこともあるだろう。その特異的な奇妙さとは彼らの詞における「俺」の傲慢さである。

≪俺の罪なんてお前のかける電話程度の悪ささ/気色悪いガキ、おまえを見たぜ/気色悪いガキ、好き勝手し放題/俺はあんなふうにはならないさ≫(「Teen creeps」)
≪Baby、君のおかげで心は真っ暗さ≫(「Here should be my home」)
≪俺を安心と思うならお前は終わっている/俺が平和な南の島ならお前は闇夜の海/お前はつまらない奴さ≫(「Ripped knees」)
≪どうにも気に入らない、それが今の俺/どう見ても悪いのは警察だろう/俺一人じゃない、学校には痛い目にあってもらおう≫(「Brain burner」)

 行き場を失った子供たちが手当たり次第周りに「やつあたり」をしているようだ。己に降りかかる苦しみは自分のせいではなく、あくまで周りのせいであるというこの認識がこのアルバムを覆うある種の諦念を突き破り、「笑い」を生み出す。シューゲイザ―はその音楽/社会に対するアティテュードのモノローグ性(むしろ盲目性と言うべきか)がしばしば取り上げられることがあるが、かれらにとってはそのシューゲイズは「やつあたり」という形で社会と関わってゆく、というモノローグ性から非常に屈折した形で逸脱してゆくと考えられないこともない。そして、このアクトにとっての「俺」は私小説的というには「語り手の歴史」が見えてこないし、記号的というには生々しいアウラを纏っている。この宙吊りの構造も彼らの表現を豊かなものにしている原因の一つであろう。私小説的になってしまうとそのモノローグ性が際立ってしまい、記号的なものになってしまうとその意味はノイズの中に埋没し、輝きを失ってしまう。

 発売当時、『Nouns』をこのように好意的に捉えていたのだが、実は少々疑問に残る部分もあった。この「やつあたり」はさらに「モノローグ」を強化してゆく結果になるのではないか。そして彼らの詞に出てくる「俺」の諦念は一体どの程度「メタ」でどの程度「ベタ」なのであろうか。「ベタ」だとするとこのアルバムを覆う諦念に喜んで身を任せて良いものなのか。なぜならば、「ベタ」な「やつあたり」は「メタ」なものとは異なり、先ほど述べたような奇形な仕方での「社会への参入」ではなく、「社会への断絶欲求」となり変わってしまい、その「モノローグ性の再強化」になってしまう。そして彼らがこの不明瞭な「ベタさ」をどのように扱ってゆくのかが気になった。このまま「自己」=「俺」が肥大化してゆくのか、それともそのような「自己」を対象化することによって何らかの形でこの課題をクリアしてゆくのか。

 ここで先月上梓された(*執筆時点で)新譜『Everything in between』について考察してゆこう。

≪僕は君が欲しくてたまらないんだ≫

 これは2曲目「Glitter」における詞である。これほどまでにストレートに「君」に対する言葉を彼らが放つようになるとは思いもしなかった。他にもこのアルバムにはかなり直接的な言葉が散見される。諦念を抱えて自分とそれでも何かを諦められない自分が絡み合ってそれが「やつあたり」となり、言葉が紡がれた1stとは言葉の質において大きな差異が見られる。

 最初に言っておくが、各メディアにおいて見られる、「ノ―・エイジの新譜ポジティヴ説」は完全に間違いである。その詞においてはポジティヴィティとは明確に断絶した深層を呈している。断片的な言葉を連ねることによってその「やつあたり」性が漲っていた前作とは異なり、この新譜においては長い「何か」についての物語が描かれている。そして、その「何か」とは「僕」と「君」についての物語である。しかし、ノ―エイジにおいては勿論その物語は理路整然とした身体を獲得しているわけではない。それは関節も骨格もバラバラで、複雑な形で象られている。言うまでもなく「セカイ系」のような「生真面目な」現実逃避をすることも無い。

≪僕には時間が無い/君に残せるものは何もない≫(「Life prowler」)
≪君は僕を求める/僕がいないときに限って≫(「Fever dreaming」)
≪君は僕を信じていない≫(「Skinned」)
≪君はどこにもいない/君なしであちこちを走り回る≫(「Sorts」)

 このアルバムには「僕」と「君」の洪水が流れている。しかし、それはそれぞれが二つの流れに別れていて、決して交わりはしない。徹頭徹尾「やつあたり」的であった前作の影はここでは消え失せてしまっている。前作では「やつあたり」によって茶化され、どこか記号的でもあった諦念がここでは「僕」の「君」に対する想いの幻滅として全編に広がっている。ここで記されている「君」と「僕」が精神的に会合することは一瞬たりともありえない。「僕」は「君」を求め続けるばかりである。「僕」にとっては「君」は常に「存在しない」という形で存在し続けている。そしてそのことによって「僕」は存在し続けている。「君」が「無い」ということによって「君」を想う「僕」が存在しているかのようだ。つまり「僕」というものが成立するためには「君」がそこにいない、と言うことが条件となっていると言えるだろう。つまりここにおける「僕」は大事なものの欠落によってその存在が保証されているのだ。

 このように読み取ってゆくと実は前作における「やつあたり」は消えているものの、その「傲慢さ」は新譜にも引き継がれている。その「傲慢さ」とは先ほど述べた、己の実存の定位である。それはつまり、自分を存在させるために交わり得ない「君」を創り出す、という「傲慢さ」である。欠落を主体として構成されたナルシズムによって生き続ける僕は当然のごとく「作り上げた君」の欠落を追い続けなければならない。つまり彼らは「やつあたり」という極めて幼児的「傲慢」さから離脱し、次にまた別の「傲慢」さによって己を存在させたのである。

 ここまで読みとってわからないのは彼らの「僕」がいったい何なのかということだ。もちろん、彼らの詞世界における「僕」の成分比などに興味は無い。しかし、それほどまでに存在させたい「僕」とは一体何なのだろうかと考えてしまう。これはノ―・エイジ固有の問題なのではなく、物語を紡ぐ表現全てに付きまとう問題であり、物語に登場する主語の正体は読みとり手にとってはなかなかに気になるものだ。

「この狭い世界だけを確実なものと信じ、この世界の中だけで自得するより正しい道は無いと覚悟する、それが文学者の覚悟だと思う。(中略)今日は個人主義思想はもうはやらないのだそうですが、はやらなくなっても、人間いかに生くべきかは各自の工夫を要することに変わりはあるまい。」

 小林秀雄はこれを二宮尊徳(いうまでもなく二宮金次郎のことである)の説としながら文学者にとっての思考の限界を「おのれの世界」と定めている。この「おのれの世界」というのは「観念の上の自我」ではなく、人間ひとりひとりが「直接」経験することができる世界であるという。つまり、文学者においてはその文学者が「本当に憎んだり愛したり、腹から合点したりしている」ことが重要であり、そうでなければ彼が紡ぎ出す文章に説得力が生まれず、それを読む人々はなかなか納得がいかないということである。

 ここで言う「文学者」を「音楽家」など全てのアーティストに当てはまるとしたらどうなるのだろうか。このある種決断主義的な覚悟がなければ本当に人を感動させられるものは作れないのだろうか。そしてノー・エイジが語る「俺」「僕」とは小林秀雄的な意味における自分の世界だけが確かなものであるという覚悟を決めた「おのれ」なのだろうか。アートにおける「おのれ」というものがどう定位されうるのか。このことはまた、別の機会に考えてみたい。

(八木皓平)

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